シェアハウス・ロック2406中旬投稿分

「コペルニクスとボロ―ニャ」(in『規則より思いやりが大事な場所で』)0611

 ボローニャはボロ―ニャ大学のことである。若きコペルニクスは、そこの学生になった。1497年のことである。コペルニクスはポーランド人だったんだね。知らなかった。
 ちなみに、日本は室町時代。このころ、太田道灌は江戸城を築城し、北海道・渡島半島ではコシャマインの戦いが勃発した。平和に暮らしていたアイヌに、和人は相当悪いことをやったからね。私はアイヌを支持する。

 コペルニクスのイタリア滞在中に、二三歳のミケランジェロはピエタを作り、レオナルド・ダ・ヴィンチは空飛ぶ機械を試作し、「最後の晩餐」を描いていた。(p.128)

 いまから考えると、めまいがするような時代だったのである。

 だが、わたしはボローニャで、もう一つ別のものも見つけた。そこで学んでいた七〇年代に、同時代の精神と遭遇したのだ。(p.130)

 この「精神」は、数行後には「夢」と呼ばれることになる。

 レオナルド・ダ・ヴィンチやアインシュタインだけでなく、ロベスピエールやガンジーやワシントンのものでもあったこの夢。わたしたちを大きな壁に向かって突っ込ませることの多い絶対的な夢、往々にして見当違いな夢―。だがそのような夢なくして、いまのこの世界の最良なものは何一つ存在しなかった。(p.130‐131)

 大学は今、わたしたちに何を提供できるのか。コペルニクスが見出したのと同じ豊かさを提供できる。これまでに蓄積されてきた知識とともに、知識は変えることができ、実際に可変であるという自由な発想を。これこそが大学のほんとうの意義だとわたしは思う。(p.131)

 そして、これに関連する別の項「わたしの、そして友人たちの一九七七年」にある文章、少し長いがとてもいい文章を次に引用する。「一九七七年」は、私たちからすれば、ちょっと遅れて来た「スチューデント・パワー」「ヤンガージェネレーション奔流」である。

 その夢は、六〇年代から七〇年代にかけてイタリアだけでなく世界中を席巻した。あの頃、世界中の若者が、かなりの規模で運動を起こした。あえて夢を見て、社会の現実を劇的に変えられると熱く信じたのだ。
 あの運動は、確かに組織化もされていなければ、目的も一貫していなかった。実際には、多数の細い流れから成っていた。
(中略)
 プラハの広場からメキシコシティーの大学まで、UCLAのキャンパスからボローニャのピアッツァ・ヴェルディまで、カリフォルニアの田舎や町にあるヒッピーの共同体から南米のゲリラまで。そして第三世界支援のためのカトリックの行進から英国における反精神医学の実験まで。テゼ共同体からアフリカを代表する世界都市ヨハネスブルグまで。具体的なアプローチはまるで異なっていたにもかかわらず、そこには、同じ巨大な流れに属している、同じ一つの偉大な夢を分かち合っているという認識があった。自分たちはまったく別の世界を実現するための同じ一つの「闘争」―当時は広くそう呼ばれていた―に加わっているのだ、という認識が。(p.231)

 私にも同じ認識があったよ、ロヴェッリさん。

「無は無である。ナーガルジュナ」(in『規則より思いやりが大事な場所で』)0612

 ナーガルジュナは、日本(というか漢字圏)では龍樹である。龍樹は、仏教の中興の祖のような存在だ。
 表題は、龍樹に関する項であることになる。ロヴェッリは、「自分の思考法に影響を及ぼす本は、めったにお目にかかれない」が、最近そういう本に出合ったと言っている。
 ロヴェッリは、理論物理学者であるにとどまらず、博学無双な人であるが、さすがに東洋はやや苦手と見える。その本の題名は『ムーラマディヤマカ・カーリーカー』である。日本では『中論』として知られている。
 西欧とひとくくりで言うほど西欧はひとつではなく、西欧のなかにもゲルマン、ラテン等々様々な西欧があることは言うまでもないが、それでもあえて西欧とひとくくりにし、龍樹(『中論』)との関連をお話しすると、西欧の「無」は「あるべきはずのものがない」ということである。あえて言えば、そういうことになる。
 これをロヴェッリは、

 あらゆるものは、別の何かに依存する形で、他のものとの関係において存在する。(p.266)

と言っている。すぐ次のところで、

 事物は他のものがあるおかげで/他のものに照らして/他のものとの関係において/他のものから見て、存在するにすぎない。(同)

と言っている。上記のふたつの引用でサンドウィッチされているところで、

 ナーガルジュナは、このように本質が欠けていることを「空(スーニャ)」という言葉で表している。(同)

 この表現に、一東洋人としての私は、「本質が欠けている=空」だろうかと疑問を持つ。さらに、一東洋人としては「無」≠「空」であり、「無」は「相対無」であり、「空」は「絶対無」であるという感覚を持つ。これは、おそらくではあるが、仏教圏ではミームみたいなものなのではないか。
 博学無双、武芸百般、向かうところ敵なしみたいなロヴェッリにも、「苦手分野があるのか」と、ちょっと私は嬉しくなったことを告白しておく。
 ただ、さすがロヴェッリであり、いろいろと言いながらも、

 どうか額面通りに取らないでいただきたい。わたしがナーガルジュナを把握し切れていないことは、確かなのだから。

と正直に告白し、素直に弱みを見せている。謙虚だなあ。ますます、好きになった。

「達人」(in『規則より思いやりが大事な場所で』)0613

「達人」とは、ジョルジュ・ルメートルのことである。
 つい最近、競馬界にルメートルという騎手が登場し、ルメールの誤植じゃないかとか、けっこう話題になった。私は、ルメートルという名前がこの世にあることは知っていたので、それほど驚かなかったし、こっちのルメートルも他の本で既に知っていたのである。ただ、ルメートルが「達人」を意味するフランス語と同じ音であることを知ったのは、『規則より思いやりが大事な場所で』のおかげである。
 ジョルジュ・ルメートルは、神父であり、宇宙物理学者だ。ルメートルが膨張宇宙モデルを唱えたのは、実はハッブルが膨張宇宙を発見する2年前である。
 1951年11月22日、教皇ピウス十二世が、ビッグバンモデルについて、一般向けの講話で次のように語った。

「真の科学は、かつて自慢していたのとは逆に、前進すればするほど神の存在を明らかにしていく。まるで科学が開くすべての扉の後ろで、神自身が辛抱強く待っていたかのように」(p.168‐169)

「ゆえに、天地創造は時間のなかに存在した。したがって創造主も存在した。よって、神は存在する!」(p.169)

 だが、ヴァチカンの科学顧問と密接に連絡を取っていたルメートルはこの発言を快く思わず、すぐにヴァチカンに向かい、このような主張は今後差し控えていただきたいと申し入れた。そしてそのようになった。

 ルメートル(中略)によると、科学も宗教も、自分たちには語る資格がない領域について語ることは慎むべきなのだ。(p.169)

 ルメートルは、『規則より思いやりが大事な場所で』の「達人」以外のところにも登場する。「信仰にもっとも近い科学は?」に出てくるルメートルは、ポール・ディラックに「宇宙論は、もっとも宗教に近い科学分野なのかもしれない」と話しかけられたそうだ。ディラックはおそらく自閉スペクトラム症の傾向があり、そういう人間特有のぎごちないやり方で、司祭でもあるルメートルに話しかけたのだと、私には思われる。雑駁な言い方をすれば、ディラックはルメートルに話しかけたいとは思ったものの、そのネタしか思いつかなかったのだろう。この感じはよくわかる。
 ところが、ルメートルは「その意見には賛成しかねる」と答えた。ディラックは戸惑い、訪ねてみた。「では、近いのは?」。即座に、「心理学でしょうね」と返したという。
 ロヴェッリは、ルメートルの返事を「意外だ」としながらも、

 科学で使われている言葉と宗教で使われている言葉(「宇宙」「創造」「基礎」「存在」「非存在」「創造主」……)が似ているというのは、おそらく単なる幻であって、誤解を招きやすい。二つの陣営の論争は、まるで相手のいうことが聞こえない人同士の論争のようなものなのだ。まったく別のものを指して、同じ言葉を使っているのだから。(p.148‐149)

と解説している。若干、我田引水ぎみだが、私が何回か申しあげている「言葉」と「意味」の不幸な関係というのも、ここでロヴェッリが言っていることに近い。
「達人」に戻る。
 ロヴェッリは、ルメートルのあるエピソード、それも非常に印象的なエピソードを記述している。
 前述のように、膨張宇宙モデル≒ビッグバン仮説の功績はルメートルに帰されるべきだと考えた物理学者のグループが、1931年に、そのことを世に知らしめようと決意した。そのための論文は英語に翻訳され、ある有名な雑誌に掲載された。ところが、その英訳論文からは、ルメートルが当時入手可能だったわずかなデータに基づき、ハッブルより先に宇宙が膨張しているとした決定的な語句が抜けていたのである。誰かが、ハッブルの先取権を疑う語句、真の発見者がルメートルであったことを示す語句を抜き去ったとしか思えなかった。
「犯人」探しが始まった。「犯人」はハッブル本人か、あるいは編集者か、他の第三者か。
 つい最近、天体物理学者のマリオ・リヴィオがこの謎を解いた。「犯人」は、ルメートル自身だったのである!
 編集者あての手紙のなかに、「自分が使ったデータより、ハッブルが使ったデータのほうが優れている。だから、あまり正確でないデータには触れないほうがいい」。こういう内容の、ルメートル自筆の手紙が発見されたのである。言い換えれば、ルメートルは発見者としての栄誉よりも、真実を確立するほうが重要であると考えたわけである。
 ロヴェッリは、ルメートルの項に、「達人」というタイトルをつけた。この項に「達人」とつけたロヴェッリも、なかなかの達人である。

「アフリカでの一日」(in『規則より思いやりが大事な場所で』)0614

 ンブール(セネガルの都市。人口20万超)の数学研究所にいた期間の一日、ロヴェッリは終日うろうろと彷徨い回り、最終的にモスクに入った。
 入り口で靴を履いている人を見て、下足禁止と判断したロヴェッリはサンダルを手に持ち、はだしで中に入った。すれちがう人々が、明らかに異邦人であり、とてもムスリムには見えない彼に、会釈し、微笑みを送って来る。
 扉のところから、さらに中に入ろうとすると、一人の若者が困ったような顔をして、慌ててこちらにやって来た。なにごとかを告げるのだが、ロヴェッリには一言も理解できない。
 若者に、手に持っているサンダルを指さされて、ロヴェッリは、モスクのなかに靴を持ち込むことがいけないのだと理解した。
 そこで、入り口に戻り、ほかの人が靴を脱いでいるところにサンダルを置いた。すると、一人の老人が近寄って来て、ロヴェッリに微笑み、若者になにごとかを告げ、ロヴェッリのサンダルを黒いビニール袋に入れ、自らモスクに持って入り、ロヴェッリに渡したという。
 ロヴェッリは、「盗られる心配をしたわけじゃない。外に置いておくことになにも問題はない」となんとか説明しようと試みた。
 老人は微笑み、若者も微笑んだ。ロヴェッリは自分のサンダルを手に持ち、二人に目礼し、さらになかに進んだ。

 わたしは言葉を失っていた。この世の中には、規則(きまり)よりも配慮(思いやり)が重んじられる場所がある。(p.181)

 上の言葉でロヴェッリは中間総括をし、

 人間の途方もない複雑さに関する何か―ちっぽけな何かを、実際に学んだのかもしれない。(p.183)

という言葉で「アフリカでの一日」を締めくくっている。私としては、決して「ちっぽけ」ではないと考える。
 ガザ地区で、悲惨な状況が続いている。私は、国家というものはおおむねろくでもないと考えているし、それに準ずるものもほぼ同様であると考えている。そもそも、国家があるから我々がいる(いられる)わけではなく、我々がいるから国家が成立するのである。逆ではない。だから自らを愛する心の先の先に、かろうじて愛国心その他、雑多なものが存在できるのである。逆ではない。
 だから、ロヴェッリが学んだ「ちっぽけな何か」は、決して小さなものではない。ガザ地区で、ウクライナでの悲惨な状況を解決できるのは、国家ではなく、それに準ずるものでもなく、この「ちっぽけな何か」なのである。私はそう確信する。
 ここに至って、私は、リベラルアーツはいまだにわからないものの、リベラルはわかったような気がした。あっ、ただしこれは、川畑博昭さんの書いた『規則より思いやりが大事な場所で』(カルロ・ロヴェッリ著)の『毎日新聞』での書評のタイトル「リベラル・アーツの真骨頂」が正しいとしての話だよ。実のところ、私はいまだに、どっかで、「リベラル・アーツの真骨頂なのかなあ」と思っているのである。

【Live】「チェロを弾いている者がいます」0615

 朝起きたら階下に行き、まずコーヒーを淹れて飲む。そのときに聴くのは、ほぼバッハである。だから、私は、カフェインとバッハで毎朝目覚めていることになる。
 しばらく、コーヒーとバッハと煙草だけで過ごす。この時間が、私の至福の時間である。
 キリスト教では、人間を肉性と霊性(精神)という二項対立で考えることが多い。私は信仰には見放された人間なので、「聖書では」と言い直す。信仰に見放されても、聖書を読むことはできる。つまり、朝食を食いはじめるまでの間は、私は肉性から離れている気分なのである。
 さて、私の好きな楽器の基準は、夜逃げのときに持って逃げられるかどうかというところにある。だからバッハでも、バイオリンとかチェロとかがよろしい。無伴奏なら、さらによろしい。夜逃げ先でひとりでも、なんとかなる。
 昨日は、久しぶりにロストロポーヴィチの『無伴奏チェロ組曲』を聴いた。
 聴いているうちに、突然思い出したことがある。本日はそのお話を。
 ベルリンの壁崩壊のとき、同時中継を見ていた。多くの人が壁をよじ登り、壁の上に立ち、画面には祝祭の気分が満ちていた。中継アナウンサーが、「チェロを弾いている者がいます」と言った。
「チェロを弾いている者」が数秒だが画面に映り、私には、それがロストロポービッチに見えた。「チェロを弾いている者がいます」だと、祝祭気分に浮かれたお調子者のパン屋のおじさんかなんかを想像するが、これがロストロポービッチだとすると、話は大きく変わって来る。そのとき私は、「NHKのアナウンサーは、ものを知らねえな」と思ったのである。
 ロストロポービッチは、1970年、アレクサンドル・ソルジェニーツィンを擁護したために、ソビエト当局から「反体制」とみなされた。以降、国内演奏活動を停止させられ、外国での出演契約も一方的に破棄させられることとなった。1974年、2年間のビザを取得して出国。そのまま亡命。1977年、アメリカ合衆国へ渡り、ワシントン・ナショナル交響楽団音楽監督兼首席常任指揮者となる。1978年、ソビエト当局により国籍剥奪。
 ベルリンの壁崩壊は、1989年11月9日の夜に、ベルリンの壁にベルリン市民が殺到したことをまず指し、混乱の中で国境検問所が開放され、翌11月10日にベルリンの壁の撤去作業が始まったという一連の出来事のことである。
 ロストロポービッチだと思ったのは、私の見間違いだったのだろうか。この「チェロを弾いている者」の消息を、今に至るまで、私は聞いていない。
 ちなみに、我がシェアハウスのコレクションには、『無伴奏チェロ組曲』は以下の演奏者のものがある。パブロ・カザルス、ロストロポービッチ、ヤニス・シュタルケル、今井信子、ヨーヨー・マ(2種)、ミシャ・マイスキー、堤剛、ピエール・フルニエ(2種)。まだあるが、それは省略。
 こういった音楽に詳しい人は、今井信子で、「エッ?」と思ったはずだ。今井さんはビオラ奏者なのである。ビオラとチェロは、1オクターブ違うものの、チューニングは一緒だ。だから、今井さんは茶目っ気を発揮し(ホントか?)、弾いたのかもしれないが、それがなかなかいい。
 今井さんには、『Bach and Sons』『My Bach on Viola』というアルバムもあるが、このふたつはまったく同じものである。なんでこういうことになったのか。文庫本にはよくあるよね、単行本発行時とタイトルがまったく違うものが。これも、どちらも(笑)いいよ。
  

「ずいぶんお上手ですねえ」0616

 ベルリンの壁崩壊よりも10年程度前、やはりNHKのドキュメンタリー番組で、ジプシー・フェスティバルを取材したものが放映された。
 世界には農耕民族、狩猟民族などがいるが、祝祭民族というのもあっていい。漂泊民がいるんだったら、漂泊民族だってあっていいような気がする。松尾芭蕉も、『奥の細道』の序文で、「漂泊の思ひやまず」と言っている。松尾クンも漂泊民っぽいところがあるなあ。遊牧民族なんていうのも、漂泊民族に近い気がする。海洋民族も近いなあ。
 漂泊民族も祝祭民族も狩猟民族も、私の思い入れでは互酬(贈与と返礼)で生きている人々である。
 ジプシーは、このごろでは賎称、蔑称のようで、心ある人は「ロマ」と言うようだが、ここではジプシーで通させてもらう。
 さて、ジプシーの、さらにフェスティバルだから、祝祭の2乗である。幌馬車のようなものを連ね、野越え山越え、南フランス(だったと思う)の会場までやってくる。その映像を見るだけで嬉しくなってしまう。
 とは言っても、1980年あたりだったから、幌馬車はたぶんレアケースで、絵になるから撮影したに過ぎず、大半は散文的にピックアップトラックやらなんやらで集まったんだろうなあ。まあ、仕方ない。私らの期待なんぞには頓着しないほど、彼らは気ままなんだから。
 食い物屋の屋台が出たり、あやしげな物品を売っていたり、占いの屋台が出たり、祝祭空間の典型のような光景をカメラは延々と写していく。
 5、6人くらいの男たちが地べたに車座になって座り、ギターを演奏している映像が出て来た。
 アナウンサーは、「ずいぶんお上手ですねえ」とコメントした。
 バカかよ、おまえ。上手いに決まってるだろう。ギターを弾いていたのは、マニタス・デ・プラタである。訳すと「銀の指」。「沈黙は金。雄弁は銀」といい、東洋人、特に日本人が聴くと「沈黙」のほうが偉く聞こえるが、この「銀」はプラチナであり、言うまでもなく「雄弁」が偉い。つまり、「銀」のほうが偉い。
 まあ、そんなことはどうでもよろしい。このときも私は、「NHKのアナウンサーは、ものを知らねえな」と思ったのである。前回のロストロポービッチは、映像は数秒間だったので多少自信がないが、こちらは100%保証付きである。あれは間違いなくマニタス・デ・プラタだ。
 この番組を見て以来、数年間、その季節になると、私は打てるだけの手を打って、ジプシー・フェスティバル開催の情報を得ようとした。行きたかったのだ。探し方が悪いのかもしれないけれども、情報は皆無。もしかして、アイツら根がジプシーだから、「いついつ、どこそこでやりますよ」などという告知などはせず、なんだかよくわからないルートで話が伝わり、それであれだけ集まってしまうのではないかと考え、私は探索を諦めた。
 マニタス・デ・プラタは、アメリカのレコード会社の「録音したい」というオファーに対し、「聞きたいなら、そっちが来ればいい」と言ったという。いい話だ。飛行機嫌いだったようだね。
 それでも、奇跡のように日本へ来て、確か2公演やった。よみうりホールだった。当然、私は行った。聞いてしばらく、頭のなかがフラメンコになっていた。
 マニタス・デ・プラタを知らなくても、ジプシー・キングスなら知っているだろうと思う。彼らは、マニタス・デ・プラタの眷属で構成されている。ジプシー・キングスも知らない? 『インスピレイション』が『鬼平犯科帳』のエンディングテーマ曲に使われていたよ。

ベルリンの壁崩壊0617

 ベルリンの壁崩壊(1989年11月9日-10日)から2年後くらいだったろうか、大月書店がマルクス・エンゲルス全集の廃刊を決めた。ところが、ドイツでは、かえってマルクスの著作が読まれるようになったという。
 この話を、私の記憶では、2か所で読んだ。
 つまり、ベルリンの壁崩壊で日本では「マルクス主義は終わった」と判断し、ドイツでは、「マルクスのどこが間違っていたのか」と考えはじめたということになる。このドイツの風潮の先の先の先くらいに、2012年ベルリン自由大学哲学科修士課程修了、2015年フンボルト大学哲学科博士課程修了という斎藤幸平さんの存在があると、私は考えている。
 私は、ボルシェビキ革命後、近隣諸国の軍事的な圧力に対し、レーニンが白軍を再編成し、赤軍に組み入れた段階で間違いが始まったと感じる。
『甦るヴェイユ』(吉本隆明)に、「マルクスやロシアのマルクス主義の指導者たちの<戦争>についての考え方」を「一口に簡単に要約」した箇所がある。新書版あとがきのなかである。

 マルクスは素朴に一般社会の民衆(賃労働により生活している人々)の正義感(倫理感)を基にしてひとつの国家と他のひとつの敵対する国が<戦争>をはじめた場合、民衆は弱小な国家を支援すべきだとした。
 レーニンとトロツキイのようなロシアのマルクス主義指導者は<戦争>がおこなわれたら当事国の民衆(同前)は自国が敗北するように戦うべきだとした。
 ロシアマルクス主義の最後の指導者スターリンは<戦争>が始められたら民衆(同前)は何はともあれ民衆(同前)の<大祖国>であるソ連を守るように戦うべきだとした。

 上記に次いで、吉本さんは、「マルクスの考えはいかにも思想家らしい」「ロシアのマルクス主義指導者たちの考え方は、いかにも政治的実践者らしい」と評し、スターリンのそれを「『いい気になるな』『世界の「民衆」をなめるな』とか半畳を入れたくなる」と言っている。
 ローザ・ルクセンブルグは、この問題ではまったくレーニンとトロツキイを踏襲しており、シモーヌ・ヴェイユは、そのローザ・ルクセンブルグを批判して、「戦争自体がいけない」と言っている。とは言っても、ヴェイユはスペイン市民戦争には「従軍」している。もちろん、市民軍のほうだ。
『甦るヴェイユ』の「あとがき」に、吉本さんの「まとめ」のような言葉がある。それを紹介する。

 ヴェイユは生きた同時代のいちばん硬度のおおきい壁にいつも挑みかかり、ごまかしや回避を忌みきらったため、壁に沿って必然の曲率でねじまげられた。だが、この曲率は比類のない正確な歴史曲線をかたちづくっている。こういう断定をゆるすような決着は、もちろんここ数年の世界史のうごきのあとはじめてはっきりしたといってよい。 

規格0618

 朝起きたら階下に行き、まずコーヒーを淹れる。自分の分を淹れる前に、このごろでは、我がシェアハウスのおばさん用のコーヒーを淹れることが加わった。おばさん用は、だいたい2日に一度程度だ。
 おばさんは、熱い飲み物は飲まない。よって冷やす。そのため、この手順のほうが合理的だ。おばさん分のコーヒーでポットを温めるわけである。つまり、おばさん分のコーヒーは、ポットの温めカス(笑)。
 おばさんはがんの予後にがん関連の書籍を読み漁り、中川恵一さんの本で「一日に2、3杯コーヒーを飲むといい」という語句を発見したのである。それ以来だ。
 当初、ポットにコーヒーを落とし、それをペットボトルに入れ、冷やした。ところが、ペットボトルだとなかなか冷めない。それで、おじさんが毎日飲む500mlのビール缶に着目した。アルミなので熱伝導率もいい。
 ポットからアルミ缶に移し、洗い桶に水を張り、冷ますわけだが、フタをしないと水が入る恐れがある。なんとなくとっておいたワンカップ(酒)のフタを使ってみたところ、これが500mlのビール缶にぴったり。
 規格があるんだろうな。
 規格と言えば、ポットに一杯のコーヒーをつくると、それがちょうど500mlである。これも、こんなことを始めて、初めて知ったことである。
 つい最近、私は台所改革を行った。台所の水切りかご(ステンレス製)には、スプーンや箸などを入れる小さな水切り(これもステンレス製)が付属しているのだが、ここに菜箸や菜箸用に使う割り箸などが常駐していた。どちらも白木なので、必然的に水を吸い込む。そのため、滞在時間の長い箸類にはカビが生じる。これが目に余るようになったので、河鍋暁斎展で買ってきた暁斎の絵付きのワンカップを使い、それに乾いた箸類を入れるようにしたのである。これは成功。それ以来カビに悩まされることはなくなった。
 ところで、自分用のコーヒーや、おばさん用のコーヒーが微妙に余ることがある。そういうときにはコップに余りのコーヒーを移し、ラップで蓋をして冷蔵庫に入れるようにしていた。
 ところが、前述のワンカップの蓋で欲の出た私は、これもワンカップにしたら…という考えにとりつかれた。で、ワンカップ大関を新たに買ってきて、当然中身は飲み、空いたカップに蓋をしたところ、微妙に合わない。蓋が外れてしまう。ようするに、ワンカップ大関の蓋は、コップ部分にではなく、それを覆うアルミの蓋部分に合うサイズなのである。規格があるとは言っても、微妙に違うんだね。
 これは、前述の暁斎コップとワンカップコップとを入れ換えることで難なく解決した。暁斎コップに、ワンカップ大関の蓋はぴったりだったのだ。
 私は、こういうちまちました工夫が好きなのである。
 台所だけは汚れているのが嫌なので、ちまちまときれいにする。コーヒーミルを拭いたウェットティシュで、タイルなどを小まめに拭いたりする。
 私を、台所の隅にでも転がしておいたら、台所は常時きれいになっている。維持費もかからない。

 
ヴェイユvsトロツキー0619

 前々回の続き。
 シモーヌ・ペトルマンの『詳伝シモーヌ・ヴェイユ』に、レオン・トロツキーとの議論が出てくるところがある。この件についてヴェイユはメモを残しており、それを参照してペトルマンは復元したと思われる。ヴェイユは24歳である。
 1933年12月末、ヴェイユ家は第四インター結成に向けての会合の場を提供しており、そこへトロツキーがやってきた折の話だ。ヴェイユ家は名家だったのだろう。父親は医者で、お兄さんは数学者のアンドレ・ヴェイユである。
 私の記憶では(だから、あてにならないが)、この議論は「ソヴィエトは労働者国家とは言えない。労働者とそれを管理する政治家、官僚がいて、労働者は一生労働者のままだ」とヴェイユが口火を切った。
 一言だけコメントをすると、レーニン、トロツキー、スターリンは肉体労働など一度もしたことがないはずだ。「一度も」は多少言い過ぎかもしれないが、「一定期間」かつ、多少なりとも「これが一生続くのか」と思いながら労働をしたことはないはずだ。たぶん、ここでヴェイユがこう考えたことが、後の工場労働体験に彼女を向かわせる遠因になったと、私は考えている。
 これ(工場労働)は、ヴェイユにとって、必ずしもいいことではなかったと、私は思う。それでも、これだけでもレーニン、トロツキー、スターリンとそれに続くロシアの指導者連中よりもずっとましで、得たものはあったはずだ。少なくとも、後年の「不幸の神学」の萌芽は、この工場体験で得ていると考えてよい。
 トロツキーはヴェイユに対し、「ロシアの労働者は、ロシア政府を支持、少なくとも黙認している。それは、労働者の国家である証しだろう」という意味のことを言う。
 それに対して、ヴェイユは「ロシアに限らず、どこの国でも、労働者はその国の政府を黙認はしている。それなら、それらの国も労働者国家になってしまう」と返す。
 トロツキーは「きみはまったく反動的だ」といった捨て台詞を吐くが、「あなたは欺瞞的だ。隷属させられている階級(労働者階級)を支配階級と呼んでいるのだから」と応じる。
 今回の話は、前々回お話しした『甦るヴェイユ』(吉本隆明)にあったものだが、ペトルマンの記述に関しては、私の記憶である。『甦るヴェイユ』とは発言の順序が変わっているが、それぞれのセリフは『甦るヴェイユ』にあったものとほぼ同じだ。
 吉本さんは、「このトロツキーの見解(黙認しているということ)はどうかんがえてもおかしかった」と述べ、トロツキーの言う労働者国家が成立するためには「政府(国家)はいつでも労働者や一般民衆の無記名投票でリコールできるようになっていること、そして労働者や民衆の異議申し立てをいつでも弾圧できる国軍や警察をもたないこと」が必要な前提であると言っている。
 私としては、もうひとつ、「『指導者層』と『労働者層』が、いつでも交換可能になっていること」を挙げておきたい。勘違いされないために申しあげておくと、この荒唐無稽な意見は、あくまでも「トロツキーの見解が成立するためには」ということである。
『甦るヴェイユ』の底本は、1992年刊。2回前の「ベルリンの壁崩壊0617」から3年後である。その章の最後の吉本さんの言葉を紹介するために、言わずもがなのことを言った。

 歴史はレーニンやスターリンはもちろん、トロツキーの言説をも審判したことは明瞭だ。ソ連邦共産党の国家支配は現在、歴史を劃する解体にさらされている。この事態にヴェイユの生涯にわたる思想が、すべて生き甦えるかどうかはわからない。だが、初期ヴェイユがレーニンやトロツキーよりは、はるかに甦えっていることは疑いえない。(p.62)

 ロシアは解体の後、ろくでもない再建をしてしまったようだが、これはパリ・コンミューンとナポレオンの関係を思い出すまでもない。残念ながら、一瞬の輝きの後は、暗黒が一定期間続くものだ。
 

江戸時代のエアポケット0620

 慶長6年(1601年、関ヶ原の戦いの翌年)から慶応3年(1867年、大政奉還の年)までの267年間で、江戸では49回大火と呼んでいい火事が発生している。同じ期間で見ると、京都が9回、大阪が6回、金沢が3回であり、江戸の多さが突出していることがわかる。
 この程度は知っていた。私は現在のことはよくわからないが、江戸時代のことは割合詳しいのである。万が一、江戸時代にタイムスリップしても、それなりにやっていけると思う。
 さて、『明暦の大火』(黒木喬、講談社現代新書)を読了した。古本市で3冊100円で買った本だったし、あんまり期待していなかった本だし(だいたい黒木さんのお名前すらも、私は存じあげなかった)、まあせっかく買ったんだから読んでみるかな程度のことで読み始めたわけである。
 おもしろかった。おもしろかった理由はいくつかある。
 まず、黒木さんは「柴垣節」という薄気味悪い歌の流行から、『明暦の大火』を書き起こし、「地獄染め」というこれまた薄気味悪い着物の流行につなげ、寛永の大飢饉に至る。これが、『明暦の大火』に至る背景である。
 要するに幕藩体制の屋台骨が下部構造から揺らいでおり、世情は不穏、それが前述の風潮を生み出した。それを抑えるために田畑永代売買の禁止が発令され、慶安2年(1649年)の「慶安御触書」に結実する。これは菅義偉の「自助、互助、公助、そして絆」の先駆みたいなもので、「早起きしろ」「田畑の耕作に励め」「晩には縄をなえ」「俵も編め」「酒や茶を買って飲んではいかん」「百姓は思慮分別なく、先のことを考えないので、いつも冬枯れの気持ちで食い物を節約せよ」など、言いたい放題である。
 おもしろかった理由の最大のものは、私が知っている切れ切れの江戸時代のことの、ちょうどエアポケットのようなところを充填してくれる本だったというところにあった。
 また、江戸草創の膨張期の気配を十分に感じさせてくれる本だったことも大きい。そういう本は意外に少ない。
 無役の旗本は年俸を受ける代わりに、石高に応じて小普請の人足を出す義務を負わされていたが、常時人足を確保しておくわけにもいかない。そこに、口入屋稼業が発生する地盤があり、その地盤へ出稼ぎ人が流れ込み、また彼らの一部は口入屋に寄宿し、町奴という、まあヤクザが生まれる素地が形成されたわけである。この町奴のスーパースターが幡随院長兵衛だ。
 旗本のほうでも負けてはいない。水野十郎左衛門が大小神祇組を結成し、町奴と激しく対立した。その他、白鞘組とか、様々な組が生まれた。
 明暦3年(1657年)7月18日、水野は幡随院長兵衛を殺害したが、この件に関してはお咎めなし。水野は旗本だったので、町方の手には余ったのだろう。
 ここまでで、女性の話がひとつも出てこない。要するに、江戸は非常に大きな飯場のような街だったのである。つまり、普請、上水の掘削・整備、寺院の移転による市街地再開発など、急膨張の塊のような街であり、男ばかりの街だったのである。そこで、吉原などの悪所や、それに類する場所の需要が発生する。
 上記、明暦3年が『明暦の大火』(振袖火事)の年である。
 正月18日、19日に山の手3箇所から出火し、両日とも北西風により延焼、江戸の大半が被災し江戸城天守、本丸、二の丸、三の丸も焼失した。振袖火事は江戸時代最大の被害を出した大火であり、死者は最大10万7000と推計されている。東京大空襲(下町大空襲)が最大で10万と推計されているので、人口を考慮に入れれば、それ以上の規模の災厄であったと言えるだろう。

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