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【映画評】宮崎駿監督『風立ちぬ』(2013)

 滑空する戦闘機の背後にも低い声が不気味に響き、男たちの未来に影を投げかける。手放しでは祝福されない男の「飛行」、死を目前にしてしか肯定されない女の「性」。宮崎のタナトス。
 『風立ちぬ』では―それが紙飛行機であろうが、戦闘機であろうが―飛行機の離陸と墜落(ないし着陸失敗)のシーンばかりが繰り返される。ただ一度、試作機が着陸に成功するとき、主人公の心は既にそこにない。その後離陸したゼロ戦は一機も帰還しない。死者の魂だけが「ずっと風であること」を許される。Le vent se lève(風立ちぬ). Il faut tenter de vivre(いざ生きめやも). 菜穂子と二郎の間で交される二つの詩句、その間をこの作品は繋ぐ。「風」はそれが起こった瞬間、既に「死」を孕むが故に「あなた生きて」との言葉で肯定されねばならぬ。
 本作における「煙」は「死を孕む風」を視覚化する装置としてある。飛行機や汽車の吐く、そして男たちが吐く(煙草の)「(副流)煙」—それを軍国主義といっても構わぬが—を病床の女は「ここで吸って」といって吸い続けるだろう。『風立ちぬ』、「煙」の交換・共有によって刹那的に成就する恋の物語。
 しかし、庵野の発音する Il faut tenter de vivre(イル・フォ・トンテ・ドゥ・ヴィヴル)=「いざ生めやも」がどうしても Ils font tenter de vivre(イル・フォン・トンテ・ドゥ・ヴィヴル)「彼らは生きようと試みさせる」(無理訳)にしか聞こえず。

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