オシドリさんの愛が実った日

高瀬 甚太

 夫婦で仲良く「えびす亭」にやって来る客がいる。年齢は四十代半ばだろうか。女性の方が旦那より少し若くて、羨ましいほど仲がいい。
 独り者や、離婚経験者、夫婦仲の悪い所帯持ちが多いえびす亭にあって、その二人は稀有な存在のように思えた。
 夫婦の名前は、夫が安藤清二、妻の方が安藤豊美。別々に呼ぶ時は、「清さん、豊さん」だったが、二人を総称して呼ぶ時、客たちはみな「オシドリさん」と呼んだ。
 一週間に二度ほど、決まって午後八時にオシドリさんは顔を見せた。店にやって来ると、清さんは熱燗を頼み、豊さんはビールを注文する。憎らしいのはその後だ。しばらくして、清さんが豊さんのビールを口にして、豊さんが清さんの熱燗を口にする。そうやって交互に酒を楽しむのだ。酒の肴も同様に、一品を二人で仲よく分け合う。そんな二人をえびす亭の客たちはいつもうらやましく見守り、ため息をつくのが常だった。
 しかし、えびす亭の仲間との付き合いはほとんどなかった。常に二人だけの世界でいたから他人が割って入る余地がない。二人で仲よく呑み、食べて、一時間ほどでえびす亭から去って行く。その後のことは誰も知らない。二人がどこに住んでいるのか、何をしているのか、大阪の人間なのか、そうでないのか、誰も何も知ってはいなかった。

 夏の真っ盛りの日のことだ。えびす亭にやって来た客の誰もが涼を求めて、キンキンに冷えた冷たいビールを注文する。
 「暑いなあ……」
 えびす亭に入って来た客の第一声がほとんどそれだ。えびす亭は厨房がカウンターの中にあるせいか、クーラーの効き目が悪い。それでも風量を最大にして、精一杯、冷たい風を送っていた。
 「マスター、キンキンに冷えた、脳天がしびれるようなビールを頂戴」
 えびす亭ではこの時期、大量の水の中に大量の氷を入れ、そこへビール瓶を入れてキンキンに冷やしたビールを客に出す。
 「うっ……、脳天痛い!」
 冷たいビールを一気に呑むと、一瞬のうちに体が冷えるだけでなく、脳天まで冷たさが伝わる。この時期の酒の肴の一番人気は冷奴と熱々おでん。通常、夏場はおでんを置いていない店が多いが、変り者の多いえびす亭の客は、暑い時期に熱々おでんを頼む者が多い。暑い、熱いを繰り返しながらキンキンに冷えたビールと熱々おでんを楽しむ。ほとんど狂気の沙汰だ。
 清さんと豊さんのオシドリさんは、相変わらず週に二回、午後八時になるとえびす亭にやって来る。この時期になると、さすがに清さんは熱燗は頼まず冷や酒を注文する。豊さんはキンキンに冷えたビールを注文、いつものように、二人でとっかえひっかえして仲よく酒を呑む。
 ぶしつけで遠慮知らずのえびす亭の人間も、さすがに二人の世界を邪魔するような者はいない。そうやっていつものように二人が酒を楽しんでいる時、ガラス戸を開けて入って来た客がいた。その客は、入ってくるなり、目ざとく清さんを見つけて、
 「安藤さん、安藤さんじゃありませんか!」
 と叫んだ。その声を聞いて、清さんが思わず顔を伏せた。
 客の男は清さんに近づくと、清さんの顔をじっと見て、
 「やっぱり、安藤さんだ。どうしていたんですか? 探したんですよ」
 と言った。
 清さんは何も答えず俯いている。豊さんもそれは同様だった。
 安藤さんと呼んだ男は、清さんと同年代か少し上のように見えた。
 「やっと会えた……。でも、まさかこんなところで安藤さんに会えるとは夢にも思ってもみませんでしたよ」
 客の男はオシドリさんのそばに立つと、マスターにビールを注文した。どうやらこの客は初見の客らしい。ビールを注文する時、キンキンに冷えた、という言葉を使わなかった。
 「安藤さん、奥さんが心配して探していますよ。一度、連絡してやってもらえませんか。会社の方も、奥さんと息子さんが頑張ってらっしゃいますけど、やっぱり安藤さんがいないと苦しいみたいで――」
 客の男はぬるめのビールを口にして、一瞬顔を歪めた。
 「それにしてもお会いできてよかった。私、久しぶりに大阪へ来て、この近くまで来たものですからちょっと一杯ひっかけて帰ろうと思って寄ったんです。奥さんにいい手土産ができました」
 そう言って男は懐から携帯電話を取り出して、電話をしようとした。
 「店の中で電話するのやめてもらえますか。電話するのやったら外に出てしてください」
 マスターが男を咎めるようにして言った。その言葉に従って男は、渋々といった感じで外に出た。
 「清さん、どんな事情があるか知りませんが、逃げるんやったら今のうちでっせ」
 男が外に出たのを確かめて、マスターが裏口を指さした。
 清さんは急いで勘定を払うと、普段は出入り禁止の裏口から豊さんと共に消えた。
 電話を終えた男は店の中に戻って、清さんがいないことに驚いて、マスターに聞いた。
 「ここにいたお客さん、どこへ行きました!?」
 「お宅が電話している時、出て行きはりましたけど」
 マスターがとぼけた感じで答えると、男はマスターに金を払って急いで外に出た。
 翌日、午後八時、もう来ないだろうと思っていた清さんと豊さんのオシドリさんがえびす亭に現れた。
 「清さん、大丈夫でっか? 昨日の今日やのに」
 マスターが聞くと、いつものように、清さんは冷や酒を、豊さんはキンキンに冷えたビールを頼んだ後、二人して「昨日はありがとうございました」と言った。
 「私ら、本当の夫婦じゃないんです。駆け落ちをして、三年前に二人で大阪へやってきました。家は、鳥取で三代続く日本酒の会社をやっていまして、私はその会社の三代目社長でした。女房の父親と私の父親が盟友だったことで、幼い頃から女房と結婚するよう義務付けられていました。しかし、学生時代から私にはこの豊美がいて、私は豊美と一緒になりたいとずっと思ってきました。両親に何度もそのことを話したのですが、両親はそれを許してくれませんでした。渋々結婚した後も、私は妻に隠れて豊美と付き合ってきました。豊美にも結婚話が何度か持ちあがりましたが、豊美の方は、それをずっと断り続けてきましたが、それにも限界があります。いよいよ結婚しないといけなくなったところで、私は駆け落ちを決心し、何もかも捨てて豊美と一緒に家を出たんです。
 家の方は、女房がしっかりしているし、息子も二十歳ですから店の経営を任しても大丈夫な年です。しかし、駆け落ちして三年、そろそろはっきりと片を付けて、正式に豊美と一緒にならなければ、そう思っていたところに昨日の男です。
 昨日の男は、鳥取の酒の販売店の店主で、きっと今頃は、私のことを妻や親に報告していることでしょう。昨夜、帰って豊美と話しました。そろそろ決着をつけて、正式に籍を入れようって。明日、二人で鳥取へ帰る予定にしています。帰って、迷惑をかけたことを詫びて、その上で、女房に離縁を申し出るつもりです」
 清さんの話を聞いたマスターは、豊さんの空のグラスにビールを注ぎながら、
 「そうでっか……。それは大変ですなあ。うまく行くとよろしいんやけど――」
 といたわるように声をかけた。
 「いろいろ難しいことはあると思います。でも、このまま逃げ回っているわけにもいかないので――、決着をつけて豊美と本当の夫婦になりたい。今はそう思っています」
 清さんと豊さんは、それだけを告げて、早々とえびす亭を去った。
 鳥取の夏もやはり大阪の夏と同じように暑いのだろうか。二人を見送りながらマスターは、そんなことを思っていた。

 美味しい酒を造るには、良い成分の水が大量に必要といわれている。さらにたいせつなのが自然環境だ。海の色や川の色を見れば、そこがいい酒を造るに適した場所であるかどうかすぐに見分けがつく。その点、鳥取は自然環境に恵まれ、良い成分の水に恵まれた土地だった。気象条件も酒を造るのに適していた。
 そんな土地で清さんは子供の頃から酒造りに勤しんできた。子供の頃の清さんの夢は日本一の酒を造ることだった。酒造り以外、考えたことのなかった清さんが、大好きな酒造りを放ったらかして駆け落ちをした。よほどのことと言わなければならない。
 家を出て、大阪へやって来た清さんは、生活費を稼ぐのに四苦八苦した。酒しか造ったことのない酒造りバカだった清さんは、働く場所がを見つけられずにたちまち生活に困窮した。
大阪へ来てしばらくの間、清さんは家のことを思うより醸造中の酒のことが気になって仕方がなかった。それが気になって他の仕事を探すにも探すことができなかった。だから、駆け落ち当初は、もっぱら豊さんの稼ぎに頼った。
 しかし、半年もすると、清さんの中で踏ん切りがついた。酒も大事だったが、清さんは豊さんを愛していた。その豊さんを幸せにすることが、清さんの新しい目標となり、夢になった。それは豊さんにしても同じことだった。
清さんが結婚した時、豊さんは自殺未遂をしている。幸い命を取り留めたが、それほど清さんに人生のすべてをかけていた。結婚しても、自分の気持ちは変わらないと、清さんが豊さんに告げた時、豊さんは疑うことなく、その言葉を信じた。
 駆け落ちをしたのは、三年前の夏だった。会社の仕事に一区切りつけた清さんが、豊さんに言った。
「 おまえを誰にもやらない。おれは何もかも捨てて、おまえと二人で過ごす人生を選ぶ」
 豊さんは何も言わずただ頷いた。

 帰郷は勇気がいった。しかし、このままではいけない。その思いが二人の中にずっとあった。前日に、妻の元へ電話をして、明日帰ることを告げていた。妻は、えびす亭で出会った販売店の店主に様子を聞いていたのだろう、「はい」と答えたきり、何も言わず電話を切った。
 JR鳥取駅に着いた二人は、バスに乗って実家を目指した。
清さんは豊さんと共に実家の酒造会社の前に立った。懐かしい匂いがした。今にも体が酒造りに向かって動きだしそうになったほどだ。辛くもそれを抑えられたのは、固くつないだ豊さんの手だった。
 家の門をくぐると、待ち構えていた父親に清さんは思い切り頬を打たれた。母親は清さんの足元で泣いた。妻は憎悪の目で清さんを睨んだまま微動だにしなかった。唯一、息子だけが、清さんに「お帰り」と言った。
 その日、清さんは事務的に離婚の証書にサインをし、相続破棄のサインをした。父親には、「おまえとの親子の縁はこれまでじゃ」と言われ、母親にはその時もまた泣かれた。
 「父さん、おれと父さんの親子関係は変わらんから」
 去り際に言った息子の言葉だけが救いで、その言葉を聞いて、清さんはその時、初めて大粒の涙をこぼした。
 豊さんは、両親の冷たい視線、妻の憎悪の視線を浴びながらもずっとそれに耐え続け、つないだ清さんの手を離さなかった。
 
 バカな男だと清さんを揶揄する者もいたが、清さんは晴れ晴れとした表情で、その夜のうちに豊さんと共に鳥取を発った。
 えびす亭に二人が現れた時、マスターは、
 「おめでとう」
 と言って、キンキンに冷えたビールと冷や酒をカウンターの前に置いた。
 清さんはマスターに正式に夫婦になったことを報告した。
 「二人の顔を見たらわかりまんがな」
 マスターはそう言って、「あては何にしますか」と聞いた。
 清さんと豊さんは声を揃えて「熱々おでん」と言い、顔を見合わせて笑った。
<了>


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