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001:黄昏時【ユーメと命がけの夢想家】

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 黄昏は、誰そ彼、から転じたものらしい。そのことを、中3の古典で習った。暗くなってきて、目の前の人が誰だか分からなくなる時間、つまり夕方ってことだ。黄昏時。その字面もあわせて、当時の俺はカッコいい名前だな、なんて思ったりもした。
 でも、よくよく考えてみると、「誰そ彼」、と疑念を抱くのは、夕方だけではないってことに気が付いた。
 黄昏時は、孤独を抱くと音もなく、いつだって訪れる。
 俺にも、そしてたぶん、灰野にとっても。


「灰野、こないだ読んでたやつ、どうだった?」
「どうだったって、僕の感想なんかより、実際読んでみればいいのに」
「つっても、お前の話が面白いんだからいいだろ。聞かせてくれよ」
「古木は本当に、読まないもんなあ」

 のんびりした奴だ、というのが灰野に対する第一印象だった。
 高校生になって初めての教室で、前の席だったことがきっかけだった。左右の席の子は早々にグループを作っていたし、最後尾の席だから、後ろには誰もいない。よって、入学式を孤独に過ごさないためにも、前の席の男子と話すほか、選択肢はなかった。逆に言えば、灰野が前の席でなければ、俺たちのあいだに縁は生まれなかっただろうと思う。

「読むときは読むさ。でも、それより話をするほうが面白い」
 それから半年近くがたった。そろそろ冬休みも近い。

 ここで学級員から声がかかる。おしゃべりもいいけど、職員室へ行く約束を忘れちゃ困る。……忘れちゃないさ。ノートの返却に、人手がいるんだろ?

「悪いな灰野。また聞かせてくれ」
「人気者はつらいね」
「いいさ、おやすい御用ってやつだし」
 軽く笑んで、教室をあとにした。

 廊下で待つ学級委員は、僕に気付くと軽く手を上げた。
「悪いね、ふるっきー」
 ふるっきーは、俺のあだ名だ。
「いいって」

 職員室への用事は、毎週金曜日おこなわれる。ひとクラス分のノートなんて大した量ではないのだが、教室から職員室へは、階段と渡り廊下を歩く必要があり、時間がかかる。つまるところ、彼は話し相手を求めているのだ。
「あいつももう少し協力的でいてくれたらいいんだけどなあ」
 学級委員は苦笑いを浮かべ、学ランの詰襟を軽くいじった。「あいつ」とは、もう一人の学級委員のことだ。

「俺を誘ってばっかいるからじゃねえの?」
「そうなんだけど……でも、ほら、ふるっきーって話しやすいし、頼れるし、みんなから慕われてるし」
「そりゃ光栄」
 おどけて見せるのも、無自覚に次の〈頼り〉を欲するためなのではないか、と思わず背筋が凍る。
 でもそんな恐怖は微塵も見せないよう努めたまま、俺は学級委員の隣を歩いた。

「ふるっきーって、灰野さんと仲いいよね」
「まあな。変か?」
「変ってわけじゃないよ」
 でも……と、学級委員は少しだけ言い淀む。
「灰野さんって、なんか独特というか、不思議な人だよね。なに考えてんのか分かんないっていうか」
「そうか? 結構面白い奴だぜ。なに考えてんのか分かんないっていうよりかは、俺たちじゃ到達しえない領域まで考えをめぐらしてるっていうの? 俺はそう思う」

「でもそれって、同じ高校生って感じじゃなくね?」
「あいつには、参考人がいるんだよ。ほら、本を読んでるから。何千っていう、本のなかの人たちの声をもとに、考えを深めてんのさ」
「へー……まじか」
 頭のうしろに両手をまわし、あー、おれにゃ無理だな読書って、と学級委員は声を響かせた。休み時間のにぎやかな廊下でも、その声はよく響いた。


 変な人間だと、思われただろうか。
 あるいは、灰野を変な人に貶めてはいないだろうか。
 そんな恐怖を隠すように、暗い部屋のなかでスマホの画面を照らしている。画面に指を這わせ、3秒後の興味だけがいつまでも持続する単調で魅力的なゲームを進めている。

 俺はいつだって失敗をおそれている。学校では「失敗を恐れるな」と教育されるけど、失敗をすれば、あっという間に孤独に陥る。でも、その考えだって誤りであることに、うすうす気づきつつもある。俺はクラスの人気者で、頼れる兄貴キャラとしての地位を確立してる。でも、別に俺はそんなの望んじゃいないのだ。そもそも人気者になれる器じゃないし、頼りにされるのだって、便利キャラじゃなくなれば誰からも相手にされないのではという不安からだ。

 俺は、ふるっきーであることで、高校に居場所をつくってしまった。古木という人間の席を追いやって、ふるっきーが座っているのだ。
 そんな人間、俺は知らない。


 土曜日。
 部屋にこもりきりというのは、身体に毒である。この部屋は、俺から行動力と気力をじわじわ吸いとってくれる。このままでは干物人間になりかねんと思い、目的もなく外へと飛び出した。

 自転車に乗り、駅前のファーストキッチンでポテトを頼み、そのままふらふら街道を走った。建物の背が低くなり、代わりにひびが増え、川を境に世界は変わる。地面に巨大なお椀をのせてつくりました、とでも言いたげな山が対岸にある。中学時代、自転車で山頂を目指して、見事挫折した苦い思い出がよみがえる。苦い思い出だけど、頭を空っぽにするには、身体をへとへとにさせるのが一番だ。山頂を目指した。

 登頂ルートは、街道を逸れ、山の裏手から伸びている。観光地化された山だから、頂の駐車場は地元民の車であふれていることだろう。山沿いに進み、十字路を左に折れると、ついに坂が現れる。蛇行しながら距離を稼いでいくが、道の脇はコンクリートでかさ上げされた住宅地の土台ばかり。人間の領域は山の中腹の三叉路まで広がっている。

 三叉路を曲がると、家の数より樹の数が多くなる。斜面はどんどん急になって、立ち漕ぎしてもちっとも前に進んでくれない。ついに息を切らした俺は、自転車からおりて、息を整えながら押して歩いた。木の隙間から漏れる日差しが鬱陶しいと思ったちょうど矢先、坂を曲がった先に、見覚えのある後ろ姿を目撃した。昼過ぎのことだ。

 あれは、灰野。
 声をかけようと思ったが、その姿に違和感を覚え、言葉がつっかえた。その違和感の正体はヤカンだった。どこの家庭にもありそうな、ヤカン。そいつを灰野が持って歩いてる。しかし底が黒ずんでいる。焦がしたのだろう、と納得しかけたが、フライパンや鍋ならまだしも、ヤカンに焦げがつくことなど、あるのだろうか。

 奴の足ははやかった。せかせかと坂を登っていく。俺は着いていくのもやっとで、カーブをへるごとに灰野の背中は遠のいていくばかりだった。俺の抱く灰野のイメージとは、どこか違う気がした。

 お前は、誰なんだ。
 未舗装の道路へ逸れる。当然足を踏み入れたことのない領域で、一瞬進むのを躊躇した。だが、妙な好奇心と、それと平坦であることと、それと灰野の後ろ背が気になって、サドルに腰かけペダルを踏んだ。

 灰野が足を止めたのは、建築資材置き場だった。金属という金属にさびがついていて、周囲は穴の開いた波トタンで覆われている。使われてる形跡はあるものの、働く人の姿はない。平日ならば、また違った雰囲気があるのかもしれないが、今はものものしさとおぞましさが支配していた。そして、その気配の中心が灰野であることに気付いて、身震いするのだった。

 灰野はポケットからチャッカマンを取りだすと、慣れた手つきで赤さびだらけの角一斗缶に火をつけた。着火剤が入っていたからか、勢いよく薪が燃え、パチンと音を立てた。それから木の棒を二本、ブリキ缶の上に置き、そこにヤカンを乗せるのだった。

 なるほど、ヤカンの底が黒いのは、煤のせいか。灰野はそれを、わずかに身を右に傾けながら眺めている。その様を俺は、トタン板の穴から覗いて見てる。とてもじゃないが、学校のように気安く声をかけられるような雰囲気ではなかった。

 しばらくして、灰野は資材置き場に転がるバールを掴み取った。これも他のものと同様、塗装が剥げてさびが出ている。だがそんなものはちっとも気にする素振りもせずに、灰野は奥へと行ってしまった。

 1分もしなかったろうか。でも俺にとってはひどく長く感じられた。ヤカンの先から勢いよく蒸気が立ちのぼる。どうやら灰野は、自宅で沸騰させたものをわざわざ持ってきたらしい。フタがかたかたと音を立て、あふれた湯がシュゥと火にあぶられる。

 それから、資材置き場の奥からばけものの唸り声を思わせる音が聞こえた。あるる、かしゃしゃ、かたん、べあある。金属をこするような、けだものが暴れる音。奥から現れたのは、灰野だった。バールを牽引ロープ代わりに、ダンボール箱サイズの檻をひきずっている。檻のなかで、けだものが声を上げている。ウーともハーともガーとも聞こえる威嚇だ。しかし灰野はまったく気にすることもなく、蒸気を上げるヤカンの前まで檻を引くのだった。

 よく見ると、そのけものは猫らしいことが分かった。猫らしい、というのは、俺のイメージする猫とはまったく異なる形相をしていたからだ。ぼさぼさの毛を逆立て、黒ずんだ牙をむき出しに。なにより瞳がかけ離れている。猫の眼というよりも、人間の眼と解したほうが、まだ頷けるほどに、恨めしい視線を正面の男に向けている。

 しかし、それは猫だった。尾が分かれてるわけでも、眼がみっつあるわけでもはない。ただ環境が違うだけで、猫なのだ。

 灰野は息するようにヤカンを持った。途端に猫は臆病に隅で丸まった。それから、ビャ、と悲鳴を上げて檻のなかでのたうち回る。円を描くようにして、静かに注ぐ。蒸気もまた輪を描く。ドリップコーヒーでも淹れるようなこなれた手つきだった。そうか、猫はそんな声も出せるものなのか。

 いや、違う。なにをしてるんだ、俺は。
 あまりに自然な動作だったから、それが普通なのだと思ってしまった。自転車を放り投げ、慌てて飛び出して、真っすぐに駆ける。

 そのまま、ヤカンに飛び蹴りをお見舞いしてやった。金属の跳ねる音と共に、熱湯が周囲にばら撒かれた。

「灰野、お前、なにやってんだ」

 バタバタと檻のなかの生きものが暴れまわる。その音と、焚き火の音。しばらく俺たちは対峙した。いや、〈対峙〉だなんて思ってるのは、俺だけなのかもしれない。

「ケガはないかい」

 奴は、俺をいたわるような、静かな調子で呟いた。
「ヤカンを蹴るなんて危ないよ。お湯が足首にかかることだってあるんだから。湯が靴下に染みると、想像を絶する熱さなんだぞ」
 彼の言葉に、呆気に取られてしまった。

 灰野はいとおしげに、フタの取れたヤカンを拾い上げた。あたりから立ち込める湯気が、土から解脱する魂のように思えてしまった。

「こんな、虐待だぞ」
 呑まれてなるもんかと、努めて語気を荒くする。でも、俺の声なんか、届くわけがないとも思ってしまう。それくらい、灰野の態度はやわらかく、慈悲にあふれて、菩薩のようにうっすらとした目を向けてくるのだ。

「そうだね、ひどいことをするね」
 まるで他人事じゃないか。そんな憤りをぶつけようとも思った。

「このノネコは、タマを抜かれてるんだ。去勢。生殖できなくさせてる。君が住んでるとこにも、いただろう?」
 ノネコ、という妙な言い回しが気になる。灰野にとって、この生きものは猫ではなくて、別の種族だと認識しているのだろうか。

「いた、と思う。最近見かけないけど」
「健全な街なんだね。君んとこの街も、ゆるやかに、根絶が進んでいる。まあこれ自体は仕方のないことさ」
 灰野はバールを持つと、檻をがりがりと掻いた。当然、猫は興奮してまた暴れだした。

「猫の去勢とお前の虐待、なんのつながりがあるんだよ」
「どうだろう。ただ僕はね、ノネコに、生き方を教えてるだけなんだ」
「熱湯ぶっかけることが、か?」
 灰野は、音もなく頷いた。

 ふざけてやがる。狂ってやがる。気味が悪い。どろりとした感情がうずまきながらも、そのほとんどを言葉にできないまま立ち尽くしていると、灰野は静かに語りだした。

「思ったとおりの反応をしてくれる」

 灰野の一言に、背中から汗が噴き出した。
 今のは、熱湯をかけられた猫に言ってるのか?
 それとも、クラスの頼れる「ふるっきー」に対して?

「言葉を理解してはくれない。だから自分の境遇も、ちゃんと分かってないんだ。ちゃんとした、まっとうな抗い方をしてくれるには、こうするのが一番いいんだ」

 ……たぶん、猫に対してだ。と、安堵する自分が、ばかばかしかった。

「去勢されたノネコは、一昔前はたくさんいた。でもそれもこの子で最後なんだ。勝手に捨てられて勝手に去勢させられて、勝手に根絶させられる。なにより腹が立つのは、それにもかかわらず当のノネコは平然としているってことだ。もっと怒りをあらわにしてもいいはずじゃない。どうせ死ぬのだから、その牙と爪でもって一矢報いてから死ぬべきだろう。でなければ、この世に生まれた意味なんてないじゃないか」

「そんなもん、猫の勝手だろ」
 平然としてるのなら、そのままにしておけばいいだろ。

「それじゃあ、君はどうするんだい?」

 灰野は、燃える角缶に鉄板を被せる作業とあわせて、そんな問いを投げた。

「僕のことを警察か動物愛護団体に言いつけるかい? それでこの子は救われる? 真心を込めて保護でもする? それとも、見て見ぬふりでもするのがいいのかな? ……君からすれば、この子がもっとも救われるのは、僕とこの子が出会う前に、保護することだろう。でも、もしそのときに出会ってみてよ。君はきっと、この猫の存在すら、認知しないだろうね」

 言い返そうとした。そんなはずはない、と。でも、一度言葉をつっかえてしまうと、もうなにも声にすることはできなかった。灰野の言うことに、なんの誤りもないことを理解してしまったからだ。
 誤りはない。でも、奴は間違っている。だとしたら、俺はどう言い返せばいいんだ……?

「……時機だってことだよ。そして、君はノネコを救いたいわけではないんだよね。自分自身が気持ちよくなりたいだけなんだよね」
「俺が? ちょっと待てよ。そもそも、猫に湯をぶっかけてんのは、お前が気持ちよくなるための方便だろ。ノネコ?のためだとか、人類の業だとか言ってるけど、お前、ただの言いがかりにすぎないんじゃないのか?」

「そのとおりだよ」
 灰野は目をきらきらさせた。
 調子が外れる。図星なら、もっと言いよどむなり腹を立てるなり、もっと別の反応だってあるだろうに。

「僕も思うんだ。いかなる行動は、自分が気持ちよくなるためのもので、それ以外に理由を挙げたとしたら、そんなものは全部方便さ。君が僕を止めるのだって、ノネコや僕を救った気になって気持ちよくなるためだけど、でも実際、なにひとつとして救われない。ノネコが抱いた傷は癒えないし、僕は別のノネコか生きものに熱湯をかけるよ。それなりの方便を添えてね」

 ヤカンに付いた泥を落とした灰野は、フタを被せてさらにつづけた。
「ノネコはきっと、檻から放てば暴れだす。僕から与えられた恐怖から脱するまで、ひたすらかみつくことだろうね。君だってそうだ。現状に不満があるなら、ひたすら噛みつけばいい。牙がないのだとすれば、別の気持ちよくなることをすればいい。世界は、そういう原理で成り立ってるんだから」

 でも、今日はひとまず、ここでお開きしようか。そう灰野は言って、角缶の上に置かれた鉄板をバールでどかした。あれほど燃えていた炎が、跡形もなく消えていた。

「あ、こないだ読んだ本の感想だけどね、素晴らしかったんだ。主人公は大勢の人から見守られているんだけど、たぶん、今の君ならすごくよく共感してくれると思うんだ。どうしよう、やっぱお開きは、今から山を下りて、ファミレスのあとでも」
「いや、いい」
「そっか」

 そうつぶやいて、灰野はバールをトタンの壁に立てかけた。それから、小さく手を振って、資材置き場をあとにするのだった。

 結局、俺は灰野に対して、なにひとつ反省を促すことができなかった。その気があったのかすら疑わしいほどだった。
 残されたのは、俺と、檻の中で威嚇する猫と、すっかり鎮火してか細い煙を1本伸ばす一斗缶だけであった。

 どれも、灰野の手が加えられたものたちであった。

 呆然となりながら、足元のけものを見た。
 俺たちは、自らだけの意志で、変わることなんてありえるのだろうか。
 いや、そんなふうに考えては、俺はこの場所で立ち止まったままで終わっちまう。

 だとしても、俺ができることとは、一体。正しいのか、正しくないのかも分からないし、きっとそんな定規じゃなにひとつ測れやしない。なにかをなせば、あいつの思うツボだと思うと、歯ぎしりしたくもなるけれど。

 でも。

「……行こうぜ」
 檻を持ち上げると、猫は諸悪の根源を摘み取らんとばかりに、その指に牙を向けた。

 なにも言い返せなかったんだから、こうするしかないのだ。
 俺の部屋へ。キャットフードとミルクとともに。


テーマ:黄昏時
「お題.com」(https://xn--t8jz542a.com/)より

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