死を想えど、悟ったふりもできなくて : “Beyond Imagining” by Lore Segal
読んだ直後には深く感動せずとも、数日かけてポコリポコリと感想が浮かんでくるうちに、気がつけば大のお気に入りになっている。何日もかけて意識の裏側で消化をして、ある時を境にさまざまな言葉が自分の経験と結びつき飛び出してくる。色々な小説を読み漁っていると、時たまそんな作品との出会いがある。先日のthe New Yorkerに掲載されたLore Segalによる短編 “Beyond Imagining”とは、まさにそういう類の出会い方をした。
この作品は、老年の女性たちによるランチ・パーティーの議事録という形で進行する。友人たちの間で豊かなユーモアと共に交わされる軽快な会話が特徴的だが、新型ウイルスの流行に伴ってZoomでの会合に移行するなど、同じ時代を生きるリアルな人物としての描写にも長けている。歳をとって体は動かなくなるし、知人友人はどんどん世を去っていくし、大人になった子供や孫の話で盛り上がる…。若人の成熟に至るストーリーがComing-of-ageなら、世を去り行く老年のリアルを的確に描き上げた文学はなんと呼ばれるのだろう。
等身大の老人たち
私はまだ20代前半の若者なので、老年時代がどのようなものかは、先人たちの話を聞くことでしか想像できない。幼い頃の記憶を辿ると、80-90代の人たちの中には、棺桶に入ることをジョークにし、死の恐ろしさを飄々と躱し、悟った心持を語ってくれた人が多くいたように思う。しかしそういった逞しさや気丈な振る舞いだけを抜き出して眺めると、彼ら/彼女らをどこか達観した、仙人のように遠い存在として捉えてしまうように思う。“Beyond Imagining”の好きなところは、そのタイトル通り、何十年という長い時間を生きても、どんなに多くの出来事を乗り越えても、死を迎えるということは「想像の遥か彼方」である、というところ。このアプローチは、人生の終盤に向き合う人々を、自分たちと同じ、生身で等身大の人間として見せてくれるので好きだ。老人を若者と別の生物のように扱わず、何年経っても未熟な人間として受け入れる動きは、ここ数年、世界文学のあちこちで見かける。
死は全ての人に未知のまま
私は好きな本を集めるのが好きだ。蔵書は人を写す鏡のごとく、蔵書を見ればなんとなくその人の歴史が見える気がする。これまで自分の時間を築いてくれた本を大切に書棚に収め、日々ホコリを払って手入れをする。しかしここ数ヶ月、引っ越しのために荷物を減らし続けるうちに、大切なコレクションの保っていた地位が少しずつ揺らいでいったことがあった。“Beyond Imagining”では、メンバーの一人であるHopeが、何十年もかけて集め続けた山のような雑誌の切り抜きを、孫のために部屋を空けるべく捨てるという決断に至った。生涯をかけたコレクションだって、死後に残される家族にとってはただの”お荷物”でしかない。死後の世界を知る生者は居ないにしても、死んだ後にモノを山ほど持っていけないことは確かである。それでもきっと、このことを肉薄した事実として捉えて受け入れるのは、老年においても全く容易ではない。
モノを集めることの虚しさに対抗するのは、いつだって記憶の価値だろう。大切な人への愛、理解、思い出はモノに頼らずともそこにあるし、死ぬまで抱えていける…というのも、この作品では意外と脆い幻想として捉えられている。ランチメンバーの一人であるRuthはある時から"brain cancer"を患い、記憶や脳機能を失いながら死んでゆく。毎週のように会っていたColinが死んでいることも忘れ、うつろに声を出すRuthの様子は、どんなに親しい人との記憶でさえ、病や死の前には消えゆくことを示している。
メンバーが一人、また一人と亡くなってゆくランチ・パーティーの中で、残された女性たちがたどり着いた言葉が印象的だった。これは何かのメタファーだとか解釈をするよりも、抗いようがないほど未知な死にゆっくりと向かう一人間として、彼女たちと同じ目線であがく者として、素直に捉えたいと思う。
同時に作者インタビューも掲載されていたので、気に入った人はぜひ読んでほしい。作者のLore Segalさんは現在96歳。作中で目が見えなくなり、これまでの生活が困難になっていくFarahの様子を、"like an immigration into a new country"と表現していたのが印象的だった。
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