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記憶の道、間近の車窓

急遽、文学フリマ福岡には新幹線で向かうことになった。人生で何度か乗った覚えがあるけど、ここ数年は乗っていなかった。長距離の旅は、車を使っていたからだ。

小田原駅からこだまに乗っている。聞き覚えのある地名を冠する駅まで、あっという間に辿り着き、あっという間に過ぎていく。これがひかりやのぞみだったら、あっと口を開くまでもなくいつの間にか過ぎ去っていくのだと思うと、この乗り物は実に魅惑的だ。

車窓を眺めていると、見知った風景と出会う。熱海の再開発中の斜面、国道1号バイパスと隣接する田子の浦付近、浜名湖の切口に架かる浜名バイパスの橋。蒲郡の湿地的な沿岸の風景……。
別の視点から見覚えのあるものを見る経験は不思議な心地だ。大昔、応援席でしか見たことがなかった横浜球場のグラウンドに、なにかの大会の開会式かイベントで降り立ったときの心地に似ている。あるいは、体育館の壇上に初めて立って、生徒たちを見回したときのような。

しかしその一方で、多くは見知らぬ風景だった。
薩埵峠付近では、いくつものトンネルをくぐった。そのとき、想像以上に峠の区間が長くて驚いたし、掛川周辺の刈り尽くされた田園を見て、そもそも掛川に広大な平地があること自体新鮮だった。

僕は驚きと同時に、一種の淋しさを覚えた。
なんやかんや言って、僕はたくさんの道を見てきた。多くの地名が馴染みのものになったし、土地や時間帯によって走る車の速度に違いがあることも知っている。いつの間にか、僕は道を知り尽くしていると自惚れていたのだ。

けれど、そうではなかった。
ちょっと違う乗り物に乗って窓を見ただけなのに、知らない風景はこれほどたくさんあるのだ。
僕は、世界を知り尽くしたわけではなかった。
世界に張り巡らされた、細い糸の数本を、僕は「世界」などとたいそれた呼び名を付けていたにすぎない。
「ならばこれからもっと探しに行こう。世界の糸の一本一本を拾いに行こう」
きっと、かつての僕ならば能天気にそう言っていただろう。
でも、それができない身体になってしまったら。僕は最近、そんなふうに怯えている。もしかしたら僕はもう、運転席のフロントガラスごしに田子の浦の高架道路を眺めることはできないのではないか。工場の煙突から出る、あのトウモロコシに似たかぐわしい香りを、アクセルを吹かしながら堪能することはもう叶わないのではないか。
そんな淋しさを、胸に抱いている。

どうかこの記憶が鮮明なうちに、僕の見た風景を留めておきたい。
などと、思いつつ。通過待ちする三河安城駅の白いホームを眺めながら、書いている。

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