002:秘密の恋【ユーメと命がけの夢想家】
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クロイシさまというお方がいる。
凛々しい眉毛とその横顔に、惚れてしまったんだと思う。でなけりゃ、一駅先の公園になんて通いつめたりなんてしない。
あなたは舞い散る葉っぱを見つけると、夢中になって追いかけて、掴みとろうと躍起になる。その真剣な瞳が、好きなのだ。
もっと、お近づきになりたい。
それは叶わぬ願いなのかもしれないけれど。
でも、一縷の望みを胸に抱いて、一歩、また一歩とにじりよる。
じゃり……。
しまった、と思って、砂利を踏んだスニーカーを恨む。
けれど、だめ。彼は素敵なお耳をぴんと伸ばし、わたしを凝視した。
目と目が合う。
これが。
これがヒト同士であったら、なにか新たな物語が始まる合図だったのかもしれない。
でもわたしの場合は。
「にゃ、にゃあ~?」
ぎこちない笑みを浮かべながら、手を挙げてみた。
いや、挙げる動作を始めたと同時に、彼はたっ、と駆けだして、公園から離脱を決めた。
まぶたに残った残像にひたりながら、ほう、と息をつく。
その俊敏な後ろ足も、おしりからひょろりと伸びた黒いしっぽも、ああ、なんて愛らしい……!
黒いしっぽのクロイシさま。
本日もお会いできて、わたしは至福です……。
すなわち、わたしは恋をしているのだ。
隣駅の公園にて出没する、紳士な猫さまに。
笑われるから秘密だ。
ただひとりの親友を除けば、だけど。
「で、またフラれたから、私のミュイで我慢なさるわけね」
「うー、なんで仲良くできないのお」
失恋の傷を癒せるのは、許斐邸に暮らす木乃美ちゃんの飼い猫、ミュイちゃんオス3才だけなのだ。
どっぷりふとましいボディで、背中に鼻を押しつけて勢いよく息を吸っても大丈夫。
ただ、ひたすら脚をばたつかしてるし、しっぽでべしべしと太ももを叩いてくる。
「あの、時雨さん、この上なくミュイの機嫌が悪いから、それ以上の吸引はよしてくださいません?」
「はえ、木乃美ちゃん、猫の気持ちがわかるの?」
わかる以前の問題ですっ! などとわたしにぴしゃりと言って、木乃美ちゃんはミュイを取り上げた。
ああ、まだ癒しきれてないのに。
「ま、毛だらけになるのも厭わず鼻を押しつけるほど飢えてるのは引きますけども、猫をいとおしいと考えるのは、誠に同感といえます」
木乃美ちゃんは、脚のうえに座るミュイの両手を持って、万歳のポーズをさせている。そのブサイクな顔といい、お腹まわりといい、寝起きのおっさんみたいなのが、またいい。
「人間はなべて猫さまのしもべですもの。かくいう私も、ついつい甘やかしてしまって」
「ほぉほぉ、そのワガママボディーは木乃美ちゃんプロデュースなのかあ」
よーしよしよしよし、とお腹をわしゃわしゃすると、再度脚をばたつかせる。
「ちょ、おやめなさい! 時雨さん、あなた、礼儀がなっておりません!」
「れ、礼儀……?」
「左様です!」
木乃美ちゃんは背中を向けてミュイを庇っている。
「言いましたよね? 人間はなべて猫さまのしもべである、と……! 猫さまにお伺いも立てずに手を伸ばすなど言語道断! 無礼にもほどがあります!」
「は、はあ」
「猫さまのご機嫌を伺い、猫じゃらしとネズミのおもちゃを差し出して警戒を解くのです! ああこいつ、使えるやつだな、と思わせることが肝要なの!」
彼女の檄に、自ずと背筋がのびて、正座をしていた。
「しばらく遊んで疲れの兆しが見えてきたら、そっと鼻元に指を近づける! このとき、上から差し出しては駄目。こちらからの所作は、なべて下からです。畏れ多くもかしこくも。すると指先を嗅いできます。モフりたい気持ちをこらえて。耐えて。いい、耐えますのよ。すると身体をこすりつけてきます。これがいわゆる〈においづけ〉。いわば入国スタンプ。おめでとう、あなたはしもべてあることを認められましてよ! これでようやく、猫さまを撫でる許しが出たということなのです」
木乃美ちゃんはいつの間にか起立し、左足を一歩前へ、それから右の拳を握りしめていた。
「な、長い道のりだね」
「当然でしょう! 猫さまは人間の都合なんて一切考えないのですから!」
すごい。
憧れる。
これが、猫道を究めし者の姿。
三つ指をついて敬意を示す。
なるほど。
猫はその存在自体が自由気ままであり、我々人間の都合など考えようという発想すらないということなのかもしれない。
関心があるのはあくまで猫じゃらしやネズミのおもちゃであって、わたしではない。そのことを肝に命じなければならない。
仮に愛くるしい表情を向けたとしても、それは媚びれば遊んでくれることを知ってるから。
うーん、かしこい。
素敵だ。
フォーリンラブ。
「で、で、ほかには?」
「あなた、訊けばなんでも解決すると思ってません?」
「違うよ。ただ、木乃美せんせーのエモーショナルを胸いっぱい吸いこみたいだけで」
「あなたの吸引癖はなんなのかしら。ミュイにも私にも」
「いやあ、育ち盛りでして」
「よく分からないこと言って誤魔化さないでちょうだいな。それに、育ち盛りというのは――」
「このみおねえちゃん」
ノックもなく、部屋のドアが開いた。
いかにも育ち盛りな男の子、木乃美ちゃんの弟だ。
わたしと視線が合うと、すこし気まずそうに会釈する。
「ハルトがおなかへったって」
ミュイがもそりと動きだし、その子の足の周囲をぐるりとまわる。
「ああ、もうそんな時間。葉瑠斗の大好物のチャーハンにしましょうね」
「ナスは~?」
「そうね、手伝ってくれたら、蓮の好きなナスの味噌汁もつくりましょう」
よっしゃあ、と叫んだレンくんは、どたどたと廊下を駆けてリビングへ行ってしまった。
置いてけぼりのミュイは、しばしその様子を眺めたあとで、とすとすと木乃美ちゃんの隣で伸びをした。
木乃美ちゃんの口調で勘違いしやすいけど、許斐家は、別に由緒正しい豪邸であるわけではなくて、もっと庶民的なのだ。
そんでもって、ちゃんとお姉ちゃんしてる木乃美ちゃんを見るのが、結構好きだったりする。
「というわけで、私は弟たちのごはんをつくるけど――」
ごはん、というワードに反応したのか、だらけオヤジ状態だったミュイが、あっという間に姿勢正しい美猫に生まれ変わり、つぶらな瞳で木乃美を見上げるのであった。
「どうする、時雨さんもご一緒する?」
ミュイを可憐にスルーして、わたしに問いかける。
「いやいや。申し訳ないよ。それに、クロイシさまを振り向かせるためのアイテムを手に入れなくちゃ」
弟たちの面倒もあるだろうし、これ以上甘えるのもよくないと思った。
「そう。付き添えなくて申し訳ございませんわ」
木乃美ちゃんも引き留めることはしなかった。
「アイテムを買うとおっしゃるけど、野良猫相手に餌は与えないように。それから、いとしの野良猫さまへ参上する前には、必ず身を清めること! ミュイとの浮気がばれたら、そっぽを向かれるのがオチですから!」
「あいあい、ありがとう、木乃美お姉ちゃん」
わたしにまで姉ちゃんモードになってて、なんかいいなって思った。
さて。
意気込んでホームセンターに寄ってしまった。ペットコーナーは子連れの客でにぎわっていた。
子犬はぴょんこぴょんこと跳ねながらボールを追いかけて、キャンと愛くるしげにひと吠えする。
子猫は二匹でわちゃわちゃともつれあっていて、動く毛糸玉みたいだった。
そしてそのガラス越しの光景を、背伸びしながら見つめる人間の子。吐く息が白くガラスを曇らせる。
ここへは、なるべく足を運ばずにいたのだ。うちは母と姉がアレルギー持ちなので、飼いたくても飼えない。
それなのにこんな場所に立ち寄ってしまったら、自らの無力さにむなしさだけが膨らむ。
わんちゃんねこちゃんの挙動を見るのは別に構わないんだけど、どうも、子猫たちの姿を眺める子どもを見るのが、つらいのだ。
この子たちがどんな心情なのかはともあれ、さんざん泣き喚いてしまった大昔の自分を思いだしてしまう。
あのときは、悪いことをしたな。
……寄り道はここまでにしよう。
猫グッズの売場へ向かう。
圧巻の品ぞろえだ。
猫じゃらしだけでもかなりの数がある。
羽根と棒のシンプルなものから、釣り竿タイプや、自立型吸盤タイプのものまで。
先端の〈じゃらし〉部分も、ネズミや魚を模したもの、さらにはお風呂で浮かんでそうなアヒルが付いてる変わり種まであった。
いや、アヒルで猫さまは喜ぶのだろうか。
……ただ、クロイシさまがアヒルで喜んでる様子なら、眺めてみたい気がする。
いろいろ迷ったけど、猫じゃらしのなかからひとつと、ラジコンで動くネズミくんを選んだ。
3000円弱の出費は手痛いけれど、紙袋に入った商品の触感に、不思議と胸がどきどき高鳴るのだった。
その夜、待ちきれなくなったわたしは、ベッドから飛び起きて明かりをつけ、ネズミの操作を極めた。
操作に熱中して、とうとう教科書やノートを床に敷いてコースを作り、ひたすら周回した。
そうして、夜更かしが進むのであった。
起きたら親指が痛かった。
まあでも、今のわたしのネズミさばきなら、必ずやクロイシさまを満足させることができることだろう。
例の公園に着き、ベンチに腰かけて周囲を見渡す。
近所のおじいちゃんおばあちゃんが散歩や日向ぼっこをしている。猫も散歩や日向ぼっこをしている。
ここは人にとっても猫にとっても集会所なのだ。
クロイシさまは、公園のど真ん中で後ろ脚を丸めて座っていた。
いや、公園の真ん中にクロイシさまがいるのではなく、クロイシさまが座るところに公園が建ったのではと思うくらい、凛々しい姿だと思えた。
他の猫たちも、視線こそ合わせないものの、クロイシさまのことを意識しているように感じる。
もしかするとここ一帯のボス猫なのかもしれない。
ではさっそくお近づきになろう。
カバンからラジコンを取りだし、ネズミをそっと足元に置いた。
華麗な指さばきで、本物のネズミと見紛うほどのチューチュートレインを発進させてみせる……!
などと興奮で気分が高まり、回路が擦り切れる直前、ある異変に気付いた。
いくらコントローラーを動かしても、ネズミはピクリとも動かないのだ。
充電切れ?
違う。モーターの駆動音は鳴り響いている。
問題は別のところ……そう、チョロQ並みに小さいタイヤと、あまりに低すぎる車高により、このネズミくんはオフロード走行に不向きどころか、縁石に乗り上げる軽ミニバンのように、初手から小石に乗り上げてしまうのだ!
ああ、なんて失態、なんて体たらく!
わたしの計画は、はじめる前から座礁していたというのか!
その様子を知ってか知らずか、クロイシさまは後ろ足で首裏を掻き、それからのんびりグルーミングをはじめるのであった。
初手から調子が外れてしまったが、しかし、まだめげるには時期尚早だ。
なぜなら、クロイシさまはまだそこにおられるのだ。
わたしが折れない限り、まだチャンスはあるということ……!
次なる決戦兵器を取りだす。
猫じゃらしだ。
先端に付いた黄色いアヒルが揺れる。
これを目の前でふりふりすれば、さすがのクロイシさまだって本能には抗えまい。
がしかし、問題はおじゃれあそばすかどうかではなくて、近づけるかどうか、なのだ。
今まで何度も距離を詰めることにチャレンジしてきたけど、そのどれもが失敗に終わっている。
ネズミのおもちゃを使ったのだって、遠隔操作をしながら少しずつ近づこうという魂胆からだ。
果たしてこの身と、それからアヒル隊長のひとりと1匹という布陣で、クロイシさま攻略は可能なのだろうか……?
「いやいや不安がってちゃダメ。木乃美ちゃんの言ってたことを思い出すんだ……」
呪文でも唱えるように、教えてもらったことを繰り返す。
「人間は猫さまのしもべ……。所作は下から。怯えさせない。なんか使える奴だと思ってくれるように……」
深呼吸して、ねこじゃらしを握る手に力を籠める。手首をスナップさせて素振りして、膝をついた。
ずりり、ずりりとにじり寄る。
クロイシさまは、はじめグルーミングに夢中だったが、妙な気配を察したのか、そのうるわしい視線をこちらに向けた。
それとほとんど同時に3歩後退をする。
が、そこで立ち止まる。
今度はアヒル隊長に視線が移る。
「そう、クロイシさまにとって、興味はわたしじゃなくて猫じゃらし……! 頼みます、隊長!」
黄色いボディに赤色の被り物。その体を存分に目立たせて、注目の的になれ……! 自ずと振り幅が大きくなる。クロイシさまの顔も、右に左にせわしない。
この反応、思った以上に食いつきがいい。
距離を一層詰める。
射程内に入ったからか、クロイシさまの猫パンチが隊長の腹部を直撃する。さらに追撃、追撃!
すごい、わたし、クロイシさまと遊べてる。
じんわりと胸の内があたたかくなる。宙を舞う隊長も、どこか満足げだ。
興奮冷めやまぬなか、クロイシさまはふと我に返ったように一歩引き、横向きに寝転んだ。
それから、背中を地面にこすりつけて、くねくね身をよじらす。
ああ、お腹が丸見えですよクロイシさま、なんてはしたない! ……思わず息が荒くなる。
モフりたくなる衝動を必死に抑えようとするも、その情動が滲んでしまったのか、クロイシさまはくねくねをはたとやめ、横座りのままじっと見つめてくる。その美貌たるや。
おそらく、知っているのだ。こういう挙動をすれば人間は簡単にときめいて、モフモフしてくれるのだと。
ああ、あざとい!
人間に好かれることが、野良猫の世界でどれほど大切なことなのか、この子は知ってるんだ……!
なすがままだった。震える右手を差し出す。
クロイシさまはその先っぽをじっと見つめ、すんすんと鼻を鳴らした。
す、と立ち上がる。
それから耳の付け根、首元、胴体の順番に、わたしの手の甲にその身をこすりつける。
入国のスタンプだ。
ごくんと息をのんだ。
許されたのだ。
ずっと高鳴ってる心臓が、さらに加速する。
どうした、撫でないのか、人間。
腕と膝のあいだをすり抜けるようにして懐に入ったクロイシさま。
その瞳が刺さる。
恋が実る瞬間は、こうもあっという間で、呆気ないのか。
両の手をぐっぱぐっぱとほぐして、艶のある黒いしっぽに、触れる。
たぶん、触れようとしたのだ。
思考回路が、焼ききれた。
次の瞬間には、クロイシさまのやわらかい横腹に鼻を押し当てて、無我夢中で幽香をほしいままにしていた。
当然、引っかかれた。
無論、逃げられた。
それで、公園のど真ん中でうずくまるわたしだけが取り残された。
恋は実り、その一瞬のきらめきを残して、華々しく散る。
そんなお話でめでたしめでたしなら、ある意味、わたしは救われたのかもしれない。
でも、こんな場所でうずくまってるのは、哀しみのためではなかった。
鼻と唇に、生きものの残り香とぬくもりがあった。
それは単なる動物のにおいだけに留まらない。野生の、〈生存〉と背中合わせの、香り。
初めてで、強烈な衝撃だった。その電撃が、脳を今なお震盪させてる。
言葉にすることのできない木霊に打ちひしがれて、手にも足にも力が入らずにいる。
わたしは、知ってしまったのだ。
今の今まで、恋だと思っていたものは、ただの愛玩欲求だったのだと。
この、感触というべき感覚は、誰にも吐露できない。
できるわけ、ない。
テーマ:秘密の恋
「お題.com」(https://xn--t8jz542a.com/)より
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