愚かな光、旋回

夏休み最後の日の朝、――最後の日だから――うつむいてそう微笑む母を、彼はふと思い出す。ふわふわと上下しながら旋回する小さな飛行機に乗り、園内のにぎやかしい景色がでたらめに混ざる中、手を額にかざしまぶしそうに見あげる母を探し、見つけては手を振る。ビーチボールから空気が抜けていくような音を皮切りに、握ったハンドルが急に堅くなり、中央の動力軸は旋回の速度を緩めながら、思い思いに上下していた色とりどりな飛行機たちを同じ高さに集めながら下降していった。


 午前五時に起床し、日課としていた散歩中、緩い坂道を下っていく彼の足運びは、思い出の飛行機の減速とともに緩くなり、右目の端にリズムよく流れていた黒ずんだ石垣は、ついにはひたと静止し、まばらに苔むしたそれを背に、ただなんとなく空を見上げた。二人きりの朝食、先に食べ終わり、いつものように筋張った右肘をつき、窓の外をぼんやりと眺めていた母の、その日限りの思いつきのすばらしさを反芻し、いてもたってもいられず、少年は後片付けをしている母の腿の裏を抱きしめに行く。あのときの素直な気持ちを余すことなく汲みとろうし、自然、空に視界をあずけたのは、彼に残された最後の素直さだった。


 右目を閉じると、やや湿り気を帯びた早朝の色調の淡い夏空に、先ほどの二人乗りの小さな飛行機、コーヒーカップ、メリーゴーランド、吊りブランコ――ひとりで遊具に乗り、見守る母があらわれるたびにはしゃぎ、手を振っている――不思議と回転遊具ばかりが思い浮かび、それらの個々の心象がゆっくり呼吸するように、大気の中で薄くなったり濃くなったりしながら同一面で混ざり合わさり、甘美な目眩は無数の万華鏡を一重に貪る様相を呈す。やがてそれぞれの心象の旋回が、重ねた七色のセロファンを床の上で広げるようにはなれはじめ、赤みがかった明朝の蒼穹に広がっていく。乗り物から見えていた少年のせわしない視座は褪せてゆき、次第に母が見ていた乗り物全体の運動へとなめらかに移り変わっていく。それぞれの乗り物は、それぞれがもたらす胸と後頭部の浮遊感に身を任せた少年を乗せたまま、やや立体感を失いながらなおも回りつづけている。

   それらあの日の遊園地の心象群に、彼の記憶の中に個別にうずもれていた懐かしい品々が、回転遊具の間に生じた空の隙間に、和紙に落とされた色水のようにその姿をじんわりとあらわしはじめる。地球儀、星座表、ビー玉、花火、水風船、向日葵――それらもやはり、内包された心象を膨らませながらゆっくりと回転する。


 遠くゆるやかな山の端から柔らかく射しはじめた朝の日を、恍惚とした彼の瞳にもっとも輝かしく映えさせ、より強い陶酔をもたらそうとでもするかのように、空に浮かんだすべては、それぞれが美しく傾ぎ、優雅にまわっては仰ぎ見る彼に微笑みかけるよう燦然と輝きながら溶けていた。


 夢にもあらわれないような豊饒な情景に酔いしれていると、どこからか、生来の哀愁を震える喉の奥に押し殺したようなか細いニイニイゼミの鳴き声が、彼の後頭部に染み入ってくる。背後に聳える石垣の上、葉叢の濃く匂う鬱蒼とした雑木林の中、一匹、また一匹とセミたちは目覚めはじめ、我も我もと次第に一族の繁栄を祈願する哀歌に連なり太らせていくと、それの音の高鳴りに応じ、空に浮かべていた彼のそれぞれの心象は膨張しながら透明度を失いはじめ、空の明るさが失われてゆき、やがて硬化してしまったおのおのの輪郭同士が同一平面上で、刺々しく回転しながらしのぎを削り合い、油の切れて錆びついた古い重機のような不快な摩擦音をたて、そこにあらわれていた物という物は、それぞれの材質が秘めている最も醜怪な音を大げさに響かせながら、誰彼の悲鳴や怒号に鋭く刺し貫かれては、脆く壊れていった。周囲は時計を逆戻しにしたように暗くなりはじめ、眼前に広がる未曾有の物体どうしが織りなす地獄絵図に押し潰されんばかりになっていた彼の冷たい汗に色を失った額に、ふいに煮詰めた重油のような黒く粘ついた液体が鈍い筋を垂らしながら落ちてきて、瞬時に彼は目をつぶった。両の耳穴に液体が鱗のないヘビのようににゅっと這い込み、小さな耳鳴りだけが彼と世界の接点となったが、すぐにそれも事切れた。


 どれほどの時間を経たのだろうか、一切の無の中、あの耳鳴りが、彼の存在を再び引き摺りだした。海面のようにずっしりと重たくなった彼の体は、その背中に地の硬さを感じとった。それ以外、彼の五感で感じられるものは一切なかった。


 しばらくして、彼は自分の額から右の眼球にかけて、徐々に押しつぶされていくような重たさを感じはじめた。べったりとした、黒く重苦しい布を、一枚、一枚と横になった彼の頭の上に音もなく幾重にも重ねていく黒い女が、傍らにいる――臆病な彼の感覚にそんな情景が勝手に番い、恐怖のあまり声を上げようとした瞬間、どろっとした黒い手がひくひくと震える開いた彼の唇を、素早く塞いだ。あのとき額に落ちてきた黒い液体のように、彼の喉はぬるく浸されていった。


 ――最後の一枚だから――


 彼の顔の皮膚に暗澹とぬめり襲いかかる黒い液体に、中空に預けていた鼻腔までも埋められてしまい、もはや呼吸ができない。苦しさのあまり、上体を右にひねりながら、ねっとりと重たい左手で思い切ってその手を払いのけた――周囲の空気を掻き集めるように荒々しく呼吸しながら、左手で目元を拭った。右目に光が戻ったものの、至近に転がる黒い物体が彼の視界を遮っていた。左手に取ると、いつも枕元に置いているデジタルの目覚まし時計だった。液晶の画面には4:78と表示されているように見えた。
 ――とうとう、時計も――


 ――待てなかった罰よ――


仰向けに返りながら左目を拭い、左手を胸元にかざすと、その手から手首へと、赤がどろりと滴った。ため息が、薄暗い天井を低くする。

 ――最後の――
 ――最後の――
母の口癖に祈りを捧げるように、彼は瞼をゆっくりと閉じた。



 薄い瞼から染みこんでくる赤い光が、ニイニイゼミの弱々しい鳴き声に共鳴し、かすかに震えだした。左目はあの日以来、相変わらず光を失ったままだ。



 あの日、彼の母は自分自身を殺した。しかし、彼女は自分の息子の左目しか殺せなかった。
 期待に胸を膨らませ出掛けたあの日――あの日を生きなおそうとする左目の本能に、彼は逆らうことができない。彼の母が最後に見せた偽りの優しさは、彼を苦しめる。しかし、愚かな光は、あの頃の彼が純粋であった証として、左目にとどまろうとする。旋回する愚かな光は。

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