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幕間001:加虐と被虐【ユーメと命がけの夢想家】
前回
目次
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「これはもう遥か昔の話になるんだが」
作品を書き終えた僕は、ワークチェアに身を沈ませた。当然、話し相手はユーメである。
「インターネットの世界では、かつて猫のキャラクターが席巻していた時代があったんだ」
「あれは〈猫〉と呼べるような代物かしら?」
「まあ、いいじゃないか。モナーとかギコとか、文字や記号だけで作られたキャラクターがいて、そのなかに、〈しぃ〉というキャラクターがいるんだけど」
しぃは、愛らしい猫のアスキーアートキャラクターだ。ダンボール箱からひょこんと顔を覗かせる姿でよく見かけたものだ。
「〈しぃ虐〉なるジャンル……ジャンルと呼んでしまっていいのかは分からんし、人にすすめられるようなものでもない。とにかく、そういうカテゴリの落書きがあるわけで、あの手この手でしぃを痛めつけるわけだ」
「当時の君は、小学生だったのでは?」
「よく覚えてない。でも処女作で、ヒロインの背に生えた翼を引きちぎるシーンがあったし、やけに綿密に書いた記憶がある。それに、僕の唯一の黒歴史作品にも、腕が吹き飛ばされる描写があって、それもかなり熱が籠もってたんだ。だから、間違いなく影響を受けているだろう」
僕の話を聞いたユーメは、しばし考えを巡らしたあとで、深く息を洩らした。
「利用規約ギリギリの話題って印象だから、正直これ以上深掘りしたくはないんだけどな」
ユーメは左右に首を振って、降参のポーズを取った。
「自殺、集団自殺、自傷を賛美したり推奨したりするもの」「未成年者を犯罪行為またはそのおそれのある行為に勧誘するもの」「公序良俗に反するもの」の投稿は禁じるとある。
念のため言っておくが、僕は自傷を推奨しようとは思わないし、この作品でもって未成年者の犯罪行為を勧誘しようとはしていない。公序良俗に反するものでもないと信じている。というより、この作品で「反する」のであれば、それは物語の敗北にほかならない気もする。伝えようと考えている趣旨は違うものだし、読了後の余韻のなかで、その一点に「思いふけ」ていただければと。
そのうえで、
「加虐嗜好って、別に特殊性癖ではないと思う。むしろ特殊だと思ってしまうほうが危険だとも思う」
僕の主張に、ユーメは「ふうん」と声を洩らした。
「人を支配するときに感じる気持ちよさも、加虐嗜好のひとつなのだと仮定すれば、わりとありふれた欲求かもね。さらに言ってしまえば、承認欲求だって。相手から認められるということは、相手の心情を移ろわせるということにもなる。相手の思考・感情・態度を、【君の力】で揺り動かす。もっとも広域的な〈加虐〉といえる」
「元の意味を30倍希釈した定義ってところ? そんなの、もはや意味をなさない」
ユーメのつっこみは重々承知の上だ。どちらかといえば、これは言葉遊びの部類だ。
「そして、互いに変化が伴わないと、コミュニケーションとはいえない。つまり、コミュニケーションには広義的な〈加虐性〉が必ず付随する」
「もちろん、その背中に〈被虐性〉が触れ合ってる。交流には、SとMがつきもの」
ユーメの一言に、僕も同意だ。
とあるゲイポルノのセリフに「SってことはMってことなんじゃないかな?」というものがある。その演出も相まって、当初は意味不明なセリフに映ったけど、加虐性の背後には被虐性があることを暗示していることに気付いてからは、非常に気に入っている。
灰野は、猫に熱湯を注ぐことそれ自体に快感を覚えているわけではなくて、熱湯を被ることで、猫が反応を示すことに快感を抱く。反応がなければ、満足も得なかったことだろう。
サディズムの語源にもなったマルキ・ド・サドは、Sであると同時にMでもあったという。これを聞いて嗤う人もいるかもしれない。でも不思議なことでもおかしなことでもなく、ごく自然の、ありふれた感覚にすぎないと、少なくとも僕はそう思う。
「だってそうだろう? 挨拶をしたら、挨拶をしかえす。冗談を言えば、相手は笑う。手を差し出せば、握ってくれる。提案と反応で、社会は成り立ってるんだ。だとするならば、世界は加虐と被虐で構成されている」
「君は、幼いころにこじらせてしまったんだね」
話のオチでもつけようかというような、投げっぱなしの言葉に、僕は心中で疑問を抱く。
では、こじらせずに今まで生きている人間は、自らの加虐性と被虐性に無自覚なまま生きているということなのだろうか。だとすれば、それは地雷で積み木遊びをする幼児のように、あまりに危険なことなのではないか。
「でさ」
ユーメは真面目っぽく付け足した。
「この作品、粗削り感が否めない。後半を書きたいが故に、全体が書かれたようなイメージがある」
「悪いこと、かな。たぶん悪いことだと思うんだけど」
「それから、古木くんの話をもっと聞きたかったかな。灰野くんの強烈さで、古木くんが出がらしの貝ひもみたいに、味がない」
「読み返してみて、ちょっと思った」
「反対に灰野くんは、人間味がなさすぎね。〈黄昏〉状態の灰野くんを活かすためには、常時の灰野くんをもっと描写しないと、説得力がない」
「ユーメ、お前さ、前回とまったく違うことを言うのな。魅力的なキャラクターより、書きつづけることが大事なんじゃないのか」
僕の感情的な不平に対して、ユーメは不思議そうに首をかしげた。
「ええ、大事だけど。でも、キャラクターを蔑ろにしていいと言った覚えはないし」
「週1本ペースじゃ、これが限界だ」
自暴自棄に洩らすと、嘘、とユーメはぼやいた。
「ペースを掴んでないだけでしょ。この作品、構想から初稿まで半日で書きあげてる。つまりこれは、テーマから着想を得た、ワンシーン特化の即興小説。なにも考えずに書けば、こんな感じの作品が生まれる、ということは、把握すべきだと思うけど」
つまり、僕の苦手な部分は、心弾むストーリーと、魅力的なキャラクターを手掛ける点ということか。肝心な部分すべてじゃないか。
「振り返りは大切じゃないかな。今までずっと、書きあがったらそれでおしまい、ってことばっかりだし。きっとこんな物語に感想を寄せる方なんて、滅多にいないでしょうに」
「そうだろうけど。粗削り感は解消できる気がしないな。週1本って制約がある以上、どうしても即興的にはなるだろ」
ぐずぐずと言い続けると、ユーメは眉間に指を置き、んー、と唸った。
「どうした?」
「いえ、『できないなんて嘘つきの言葉ですよ』なんて、手垢だらけの常套句を言うべきか迷ってたんだけど、『のれんに腕押し』ってことわざもあるし」
「どういうことだよそれ」
「ま、いいんじゃない? しばらく即興的になっても」
そう突き放されるような言い方をされると、少々もの悲しくなるのが、僕の七面倒なところなのだった。
「語りたりない、いい表現を思いついた。書きつづけていれば、必ずそういう箇所が現れる。そうしたら、書きつづければいい。次挑戦する。機会はいくらでもあるし、また同時に刹那的でもある。書きつづけるって、そういうことでしょ」
僕はいつのまにか、「永久の未完成これ完成である」という言葉を好んで使うようになっていた。『銀河鉄道の夜』は、何度も書き直されたという。1次稿2次稿3次稿と、どれも魅力的な物語なのであるが、僕はどうも、ひとつの物語に固執してしまう節があるらしい。
なぜ固執するのか、それは、執筆の絶対量が少ないからだ。勝手に遅筆だと決めつけて、1段落1行1文字を、悪い意味で大切にしようと考えてしまう。大切に書き記せば、物語はいいものになる、と。
そして、僕はその幻想におぼれた。
なにも見えてなかったのだ。
「あと、制約をひとつ設けましょ」
すっくとユーメは立ち上がり、カーテン越しにまぶしい青空が垣間見える窓を眺めた。
「制約? 作品のけちを付けたあとで、さらにモチベーションを落そうというのか」
「君のモチベより、便宜をはかるほうが重要だからね」
作品を書いて、その作品についてユーメと語る。この形式で進めていくために、必要なこと。
「君の書く作品の語り手の一人称は、〈僕〉以外。いかがかな?」
「はあ。それはどうして?」
「君の一人称とかぶるからに決まってる。それに、君の書く作品で『僕』を主人公にすると、大抵個人的体験を元にした物語ばかりになる。量産しやすいくせに、自己嫌悪に陥る未来が目に見える……」
ユーメの言い方は癪に障るが、以前僕は似たような過ちをしたことがある。奴曰く、僕は10年逃げつづけたという。となれば、前半4年はまさにこのトラップに引っかかって、虚無に陥ったのだ。同じわだちを踏む必要はないか。
ただ、いつの日か、僕らしさの薄い一人称『僕』の主人公も描けたらいいと思った。逃げてるばかりじゃ、しがらみから脱することはできないことは、傷とともに記憶している。
「分かった。善処しよう」
「口ごたえするのかと思った」
「ユーメには敵わないよ。それに、やっぱり僕は、口を動かすよりも手を動かすほうが性に合ってるってことを、思いだしてきたんだ」
へえ、とユーメはにんまり笑みを洩らした。
「立志篇ってところ恐縮だけどさ、君の志は、大抵2日で潰えるって、知ってた?」
またそういう痛いところを突くのがうまいのだ。そりゃ、ユーメからどんどん加虐してくれなくっちゃ、マゾヒストの僕は気持ちよくなれないけれど。
そうなのだ。僕が始めようとするものは、大抵2日で飽きてしまう。3日坊主にもなれない人間が、この僕なのだ。
「3日坊主な僕だけど、今までずっとあがいてきたことが、ひとつだけある。それさえ投げ出してしまったら、僕は本当になにもなくなってしまう。だから」
だから、書きつづけるよ。
……と、今までの僕なら、一番大切なものを地の文に置いてしまっただろう。手癖なのだ。もちろん、そういう演出が活きることだってあるけども、ここで重要なのは、ちゃんと、はっきり、声に出して、自らに言い聞かすってことだ。
「――書きつづけるよ、ユーメ」
ユーメは、小さく息をついて、それからゆっくりと頷いた。
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