10 ◯◯県知事のパワハラ問題は普遍的に起こりうる 〜おごる首長は裸の王様〜
これは、あくまで、フィクションです。その点を十分、ご理解ください。
最近、どこぞの県知事さんが、パワハラで、世の中を相当賑わしていました。亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、ご遺族の方にはお悔やみを申し上げます。また、被害にあわれた方々にお見舞いを申し上げます。
県知事ともあろうものが、と思うと思いますが、実は、県知事や市長、町村長の方が、パワハラを起こしやすい立場なのです。
パワハラの定義は、職場での優位な関係を利用して、業務の範囲外のことを、反復的に要求するということだといわれています。
ここでいう、業務の範囲外とは、文字通り、タバコ買ってきてよなど、私的な用事を頼むなどが代表的ですが、仕事上の指導の域を超えて、過度に攻撃的な態度を取るとなども含まれます。また、通常の業務量を超えて、大量の業務をさせるとか。さらに、反復的なので、何度も何度も人格否定的な発言をするとか、事象は違っても、同じような過度の指導?を行うとかも、含まれます。
(1) 県民の付託を受けた為政者という大義名分
そもそも知事(市町村長などの首長も)は、選挙による選挙民の選択という経過を経ており、実際は白紙委任状ではないとしても、その過程を経ることによって、県民(住民)の負託を受けて、知事という地方公共団体の最高責任者という、重責を担っています。
これだけでも、当然、尊敬されてしかるべきで、その意思や意見は、理論的に、県民の意向を代弁したものと言っても過言ではありません。
つまり、選挙という手続きを経ることによって、知事個人の考えや意見が、県民の考えや意見にスーパー・バージョンアップするのです。単に、その組織の長の意見という内部的な正当性だけでなく、外部的な正当性も手に入れる。まさに、鬼に金棒です。
そして、地方公務員の掟ともいうべき、「上司の命令には従う」。地方公務員法では、上司の職務上の命令には従わなければならないとあります。知事は究極の上司なので、知事のいうことが明らかに違法でない限り、その命令に従わなければなりません。従わなければ、法律違反です。
県民から信任を受けた政策を実行せよとの命令があれば、それがたとえ、どんなに陳腐な政策であろうが、実行しなければならない。それが、「トラフィックセイフティ・ニューフロンティア」という交通安全を焼き直して、馬鹿みたいに無駄金を注ぎ込んでいる施策であろうと、実行せざるを得ない。「未事故」サミットで、MITや国連機関も参加しますっていう何の毒にも薬にもならないもので税金をドブに捨ててるようなイベントでも、知事がやれと言えば違法でない限り、やらなきゃならない。
そんなヘンテコな構造になっているのです。従って、職員がやる気を持ってことに当たれるかどうかは、本当に知事の頭の良さ次第、つまり政策の良しあし次第となっています。
もし、そんなの税金の無駄遣いだから、やりたくないとか、そこまでひどくなくでも、知事のいうことも大事だけど、こっちの方がもっと大事じゃないですかとか、と言って、機嫌を損ねようものなら、大変です。どのように大変なのか。
(2)人事権という伝家の宝刀
政策自体に、外部の正当性が付与されるだけでもかなり強力なことですが、さらに、人事権という最終兵器も知事は持っています。
某県知事の周りも、泣きながら辞めた副知事をはじめ、今の知事派の人たち、つまり、知事のイエスマンばかりになったと言われています。
そうです。知事は、幹部職員をはじめ、いろいろな職員を任命するという人事権を持っています。七側県では、知事室の秘書は、知事のお眼鏡にかなった、とんがった若い女性ばかりです。まさに、任命権者という言葉の通りです。
それはさておき、知事の政策に対して、「そんなの税金の無駄遣いなのでやめて、こっちの政策をしましょう。」などといった瞬間に、「こいつは俺の考えが全くわかってない。こんな奴には任せんておけん。」となって、知事部局から、他の任命権者に飛ばされてしまいます。
つまり、鬼滅の刃風にいうと、生殺与奪の権を知事が持っているということになります。
このため、単純にいうと、幹部は知事のいうことを聞かざるをえない。大抵の場合は、自分で上にいくことを放棄した人間以外が幹部になっているので、みんな少なからずさらに上に行きたいと思っている人たちだけが幹部になっている。だから、知事の覚えをめでたくしたい。究極的には、県民のことはどうでもいい、知事さえ良ければ良いということになります。
ここでまた問題なのは、自分は県民のためにAという施策が良いが知事は全く反対のBという施策をやれと言っている。だからやりたくないというケースでは、どうするのがよいのか。この時に、どっちが厳密に県民のタメになるのかという明確な基準、つまり物差しがないということです。
価値観が違うが、どちらが正しいのか明確な判断基準がない。このため、知事のいう通りにやることが唯一の正解になる。
◯◯県のばあいは、いろんなおねだりとか、車つける位置とか、そう言った現場での知事の待遇に関する様々な要求について、話題になっていますが、問題の大小は別にして、構造は一緒ですね。
(3)巧言令色少なし仁
上述のように、究極の上司である知事の組織上の権限に加えて、選挙という住民の委任状を受け、さらに、生殺与奪の権ももった知事は、最強です。
幹部になればなるほど、知事の考えに忠実なことをしていこうとする。つまり、イエスマンばかりになる。反対意見はないが、本当にいいと思っている者がどの程度いるのか、全くわからんという事態になる。巧言令色少なし仁と言う状態です。県民のためを思って、知事を諌める人が周りからどんどん消えてゆく。
つまり、御伽話の裸の王様状態になる。七側県はみんな誰しもが、知事は裸の王様だと思っている。「未事故の改善」など、よくわからない概念を振りかざし、「トラフィックサイフティー・ニューフロンティア」なんて、誰も理解できない、クソの役にも立たない既存の概念の看板掛け替えた物をいかにも新しい施策として厚塗りのお化粧をしてぶち上げて、そして、なんの展開もないままイベントばかり繰り返す。
知事以外の誰の役にも立ってないよねとみんなが思いつつ、やめられない。
理論上は知事の政策の巧拙は、次回の選挙によって、住民の審判にかかるため、落選して責任をとることになるのですが、どんなに無駄な政策だろうと、選挙に落選した前知事も費用弁償するとかの規定はない。知事は選挙で責任をというが、知事は実際、その責任は取らないので、知事の補助機関である事務方、つまり行政体、ここでいうと県庁が負うことになる。
住民の間で語り継がれるのは、いいことの場合は、「◯◯知事がやった。」であるが、住民にとってあまりよくないことの場合は、「県がやった。」ということになります。
つまり、組織としての罪を負わせられる。少し立つと知事のイエスマンだった人たちも退職していくので、ある意味で全く関係ない人たちがその責任を取らされていく。別に金がどうこうではないが、県に対する恨みつらみなどがオリのようにたまって、県の行政はどんどんやりにくくなっていく。
地方公共団体とは、そうした宿命をおっています。
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