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【昭和怪ブームの真相】不幸の手紙〜ニッポンを震撼させた呪いの書〜その2

70年代、一大ブームを巻き起こした不幸の手紙。いつ自分のところに送られてくるか──。恐怖で眠れぬ夜を過ごした方もいたことだろう。そんな不幸の手紙は時代の変遷と共に姿を変え、いまも人々に恐怖を与え続けていた
(その1からの続き)

60年代から瞬く間に大ブーム

 この「幸福の手紙」から「幸福」の要素が抜け、「不幸の手紙」と呼ばれるようになったのは、1960(昭和35)年前後のこと。高度経済成長時代のはじめに、「幸福」の要素が抜け落ち、「不幸」だけが強調されていったことは、何やらその後の日本の歴史を暗示しているようでもある。
 当時大学生だったYさん(77歳・岐阜県在住)は、次のように話す。「私の場合は『不幸の手紙』でした。差出名は無かったのですが、見当を付けて確かめたら友人でした。馬鹿なことを信じるなとたしなめました。勿論誰にもハガキは出しませんでした」
 この現象が、あらゆるメディアを巻き込んで一大社会現象となったのが、1970(昭和45)年である。女性週刊誌「ヤングレディ」(同年11月16、23日合併号)が「京都の主婦に届いたハガキ」としてその文面を生々しく伝えた。
「これは不幸の手紙といって沖縄から順に私のところに来た死に神です。カナダの人が考えたそうです。貴方のところで止めると必ず不幸が訪れます。テキサスの人はこれを止めたので五年後に死にました。貴方も三十時間以内に、文章を変えないで、二九人にこの手紙を出してください。私で〇〇〇〇〇番です」
 同誌が京都でさらに取材を進めたところ、最後に記された番号は一〇一〇四七が最も多かったというから、この時点で京都だけでも実に10万通を超える出所不明の「不幸の手紙」が出回っていたことになる。
 これが最も普及した「不幸の手紙」のテンプレだが、欧米への旅行がまだ庶民の憧れの対象だった当時にあって、「カナダ」や「テキサス」という地名は、有無を言わせぬ説得力があった。しかも、地理的な障壁により真偽の確認のしようのないことが、読む者を深い霧に包み不安を呼び起こす。
(その3に続く)

取材・文=ロザムンド黒酢