シェアハウス・ロック2409中旬投稿分

長女に字を教える20911

 次の日曜日。
 この日は、散歩しながら「うくすつぬふむゆる」をとにかくおぼえさせた。「あいうえお」は、どこでおぼえたのか彼女は知っていたのである。「うくすつ……」をおぼえてから、 
「『く』に続けて、『あ』って言ってごらん」
「くあ」
「もっと速く」
「くぁ」
「もっと速く」
「か」
 私は、日本語の「か」は、「k+a」ではなく、「く+あ」であることをなにかで聞きかじっていたのである。吉本隆明さんもこの考えをとっていたことを知ったのは、ずっと後年だった。
 この日の散歩中に、長女の頭のなかの「五十音表」は完成した。
 次の日曜日までに、私は行の頭に「うくすつぬふむゆる」を小さく書き、さらに「ぐずづぶぷ」を書き、一番右の行に「あいうえお」を書き、交点に「ひらがな」を右に「カタカナ」を左に書いたものをワープロでつくっておいた。
 次の日曜日にこの「五十音表」を渡し、
「『かくかく』した字と、『くねくね』した字が書いてあるけど、最初はどっちを書いてもいい。だんだん慣れてきたら、右だけ、左だけって書けるようになるからね」
と言った。
 これで「かな」の授業はすべて終了だった。
 あとは、この「五十音表」をおぼえた後、絵本、子どもの本、とりわけ『コロコロコミック』で、漢字もおぼえていったようだ。『いちご新聞』ってのもあったなあ。思い出した。ルビつきの子どもの本は、子どもが字をおぼえる際には、相当に有効である。
 8月の後半、我が長女と、彼女の子どもと3人で会った。昨年の私からのクリスマスプレゼントの履行が遅れに遅れ、このときになったのである。彼女の子どもの主張は、クリスマス分と、もう誕生日も来たので、2点買ってくれてもいいはずだということであった。大甘のおじいちゃんとしては、「いいよ」である。
 まあ、プレゼントはともあれ、このときに私が予定していた楽しみは、例えば「山」「川」「月」「日」「木」などを書いて読ませ、もし読めなかったら、だんだんと象形文字にしていき、最後は絵にして読ませたいということだった。もう、ひらがな、カタカナが読めるのは知っていたからね。
 それを楽しみにしていて、昼食後、「もう漢字は読めるの?」と聞いてみた。間髪を入れず「中学生くらいまでの漢字なら読めるよ」と返ってきた。長女によれば、『コロコロコミック』のルビでおぼえたという。まだ出てるのか!
 せっかく頭のなかで象形文字化する練習をしてたのになあ。ちぇっ、つまんねえの。
 
 
音韻(音声)とかなの関係0912
 
 しばらく、オーラルとリテラルの話をしてきた。前回、前々回は我が長女に字を教えた話だったが、これもオーラルから教えたと言いたかったからである。つまり、「オーラルが先」を言いたかったのである。
 言語はまずオーラルだった。「言語」というよりも、まずは「音声」である。
 ここからは口からでまかせだが、海を初めて見て「うっ」と言ったり、雨に降られて「あー」と言ったりした。「うっ」「あー」がしばらく続き、やっとまとまったこと(「うみ」とか「あめ」とか)が言えるようになり、二分節語(「うみひろい」とか「あめふる」とか)が言えるようになり、さらにまとまったことが言えるようになった。「うっ」からここまでで、たぶん数十万年近く経っている。
 口からでまかせとは言ったが、我が長女を観察した結果から、これは言っている。「個体発生は、系統発生を繰り返す」はここでも適用できるのではないかと思う。
 このあたりのことを、「動物に言語はあるのか10717」では、「初期マルクスだったら、『無意識から疎外されたものが言語である』などと言いそうな気がする」と申しあげた。
 文字を使うようになったのは、必然ではなく、たぶん偶然がいくつか重なったのだろう。その証拠に、無文字文化というものがあちらこちらにある。日本も、無文字文化だった。7世紀、8世紀くらいまで、無文字文化である。
 まとまったことが言えるようになってから、文字を開発するのにも、たぶん数万年はかかっているだろう。
 これも初期マルクスだったら、「(もともとオーラルであった)言語から疎外されたものが文字」と言いそうな気がする。
 つまり、私が言いたいのは、オーラルがなければリテラルはない。絶対に逆ではないということだ。
 ヘンな言い方をすれば、オーラルとリテラルの関係は、歌と歌詞の関係のようなものだ。歌と歌詞よりはオーラルとリテラルは近いが、それでも脱落する情報は相当にあるだろうというところで近似できる。。
 言語における「意味」「論理」を問題にしている限りにおいては、このことはあまり(というかほとんど)問題にならないはずだが、いずれオーラルを軽視していたツケが、多大な請求書として突きつけられるような気がする。
 オーラルの復権への手掛かりは、いくつかある。
 まず、ポルトガルの宣教師たちがつくった日葡辞典がある。これには、当時の人たちの話し言葉が、少なくともかな書きよりもだいぶ精緻に記録されている。
 そこからはだいぶ時代は下るが、音源もいくつかはある。小沢昭一がプロデュースしたレコード(タイトルは忘れた)には、初代快楽亭ブラック、初代桃中軒雲右衛門、添田啞蝉坊、川上音二郎の音源が入っていた。
 明治時代も後半になれば、けっこういろんな録音が残っているはずである。
 この程度の資料があれば、かなりな程度は復元でき、さらに推測によって、いずれ屋上屋を重ねるような作業も可能なのではないか。 

意味に触れるが意味には触れない0913

 言語の周辺のお話をしばらくしていたが、今回でとりあえずお休み。しばらくシェアハウス周辺の日常雑記とか、そういう話になっていく。つまり、とりとめがなくなっていく。でも、言語の周辺の話もとりとめがないと言えばとりとめがないので、あまり変わらないと言えばあまり変わらない。。
 さて、言語の話はずいぶんするが、意味について語るのは基本的に避けている。言語と意味とは別系統の事柄なのではないかと、私は考えているのである。
 まず、次をお読みいただきたい。

① 存在工程にある厭人癖は、風説人後に陥る。
② 規定の直近では、共同体において解散。塵芥戦略不動にして、夜走り懸命である。
③ 次の個人用設定を設定しています。

 ①②は、私がつくった文章である。②より①のほうが出来がいい。①②は十分言語の資格を満たしているとは思うが、意味などまったくない。これで、言語と意味とはあまり関係のない事柄であると証明できていないだろうか。③も①②に近いが、さらに出来は悪い。意味がとれないこともないからだ。私のコンピュータに出て来た文章である。作成はマイクロソフトだろう。英語を自動翻訳したものだろうと思う。
 小学校のころ、作文の時間に、言葉と意味はあんまりしっくりいっている関係ではないことに気がついたと書いたことがある(「常に含まれているもどかしさとずれ」0316)。
 プレハーノフだったと思うのだが、言語労働起源説のようなことを書いているのを読んだ。「そうとも言えるし、根拠がないと言えば根拠がない」といった程度のものだった。これは、語用論なのだろうが、一歩だけ意味に踏み込んでしまっている。
 こんなことよりも、喜怒哀楽みたいな、音声的には「あっ」とか「おっ」とか「わっ」とか「うっ」みたいなのが原初的な言語であるとしたほうがもっともらしい。
 言語に関しても、「個体発生は系統発生を繰り返す」と言える気が、私はしている。最初は泣くだけだった彼ら/彼女らが笑うことをおぼえ、無意識から意識が、別の経路では無意識から言語が疎外され、それによって彼ら/彼女らは「なにごとか」を獲得していく。でも、失うものも同等にあるはずである。そうじゃないとお感じの方は、進歩史観に毒されていると思う。
 この「なにごとか」の最初のものは「指示」である。彼ら/彼女らにとって最初の言語の役割は「指示」なのだ。
 今回は、「言葉と意味」について書いてみた。わかりにくいとは思う。ゴメンね。でも、今回のこの文章は、「言葉と意味」に関して、この一年で一番真面目に書いた文章である。この拙文を、ちゃんとした言語学者、脳科学者が読んでくれたら、「あんたの言いたいことはこういうことね」と言語化してくれると期待したい。

 ウィスキーを水でわるように
 言葉を意味でわるわけにはいかない

 田村隆一が「言葉のない世界」を上の2行で終えたのを知るのは、小学校のころ、作文の時間に、言葉と意味はあんまりしっくりいっている関係ではないことに気がついた10年後くらいである。この10年は疾風怒濤時代であるが、誰でも、2、3年くらいはずれがあっても、このころは疾風怒涛なんだろうと思う。

【Live】病気の話0914

 老人になると、病気のひとつやふたつは持っており、一軒や二軒は行きつけの病院がある。やだねー、行きつけの病院だってさ、飲み屋じゃなく。
 我がシェアハウスのおじさんは、7月に突然の呼吸困難で入院した後、今度は加齢黄斑変性というものになり、地域病院では埒があかず(あいたのかもしれないが、初診が9月だと言われたので)、おばさんがかかっている新宿区の病院に行くことにした。
 まず、黄斑は、網膜の中心にある部位だ。加齢黄斑変性は、黄斑部の後ろの脈絡膜に、新生血管が発生し、黄斑部を障害する病気である。おじさんはライターなので、原稿用紙を使う。そのマス目が歪んで見えるようになってきたので、心配して医者にかかり、最終的におばさんが通っている病院に行ったのである。
 手術などという大げさなことでなく、加齢黄斑変性は注射でだいぶよくなるようだ。
 ほとんど同じ時期に、おじさん、おばさんの友だちの奥さんが、やはり黄斑をおかしくしたが、こちらは黄斑円孔。黄斑部に小さな孔(直径0.1~0.5㎜程度が多い)ができ、視力が悪くなる病気である。50歳以上の中高年者に見られることが多いそうである。
 短期間で、私は黄斑の病気をふたつ知ったことになる。
 おじさんは、CОPD以前は、腎臓肝臓がパッとせず、それと高血圧で、駅前クリニックにかかっているが、これに圧迫骨折というのが加わった。おじさんは、これのせいで背中が曲がっている。一目でわかるくらいには、曲がっている。
 おじさんはもう一軒、新宿区の国際医療センターというところにかかっている。こちらは、前立腺のなにかである。肥大なんだか、炎なんだか、がんなんだかはっきりしない。
 おじさんは、ほとんど病気の総合商社と化している。
 おばさんは、前述の眼医者以外は駅前クリニックにまとめている。ここで診てもらっているのは高血圧、肝臓、痛風だな、主な病気は。高血圧以外は、おっさん病である。
 これに子宮がんが加わり、これは東京女子医大病院で手術をしたので、予後、2か月に一回検査がある。おばさんは、抗がん剤治療を拒否したので、この定期健診はやっといたほうがいい。術後の抗がん剤投与は、どうもセットと化している感じがするが、いろいろな本を読んでみた限りでは、必ずしも必須ではないようで、せっかく手術したので念のためといった側面が強いようだ。QOLと年齢を考えて、受けるかどうか決めたほうがよいと思う。
 眼医者は、もともと緑内障でかかり、最近片目だけだけど白内障の手術をしたのではなかったか。緑になったり、白くなったり、忙しい。
 さて、私であるが、CОPD、喘息、リウマチは相変わらずだが、駅前クリニックに全部まとめているし、新たな病気は、八王子に来てからはない。
これから、どーんと団体でくるのかなあ。やだなあ。
 おじさん、おばさんは、相当に団体だもんな。
 ああそうそうそう。後期高齢者になって、私は医者にかかっても、自己負担分は一割になった(それまでは二割)。保険証を見て、ふーんとは思ったが、二割と一割で半額になる。計算すればあたりまえであるが、これでずいぶん楽になった。
 
 
ヨハン・セバスティアン・バッハのケーテン時代0915

 図書館から借りて来たシギスヴァルト・クイケンの『ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ集』(BWV1014-1019)の解説に、ヨハン・セバスティアン・バッハのケーテン時代のことが書いてあった。筆者は美山良夫という方である。
 バッハは、ケーテン時代に相当の器楽曲を書いたとあった。私は、そういう時代区分で考えたことすらなかった。その器楽曲の代表的なものを挙げれば、次のようになる。
・無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(BWV1001-1006)
・無伴奏チェロ組曲(BWV1007-1012)
・ブランデンブルグ協奏曲(BWV1046-1051)
・管弦楽組曲(BWV1066-1069)
・フルート・ソナタ(BWV1030-1032、1020、1013)
・チェンバロ伴奏つきヴァイオリン・ソナタ(BWV1014-1019)
・ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ(BWV1027-1029)
・半音階的幻想曲とフーガ(BWV903)
・平均律クラヴィア曲集(第一巻)(BWV846‐869)
・ヴァイオリン協奏曲(BWV1041、1042)
 これは相当に凄いことである。もっとも、ヨハン・セバスティアン・バッハが凄いのは、この時代だけではない。
 別の資料には、ケーテン時代 (1717年-1723年)と年代も書いてあった。
 1717年には、大岡忠相が江戸町奉行に任命されている。落語『大工調べ』の「大岡(多くは)食わねえ、たったの越前(一膳)」の人である。吉宗が八代将軍に就任したのは、この前年だ。
 翌1718年には、フランスがルイジアナ植民地にニュー・オルリンズの建設を始めた。だからあのへんは、いまだにフランス語訛がある。
 翌1719年には、デフォーが『ロビンソン・クルーソー』を出版。これ、原題は『ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険』という長ったらしいタイトルである。
 翌々1721年には、近松門左衛門の『心中天網島』が、大阪竹本座で初演されている。
 あっ、これ書いている今日は、文楽を見に行く日だった。出るまでに、買い物にも行かなくちゃいけないし、キウイのジャムもつくらないとならない。こんなことしてらんないんだ。途中だけど、じゃあ。

【Live】第五六回文楽鑑賞教室0916

 もう15年くらい文楽の東京公演には必ず通っているのに、「いまさら、なにが鑑賞教室だい」と思わないこともないのだが、私ら(おばさん、私)の見方は、「ある太夫さんが出る公演を見る」というものだから、当然こうなる。ここだけを考えると、文楽を見るというよりも、もはや変わり種の甥っ子がやってることを見に行くという感じに近くなっている。
 今回の出し物は、
・伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)
・文楽の魅力(これが「鑑賞教室」)
・夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)
である。今回のタイトルは比較的すんなり読めるもので、文楽、歌舞伎にはなんだか判じ物みたいなタイトルも多い。たとえば、
・日高川入相花王
「ひだかがわ」は誰でも読める。「いりあい」も、まあなんとかなるだろう。最後は、これで「ざくら(さくら)」である。これはもう、クイズの領域でしょ。
 甥っ子(ワハハ)の太夫さんが務めたのは、『夏祭浪花鑑』の「釣船三婦内の段」。ここの、特に前半はとてもやりにくいはず。というのは、語りのなかで人間関係を整理するというところだからだ。作者が、人間関係が錯綜してきたので、ここらで整理しとかないと観客がわからなくなるだろうとつくった段である。
 たとえば、東宝映画『ラドン』で、白衣を着た男が、「あっ、あれはうちの所長を殺したラドンだっ!」などと叫ぶ。このセリフで、この白衣を着た男と、その周辺にいる人たちが、地球科学なんだか研究所の所員であることを説明し、また残された所員がこれから一丸となって所長の仇をうつべくラドンと対峙していくだろうことを、シナリオライターは説明しているわけである。でも、このセリフは、役者さんは言いにくいだろうし、やりにくいことは想像に難くない。フツー、こんな説明的なセリフは言わないもんな、映画でもなきゃ。
 語りの大部分がこれなんで、太夫さんとお会いして最初に申しあげたのは、「やりにくいとこ、当たっちゃったね」であった。「わかっていただけるなんて」と太夫さんは喜んでいた。まあ、15年くらい見ていれば、この程度はわかるようにはなる。
 進境著しいのはマエダ(夫妻)、特に(夫)である。去年の12月公演で見て気に入ったようで、それ以降(夫妻)揃って皆勤賞である。今月末くらいの素浄瑠璃の会にも参加する。素浄瑠璃は、当たり前だが人形抜きで、つまり「絵解き」なしなので、さて、どうなるか。でも、クリアするんじゃないかなあ。
 太夫さんも含めて5人は、おばさんの先導で某中級焼肉店へ。値段は中級だが、味は超高級。マエダ(夫妻)と太夫さんは、初対面なのだが、意気投合していた。あっ、マエダ(夫妻)は中級焼肉店も気に入ったみたいだったな。
 ちょっと時間軸がわかりにくくなっているが、今回の話は先週の土曜日のことである。

バッハのケーテン時代の続き0917

 1717年、ヨハン・セバスティアン・バッハはケーテンに移り、アンハルト=ケーテン侯国の宮廷楽長となった。前々回お話ししたケーテン時代(1717年-1723年)の始まりである。
 ちなみに、バッハは、次のように、住んでいた場所により語られることが多い。
・リューネブルク時代 (1685年-1702年)
・アルンシュタット~ミュールハウゼン時代 (1703年-1708年)
・ヴァイマル時代 (1708年-1717年)
・ライプツィヒ時代 (1723年-1750年)
 これらの時代区分がわかり、雇用主がわかり、それを「変数」に「代入」すれば、だいたいどういう曲をバッハが書いていたかがわかる。
 ライプツィヒでは聖トーマス教会に雇用され、ルター派の音楽家として活動していたが、同時にライプツィヒ市の音楽監督にもなり、教会音楽以外の音楽も書いたし、また王のカトリックへの宗旨変えにともない、宮廷作曲家の職をも求め、カトリックのミサ曲も作曲したりしている。「変数」「代入」、おわかりいただけましたか?
 さて、ケーテン時代に戻る。アンハルト=ケーテン侯レオポルトがバッハの雇用主である。音楽に理解のあるケーテン侯はバッハのよき庇護者であったが、もうひとつ、ある資料に、「彼がカルヴァン派だったため、教会音楽をつくる必要がなかった」とあった。それで、前々回のような器楽曲が多数、この時代につくられたのだろうが、さて、カルヴァン派は特に教会音楽を軽視しているのだろうか。
 カトリックがミサ曲を必要とするのはわかるが、ルター以降どうだったのかは、私、浅学にして知らない。つまり、「讃美歌集だけあればOK」(これも、そんな感じがするというだけ)みたいなルター派(というか、プロテスタント)のなかでも、カルヴァン派というのは、さらに音楽を軽視していたのだろうか。
 もっとも、讃美歌集のなかにヨハン・セバスティアン・バッハ作曲というのが何曲かあるので、この時代にそういった整備が進んだのだろう。
 たぶん、そうだ。この歳になるまで、ここまで真剣に考えたことなかったし、こんなことを書いてある本を読むこともなかった。
 それでも、ある資料には、レオポルトの誕生日12月10日と元旦1月1日の年2回は、教会カンタータが演奏されたとされているとあるので、祝祭には、シーンとしてるとかっこがつかないんで、賑やかしに音楽やったんだね。
 わからないことだらけである。こう書くと、主語はフツーは「世の中は」であるが、世の中じゃなく私が知らないことばっかりなんだな。無知は悲しい。
 バッハがレオポルト侯に随行したカールスバートへの2か月間の旅行中に妻が急死する。
 翌1721年、バッハは宮廷ソプラノ歌手のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケと再婚する。『アンナ・マクダレーナ・バッハのための音楽帳』は彼女のためにバッハが贈った楽譜帳で、『フランス組曲』の最初の5曲等を含む第1曲集は1722年に、『パルティータ』等を含む第2の曲集は1725年に成立している。
 バッハの再婚からわずか8日後の12月11日、レオポルト候も従妹のアンハルト=ベルンブルク公女フリーデリカと結婚した。この妃はバッハから「音楽嫌いamusa」と呼ばれていた。aは、否定のaだな。レオくん、そんな女と所帯持ったらだめだよ。
 おそらくこの女のせいで、ケーテンの宮廷楽団の規模も縮小されるようになっていき、バッハは終焉の地・ライプツィヒに赴くことになる。

バッハと近松門左衛門までの距離0918

 ここんとこのバッハの話は、ほとんど器楽曲についてであった。本日は都合上声楽曲の話になる。
『マタイ受難曲』中の『憐みたまえ、我が神』は、バッハの声楽曲のなかで、私が一番好きな曲である。

 落ちる私の涙を
 憐んでください 我が神よ
 ご覧ください
 目も、心もあなたの御前で
 激しく泣いているのですよ

 だいたい、このようなことを言っている。これは普通に話せば15秒程度で終わってしまうが、このところ私が気に入っているナタリー・シュトウッツマンが歌うと、7分かかる。他の人も、だいたいこんなものである。もちろん、前奏があり、途中ヴァイオリンのソロが入るが、それにしても長い。同じこと何回も言うんだね。ちなみに、『マタイ受難曲』の初演は1727年である。
 1721年には、近松門左衛門の『心中天網島』が、大阪竹本座で初演されている。これも、床本だったら数行を、何分もかけてやることがある。
 さて、ほぼ同時代のバッハと近松であるが、いまの私たちにとって、どちらがわかりやすいだろうか。
 近松のほうは、関西弁と関東弁という水平方向のギャップ、江戸時代語と現代語という垂直方向のギャップがある。15年も文楽を見ているんで、このごろはだいたいわかるが、当初は字幕を見ないとどうにもならなかった。これ以外に音楽上のギャップがある。
 バッハのほうは、私、残念ながらドイツ語がだめで、わかる単語もあるという程度なのだが、それでも近松よりバッハのほうが楽だ。義太夫は、そもそもメロディがよくわからないし、三味線もよくわからない。15年見てるんで、わかるところはある。でもそれは、だいたい、音楽を引用している部分である。語り部分はだいたいわかるが、それをサポートする三味線は、いまだにどういう仕掛けになっているのかよくわからない。
 バッハに話を戻す。
『マタイ受難曲』は、初演後、せいぜい2、3回しか再演されなかったようだ。だいたいが「使い捨て」だったようだし、そもそもヘンデルなどの例外を除けば、昔の作曲家の作品を演奏する風土があまりなかった。当時は、そういう文化だったのだろう。
 バッハの死去からおおよそ100年後、1829年に弱冠20歳のフェリックス・メンデルスゾーンが『マタイ受難曲』の復活上演を果たし、再評価されてから『マタイ受難曲』は不動の位置を占めるようになった。メンデルスゾーンの功績は大なるものがある。
 この出来事は、パブロ・カザルスが、パリの古本屋で『無伴奏チェロ組曲』の楽譜を発見し、本人の演奏によって、私たちが『無伴奏チェロ組曲』を再発見したこととよく似ている。
 ちょっと違う話になるが、『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ』のパルティータ2番の最終曲「シャコンヌ」を、木村麻耶さんという方が琴で演奏している。これがいい。「琴で演奏するにしては…」という前提がまったく不要なくらいいい。youtubeで見られる。

【Live】酷暑の総括0919

「まだ酷暑は続いているぞ」とおっしゃるかもしれないが、この夏の酷暑を総括する。まあ、原始心性みたいなもんだな。酷暑退散、怨霊平癒、失笑報告、総裁選挙。
 現在、9月18日の午前10時。外気温は33℃である。セミは、一匹も鳴いていない。体感から言えば、セミが鳴いていないのはおかしいのだが、彼らは今年分の仕事は済ませてしまったのだろう。まあ、人間の季節感に合わせる義理など、彼らにはないもんな。
 セミも、トンボも、チョウも、今年はどことなくおかしかったが、植物のおかしさには比ぶべくもない。そもそも、6月ごろのツツジの咲きようが異常だった。バス通りの生垣全体が花になっていた。あれが酷暑の予兆であるならば、ツツジの諸君には、そのあとの気候がわかることになる。まあ、わかっても不思議はないような気もする。たぶん、人間は、あらゆる生物のなかで、こういうことが一番わからないような気がする。
 植物に詳しい人であれば、微細に異変を語れるのだろうが、植物のおかしさも相当なものだった。まず、猖獗を極めるイタドリが、今年はあまり元気がなかった。正確に言えば、他の植物が元気になった分、相対的に元気がないように見えた。
 テッポウユリがあちらこちらで咲いた。行動範囲では、毎年どこに咲くかはだいたい把握しているつもりだったが、「えっ、こんなとこにあったっけ?」というのがずい分あった。感じで言うと、例年の倍近く咲いた。自然状態では、これは相当異常なことだと思う。
 エンジュ(マメ科)は、街路樹として植えられているのだが、実が相当に生った。と言うよりも、去年までもし生っていたとしても、気が付かない程度にしか生っていなかったのである。
 ちょっと変形の枝豆のような鞘に入った実である。カラスや小鳥などが好みそうな姿かっこうであるが、誰も食べない。実際に不味いのか、食性としてなじみがないので警戒しているのか。
 さて、どん尻に控えしは、メダカの諸君である。
 まず、諸君にあやまらなければならないのだが、今年は新生児を200~300匹殺してしまった。八王子に来て8年、その前の2年で10年メダカを飼ってきた経験で初の体験である。
 ただ、原因は水温が35℃を超えたことによると明白なので、あとは対処だけである。畏友その1から、やや小さ目の火鉢をもらえることになっているので、これを図書室におき、メダカの諸君には避暑地で夏を越えてもらうことがまず第一で、あと同程度の水槽がもう一個あれば、おそらく酷暑はしのげるはず。
 酷暑退散を祈願したので、今週末くらいには、リビングに避暑している連中を睡蓮鉢に移すつもりである。15匹残っているので、遺伝子レベルでの多型は保持できるはずだ。

【Live】バッハはピアノを知っていたか0920

 昨日の『シェアハウス・ロック』は、9月18日の午前10時ごろに書いたものだが、今回お話しするのはそれより2~3時間前のことである。コーヒーを飲みながら、バッハを聴いているときのことだ。
 聴いていたのはフランク・ペーター・ツィンマーマン(v)とエンリコ・バーチェ(p)の「ヴァイオリンソナタ」で、ジャケットにはそう書いてあったが、正式には『ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ』(BMV1014~1019)である。
 このとき、私はピアノに違和感を感じたのだった。だが、違和感の正体がなんなのかよくわからなかった。エンリコ・バーチェが下手なのかと言えば、そんなこともない。
 もしかして、毎朝毎朝バッハを聴いているので、耳がバッハになってしまったのかと思った。つまり、バッハはチェンバロのためにあの声部を書いたのであって、それがピアノで弾かれたがゆえの違和感なのではないかと思ったのである。
 でも、待てよと思った。つまり、ヨハン・セバスティアン・バッハはピアノの存在を本当に知らなかったのかと、ちょっと考えたのである。それまで、私はあまり深く考えず、バッハはピアノを知らなかったと思っていたのだ。でも、本当にそうか。調べてみた。
 まず、ピアノはフェルディナンド・デ・メディチの楽器管理人であったバルトロメオ・クリストフォリが発明したとみなされている。メディチ家の目録から、1700年にはピアノがすでに存在していたことがわかる。クリストフォリ製作のピアノは3台現存し、いずれも1720年代に製作されたものである。この時代だから、フェルディナンドくんは三世ね。まだ大公になってないんで、大公子と呼ばれていたんだろう。場所はトスカーナだから、ブーツの膝のちょっと下あたり。
 一方、ヨハン・セバスティアン・バッハはドイツを一歩も出ていないので、このピアノは見ることができなかったはずだ。
 また、『ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ』が書かれたのは1717年であるから、これは間違いなく、チェンバロ(とヴァイオリン)のために書かれた曲ということになる。
 クリストフォリのピアノを一点だけ改良したもの(ダンパーを一度に外す、現在のダンパー・ペダルの原型を加えた)を制作したのがゴットフリート・ジルバーマンであるが、彼は1730年代にそれをヨハン・ゼバスティアン・バッハに見せているという。これは、前にお話ししたバッハのライプツィヒ時代に相当する。
 だから、ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、ピアノは知ってはいたものの、それに向けた作曲はしなかったと考えていい。ピアノは、登場してからしばらくは、「あんなガサツな楽器」と軽蔑されていたようで(これは事実)、市民権を得たのはモーツァルトあたりからではないかと、私は考えている。

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