見出し画像

コギトの夢

 ここのところスピノザに凝っていたぼくだが、あらためて少しデカルトについて考えてみたい。


 デカルトとスピノザはよく比較される哲学者の二人だ。その理由は同時代を生きていたことと、もうひとつはその哲学に相反する点が多いことが挙げられる。スピノザが好きな人はデカルトに批判的だし、デカルトが好きな人はスピノザをあんまり相手にしない。


 いつの間にか世間でのスピノザ再評価の気運が高まっているが、それにはデカルトの人気低迷ぶりが大きく関わっているだろう。


 デカルトとスピノザを大きく分ける思想的論点は心身問題にある。心身問題とは「心と体はどう関係しているのか」という話だが、デカルトは二元論的に(別々に)、スピノザは一元論的に(一緒くたに)に結論づけているので、心身問題について考える人は必然的にどちらの立場の近いのか自己診断を求められるのである。


 先にデカルトの低迷と書いたが、当然それはデカルトの一般的な知名度が低下したことを意味しない。スピノザの人気はあくまで「哲学好き」という狭い業界の中での話であり、一般的な知名度はほとんどゼロと言っても過言ではないが、デカルトの名前と「我思う、ゆえに我あり」という言葉はおそらく最も広く知れ渡っている“教養”だ。その意味においても、彼の哲学に対する感想を持ってみることは、自分の足元にチョークでスタートラインを引くぐらいの有益性はあるだろう。


 「我思う、ゆえに我あり」。この言葉は何を意味するのか。むしろ、この考え方が反面教師としていまだにイジられるに至る(欠点や不足分などの)問題があるとすればそれはどこか。

 それはおそらく「自分以外の存在について何も言えなくなる」可能性が高く感じられるせいではないだろうか。独我論からスタートし、寸分違わず元の白線に戻ってくるような気配がするのである。


 日本において、デカルトと双璧を成す知名度の哲学者といえばニーチェだが、彼が「永劫回帰」と言うのはこの「白線から元の白線への無限のループ」にいち早く気がついたからではなかろうか。彼はそこで、「それなら何周でも走ってやろうではないか」と「超人」を目指したわけだが、コースを一周もしないまま途中で発狂してしまうことをニーチェ自身が体現してしまったわけだ。


 ニーチェを崇拝する人は多いが、彼らは師の「体を張った失敗」については口を閉ざすか、アクロバティックに「師は頭が良すぎたのだ」というサクセスストーリーに仕立て上げてみせるかのどちらかである。沈黙か発狂のどちらかしか選べない哲学は普通に考えれば失敗である。少なくとも人にはおすすめできないだろう。


 というわけで、コギトの夢を見たニーチェが発狂に至った心の動きを推測することも悪くないだろう。ニーチェの骨を拾うことにもなる。しかし、その際は「彼の心の動きを推測する」というミッションそのものの不可能性を暴き出すことによって一度は必ず論理的失敗に終わるかもしれないことを、あらかじて心構えしておくことをおすすめする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?