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人生は漫画のコマである ー高野文子「奥村さんのお茄子」ー 3話

 ここで作品を離れ、漫画のコマについてその成り立ちと意義を考えてみたい。

 手塚治虫は当時の映画を参考に現代の漫画のコマ使いの漫画スタイルを完成させた。私は手塚先生や漫画の研究者ではないので、詳しい事実関係は知らないが、「新宝島」を見ればその影響は一目瞭然である。3次元空間の被写体の運動を複数のカメラで撮影し、そこからコマを選んで時間の順番に並べることで映画のような動きあるシーンがケント紙のコマの中で再現できている。余計な書き込みもないのでペンのタッチと絵全体が生き生きしている。

 ここで手塚治虫は映画から運動を表現する方法を承継しているといえる。その一方で、ハイスピードの動きをコマで描くのは手作業では映画には及ばないという限界も示しているとも言えよう。

 ところが高野文子のコマはの作り方は手塚治虫のやり方と異なる。それはコマとコマの間にある時間の存在の自覚、コマの外側の見えない世界の諦め(これらはそのままの人間の視覚ではないだろうか)である。つまりは漫画の表現におけるコマが限られた個数なのは、手作業では作るのが大変だからという消極的な理由ではなく、実際にヒトが視覚・記憶するコマ数がその程度だという積極的な意味を持つものである。

 若干、理屈っぽい話になってしまうが、ヒトがモノを見る時のことを説明してみよう。ヒトは、テレビ(レコーダ)のように毎秒60枚の情報を動画をそのまま(符号化含む)フレームとして脳のどこかに並べて識別して知覚するような能力は持ち合わせていない。網膜の投影された映像は視神経(桿体や錐体)から大脳の視覚野に伝わる。確かに視神経の応答性は毎秒数十フレームに対する時間応答性が確認されているし、実際にフレーム数を切り替えた映像の優劣は識別できる。ただ視神経はCCDセンサー同様に次々入って光で上書きされるし、大脳の視覚野に到達する前に多くの捨てられていると思われる(ニューラルネットの重み係数が小さければ発火しない) 入力情報の欠落を補うべく脳内で記憶した情報から今見ようとしている映像を再合成することはあるだろう。

これ以上はサイエンスに依拠した議論は繰り返さないが、少なくとも直感的かつ身体的根拠を背景に、多少理屈をもった説明をするのであれば、この作品の冒頭5コマがリアルに感じられる理由は、その光景は日常的というだけではなく、いつも私たちはこういう風に世界を見ているからではないだろうか。5コマそれぞれの間の時間におきたことは、最初から頭には入ってきていないのだ。

 そのような仮定のもとで、最初の5コマを丹念に(著者が拘って描いたその情熱と執念に応えるように)読み解いてみると、商店街の道幅が自動車一方通行4メートルかと想像する。蕎麦屋と両隣の店の一部までは横幅6メートル。平均的な歩行者であれば6秒で移動する。数値はおおよその目安としてご容赦いただくとして、冒頭の5コマは6秒(10秒未満)のできごとと解釈できる。ここで主人公の若い女性の発する台詞を音読して計算してみると15秒ぐらいはかかっているように思える(いきなり話かけた際の間の取り方も大きい)。ここは高野文子のご本人のドラマ設計の範囲なので、どちらが正しい等についての追及にはあまり意味もないが、歩行者の動きと台詞の量から総合的に判断しても10秒から15秒のシーンであることにあたらめて気が付く。

 ヒトの網膜からその下のニューロンを経ての入力バッファのような視覚までは10秒間だったら何コマなのか、サイエンスの通説はここではスルーして、自分の生理感覚として5コマぐらいの視覚情報として(いつまで保存されるかは知らないが)入力されているということになろうか。

 漫画のコマの一般論としてもう1つの重要なのはコマは有限の視野角の情報しかとらえることができないということである。映画であれば、戦国時代の合戦絵巻など広大なシーンを広視野角(被写界深度)のカメラで撮影し、デジタルカメラが高解像度であれば、あとからそこだけ引き延ばした絵作りも可能であろう。

 高野文子の漫画には意表をつくよう位置からの狭い視野角のコマに満ち溢れていて読者を楽しませてくれる。その驚きは新しい視点を発見したというよりも、読者が一度はこうやってみたことのある光景のコマが目の前の漫画に現れているという再会の驚きではないだろうか。

 ヒトの視覚能力にあっては、おそらくは数十ミリよりも速い動きの現象も物(UFO含む)も知覚することはできない。つまりはそのような世界は存在しないに等しい(現象学か)。また眼球の視野角の外側にある現象も知覚できない、つまりは存在しないに等しい。

 このように高野文子の漫画のコマづくりにはヒトが経験的/生理的に見えているものをそのまま漫画として見せてくれる(見えているものの有難さと見ることのできないものの切なさ)。それはアクション映画の眩暈のするようなスピードを描く芸術とは異なるし、それを範として追従しようとしているCGアニメーションとも大きく異なるのだ。

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