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対話のための国語塾(仮称)始動します

対話のための国語塾という取り組みを始めています。
日本リベラルアーツ協会の設立のきっかけとなった、学生団体ラジリアは、毎週「対話カフェ」という取り組みを、2年近く継続しておりました。
対話を、謙虚かつ、勇敢に、沈黙や意見の変容を楽しみながら話す姿勢であると定義し、毎週1回様々なテーマで、「対話をする気がある人は誰でも」をモットーに活動してまいりました。

世代、住まいを超えた気軽だけれど深い対話の場所を作ることに成功していましたが、どうしても人によって対話感が異なったり、対話に居場所を求める人と深まることを目的とする人もいて、1つの場でその2つを両立するのはなかなか難しい課題に直面しました。
また、回を重ねるごとに、同じく対話の姿勢を持っている人でも、対話に慣れている人と慣れていない人の差が浮き彫りになってしまいました。運営としては「どんな方とでも対話したい」という想いを持っていたものの、参加者の方からすると決してそうではありませんでした。アンケートにも様々なご意見を書いていただきました。それに対する運営各々のスタンスもかなり異なりました。結果として学生団体として継続していた対話カフェは一旦幕をおろしました。

一方学生団体ではなく、日本リベラルアーツ協会としては、深めることを目的とした対話を行なってまいりました。

ただ、対話がより円滑にできるようにという方向性の活動はなかなかできておらず、長らく検討をしておりました。

そして、この5月、長らく対話カフェにご参加頂いていた井上和哉さんがFacebookの投稿で、リベラルアーツ協会の名前をあげてくださったことをきっかけにこの「対話のための国語塾」を始めようと思いました。
井上さんは、奈良県在住で千葉県市原市にあるNPOコンボのメンタルヘルスマガジンこころの元気プラスの雑誌をライターとして書いていらっしゃいます。
実は以前から井上さんから精神障害を持っている方向けのピアサポートができるような場を作ってほしいというご依頼はいただいておりました。井上さんは、障害と言う壁を打ち破って、多様な考え方を認める捉え方が必要だと考え、対話というコミュニケーションの形態にご興味を持たれています。
ただ、リベラルアーツ協会の本流の活動からはどうしても外れてしまうこと(決して福祉的な活動が第一の目的ではないという意味です)と、人手不足でなかなか大きな責任あるイベントはしにくいという状況でお断りをせざるを得ませんでした。
そんな中ふと思い出したのが「AIvs教科書を読めない子供たち」の本です。

乱暴なまとめ方をすれば、Pisaテストなどの情報処理能力、論理的思考能力が欠けているという話です。で、これらの能力って必ずしも独力では伸びにくいという仮説を持っていること、対話にも共通する能力だと考えられること、高校などの学校の教科では「国語」に近いことから、対話のための国語塾という形であれば、リベラルアーツ協会の目指す、多様な視座・視点の自由な学びにも合致する基本的なスキルであろうと判断しました。

具体的にどのように開催していくかは、かなりの分量になると思うので、また別の記事にまとめたいと思います。

はじめは、代表船岡と井上さんでメッセンジャーのやりとりを中心にどのように国語を学んでいくかのやりとりをしていましたが、先日、これまでお世話になっていた対話法研究所の浅野様の確認型応答のワークを開催していただきました。

そのイベントで開催した内容の報告と、考察について井上さんよりメッセージをいただきましたので、ご覧ください。

「対話をしらなかった僕は」

僕は対話に対する「イロハ」も知らないで、日本リベラルアーツ協会に入りました。聴くことについて同感したり共感したりする手法を学んでいます。また僕にとって苦手な方もいらっしゃいます。でもそれを含めた対話です。初め僕は対話が怖かったんです。そんなに具体的に話せるのか?語ることができるのか?謎でした。確認型応答をした時に、一対一で対話をすることを学びました。トコトンまで話すことや話しきることや聴ききることを学びました。対話をすること、つまり対話の仲間を作りに来ることが目的です。精神障害を患い、困難な状況の中で対話が生まれました。そして学びました。辛かった過去も、僕は日本リベラルアーツ協会に入って、僕と似たような経験をした人たちと一緒に学びの場を作りたいと思いました。日本リベラルアーツ協会と出会うまでできなかったのは、僕が多様性を認めることができなかったことです。同じ赤いリンゴを見て僕は、淡い赤と濃い赤の全てが赤いと思うぐらいでした。ですが赤色のようにも見えるとは思えませんでした。人は、こういう人だ!なんて決めつけることができても、こんな部分も見える。実は知らなかった、こんな素敵な部分もある。対話法自体は対話をする上で、まず自分は相手に確認できているのか?きちんと相手が話していることに聞き手、話し手になっているのかをよく理解ができるツールだと思いました。確認型応答は相手に自分の理解が合っているかどうか確認する為の手法です。

生徒:社会の勉強ってどうすればいいんですか?(例)
先生1:社会の勉強の仕方が分からなくて困っているんだね。←確認型応答(自分が相手に確かめている)
先生2:教科書の中の大切なところをノートに写して憶えるといいよ。←反応型応答(自分が相手に提案している)
先生3:今ごろ、まだ、そんなこと言っているのか?←反応型応答(自分が相手を非難している)

相手に自分の理解を確認して伝えている確認型応答、もしくは自分から相手への質問や回答などが含まれる、反応型応答が学べます。そして様々な角度から様々な情景を思い描くことができます。そして確認型応答を通じて共感し共感を受けながら同感ができたら、気持ちの良い対話ができ、また様々な対話における極意を身につけることができます。まだまだ僕は未熟者ではありますが、このようなファシリテーションをされておられる方と僕は出会いを求めます。同じ境遇にある対話の仲間と一緒に語ったり学んだり考えたりすることが僕には必要です。どなたにとっても、そういう確認する作業が必要だと思います。共感力を身に付けることで人が人を探求できるチャンスになるのではないでしょうか?僕はそう思いました。対話仲間ができると新たな多様性も、人を知りたいという探求性も増えてきて、凄く楽しくなると思うんです。人と出会い人をよく知ることが僕にはとても必要だと思いました。

井上和哉「対話を知らなかった僕は」

まだまだはじめたばかりの取り組みですし、決して拡大することを目指したプロジェクトではありません。むしろ、じっくり丁寧に対話において、国語の能力を学ぶことを考えていきたいと思います。

とはいえ、代表自身は国語教育の専門家であったり、心理学への造詣が深いわけではありませんので多くの方の共感や理解を頂きながら、進めて参りたいと思います。これまでも、長らく国語の塾でご指導されてきた経験をお持ちの方に、作問についてアドバイスをいただきました。

こういうことを丁寧にやっているとなかなか目に見える成果を作るのは難しいのですが、それでも焦らず進みたいですね。
また報告します!


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