ショッピング・カタログの外へ
現代における哲学と、2000年前における哲学の存在理由や意味はどう異なるのだろうか。
哲学を学ぶ利点として「色んな考え方に触れられる」という説明があるが、それはあくまで歴史と文学の問題であり、哲学という名で編纂された歴史に一定以上のボリュームがある現在だからこその説明である。
実用性や有用性に基づいた哲学観を、たとえば仮に「道具主義」や「プラグマティズム」と呼んでみるにしても、もしそれが「哲学のカタログ化」を意味するのであれば、哲学はそもそもの機能を失っているとしか言いようがない。
現代は、知識欲ですら市場原理の産物であるような時代である。
フランスの社会学者ボードリヤールが分析して以来、これらの消費社会論はもはや前提条件とさえ言えるが、社会の外側を想像しない限り「カント以来の相対主義」といった荘厳な文言でさえ「商品」としての機能しか与えることはできない。
起源との時間的空間的距離が広がり、哲学の流通量が増えるとともに、カタログに掲載されるイデオロギーの種類も増えていき、そのカタログを眺めるだけで曖昧な知識欲は一定量解消されていく。
その満足感を「自分の人生に役立っている」と感じるかどうかは相対的な価値でしかないが、自己という単独の存在は相対的な価値の獲得で終始満足できるわけではない。
「自分が信じたことをやるしかない」という言葉が相対的にしか響かない中で、その宣言から必然性を引き出すためには何が必要なのか。
自分の頭で考えること、という哲学の本来の原理に「役に立つ」という観点はない。
カタログに書いてないものを探すことが、自分の頭で考える必然性を生むのである。