不運は幸運のはじまり

高瀬 甚太

 昔、相撲取りだったという堤純一は、今はその面影をまるで感じさせないほど痩せている。身長こそ一メートル八〇センチと高いが、体重は六三キロしかなかった。顔色が悪く、覇気のないことおびただしい。ただ、酒量は人智を超えたものがあった。底なしといっても言い過ぎではないほどの酒を呑む。堤が酔っぱらった姿を見た者など誰もいなかったのではないか。
 堤の愛飲する酒は芋焼酎で、たいていお湯割りにして呑むのだが、その呑みっぷりがいい。感心するほどの豪快な呑みっぷりで、思わず見とれてしまう人がいるほどだ。
 「わしには酒しかないから」
 呑みっぷりを褒められると、堤はそう言って寂しく笑う。今年で四〇歳を超える堤は、若い頃に一度結婚しているが、一年足らずで離婚し、以後、ずっと一人身だ。若くして両親が亡くなり、二つ上の兄を病気で亡くし、三つ下の弟を交通事故で失った堤の孤独は、他人には計り知れないものがあった。
 痩せて貧相な顔をしているが、男っぷりは決して悪くない。女性にもてても不思議ではないほどだが、暗い性格が災いして、恋愛とは縁遠い生活をしていた。
 運送会社で働く堤は、毎日、トラックに乗って得意先へ荷物を運ぶ。何軒かある得意先へ毎日のように顔を出すわけだから、当然、親しくなる人もできるはずだ。だが、無口で愛想の一つも言えない堤は、気に入った女性がいても声をかけることができない。貝原橋商店という雑貨を扱う会社にほとんど毎日のように荷物を運んでいるが、そこで働く深山美子というパートの事務員のことを、堤は気になっているのだが、しっかり目を遭わせ、話すことすらできないでいた。
 何とか自分を変えたい。常々そう思っていた堤だが、これまでの不運が脳裏をかすめて、積極的に人生を生きることができないでいた。モヤモヤとした、その憂さをえびす亭で酒を呑んで晴らす。それが堤の日常だった。

 えびす亭にやって来る常連の一人に、山形洋一という人がいた。声が大きくて、店の外まで響き渡るるほど馬鹿でかい声を出し、笑い、喋る。悩みなど縁がないのでは、と思わせるほど天真爛漫な人物で、えびす亭の人気者の一人だった。
 堤は、そんな山形が苦手で、山形が近くに立つと、できるだけ目を合わさないようにして酒を呑んだ。だが、山形は堤に興味を持っていて、頻りに話しかけようとする。丸々と太っていて、身長が一メートル六〇センチと背があまり高くない山形と、背が高くて痩せている堤は対照的で、見るからに凸凹コンビの印象を受けるが、見かけだけでなく、性格も大違いだったから、二人の関係に興味を持つ客が多かった。
 「堤さんは昔、相撲取りやったんですってねえ」
 ある時、堤の隣に立った山形が、堤に聞いた。だが、堤はそれを無視して黙って酒を呑み、答えようとしない。
 「わいも子供の頃、相撲取りになりとうて、中学校を出てすぐに相撲部屋へ押しかけたことがありまんね。背が足らん、そない言われて追い出されましたわ。背さえあったら、わい、横綱にでもなれる自信がおました。田舎の子供相撲では、負けたことがなかったし、担任の先生でさえ、放り投げたことがおます。堤さんはどこまで行きはったんでっか? 三段目? 序の口、それとも――」
 怒ったような口調で堤が答えた。
 「十両手前です!」
 相撲取り時代のことを話したことがなかった堤が十両手前まで行ったと話すのを聞いて、えびす亭の客たちが声を上げた。
 山形がまた、聞いた。
 「すごいやないですか? それでまた何でやめはったんでっか?」
 「……」
 「わかった。女遊びが過ぎて……、いや、ギャンブルかな、ギャンブルで借金が重なって……、いや、部屋の女将さんに手を出して――」
 山形があれこれいい加減なことを言うものだから堤はいよいよ怒りだした。
 「違う! 階段から滑って落ちて骨を折ったんです。それでやめなあかんようになったんや」
 「階段から落ちたんでっか。なんでまた?」
 「十両昇進が決まって、部屋でお祝いをしてくれたんや。その時、酒を呑みすぎて、足を滑らせて二階から下へ落ちて、右足、左足、両方とも骨折して……。相撲ができんようになってしもうた」
 「それはまあ、なんと不運な……」
 「その時から、わしはずっと不運が続いているんや。後援者の娘と婚約していたのにそれもパーになって、相撲から足を洗って一緒になった女も、浮気性の女で、貯めていた金を全部持って男と一緒に逃げよった」
 「……アンラッキーを絵に描いたような人生ですな」
 山形が感心すると、
 「それだけやない」
 と、堤はまた、ムキになった。
 「まだ、あるんでっか?」
 「料理人になろうと思うて、相撲取り時代のつてを頼って入った店が、これがまたひどかったんや。朝は午前三時に起床、店の掃除から仕込みに入って、朝食を食べるのが午前十時。その朝食も立って食べなあかんほど忙しくて、昼食は午後三時、夕食は午後七時、ようやく寝れるのが午前一時。二時間ほどウトウトしたらすぐに起床……」
 「料理の世界でしたらよくあることでんな。それは不運とは言いません」
 山形がたしなめるとうに言うと、堤は大きく首を振った。
 「それだけやったらまだ我慢できる。一カ月働いたところで、その店の社長、夜逃げしよったんや。借金取りが大挙して押しかけてきて大変やった。店は繁盛しとったんやけど、その社長、賭博にはまって億のつく借金をしとったらしい」
 山形は思わず絶句した。
 「ふ、不運でんなあ……」
 「そんなんはまだ序の口や。わしの不運はそれで終わらへんかった」
 「えっ、不運がまだ続くんでっか」
 さすがの山形さんもあきれた。えびす亭の客も同様に顔をしかめて聞いている。
 「料理人になるのをあきらめて、商売しようと思ったんや。焼き鳥屋が手っ取り早くていいと思ったんで、借金して始めた……」
 「……アンラッキーな匂いが、漂ってきましたな」
 「場所がいいと不動産屋に聞いていたので即決して、店を開く準備を始めた。確かに場所はよかった。すぐ近くに大手の印刷工場があり、自動車工場があり、働いている人が多い場所やった。これならいける、そう思ったのが間違いやった」
 「そんな場所やったら普通は流行るでしょ」
 「開店して、すぐに、市の区画整理とかで、工場がすべて移転することになったんや。全部壊して、その後を整地してマンションを建てるという話やったけど、十年も十五年も先の話や。それまで持たへん」
 堤は思い出しても腹が立つといった調子で声を荒げる。
 「なんで、最初に不動産屋に確かめへんかったんですか」
 山形の質問に、堤の声がさらにでかくなった。
 「不動産屋に文句を言いに行った。そしたら、お宅が聞かへんのが悪い。こない言いよる。頭へ来たけど、今さらどうすることもでけへん。陸の孤島のような場所で二か月やって、来た客は総勢十五名。ぶっつぶれてしもうた」
 山形が口をあんぐり開けて言った。
 「ア~、予想通りアンラッキーや」
 堤の話はまだまだ続いた。
 「世の中、いいこともあれば悪いこともある。そない思うて、気持ちを切り替えて今度はサラリーマンになった」
 山形が安堵の吐息を漏らし、堤を励ますように言った。
 「そうです。そないにいつまでも悪いことは続きまへん」
 「それが続いたんや。会社へ入って一週間目、これからという時に、倒産した。手形が割れなかったのが直接の原因やったようやが、経理状況がひどかったようや。ずさんな経理をして、金が回らんようになっていたらしい。それやのに人を雇うやなんて……。怒ったけど、上司のやつ、潰れると思わへんかった、と言って笑いよった」
 「そこまで行くと、不運を通り越して、笑うしかないですな」
 そう言いながらも、山形は笑えなかった。笑うより先にビールを口にして、それを呷るようにして呑んだ。
 「そうしている間に、両親が病気で相次いで亡くなり、兄が亡くなり、弟が亡くなって独りぼっちになってしもうた」
 堤の話を聞いていて、山形は切ない気持ちになった。世の中にこんなにも不運な人間がおるものか、信じられない気持ちで一杯になった。
 「堤さん、呑んでください。呑んで運を取り戻しましょう」
 山形は、堤の空になったコップにビールを注いだ。すると、堤が怒った。
 「わし、ビールは呑まんのや。マスター、新しいグラスもらえませんか」
 今度は山形が怒った。
「わいの酒が呑めんのか!」
「ビールは呑まんと言ってるだけや」
「一口ぐらい呑んだらどないやねん」
「呑めんもんは呑まん。わしの主義や」
堤の頑な態度に、普段は温厚な山形も怒り心頭になった。
「堤さん、表に出えや。勝負や。わいとの勝負に負けたら、ビールを呑め。ええな」
堤も、ビールを呑めとしつこく迫る山形に怒った。
「わかった。あんたもわしに負けたら芋焼酎を呑め、ええな」
互いに憤慨した堤と山形は、店から出て、店の前の道路で顔を突き合わせた。
「ちっちゃいやつやと思うとったら、ほんまにちっこいのう」
上から見下ろして、堤が勝ち誇ったように言った。山形も負けじと言った。
「ほっそいのう。今にも折れそうなほどに細いがな。ちょっと突いただけで倒れそうや」
 二人の周りを大勢の人が囲んだ。今から何が始まるのか、喧嘩か、それとも口喧嘩で終わるのか。固唾を飲んで見守っていると、山形が言った。
 「そろそろ始めよか」
 堤も大きく頷いて、
 「よっしゃ。負けても泣いたらあかんぞ」
 と言う。
 「それはこっちの言うこっちゃ」
 山形が返す。何が始まるのか見守っていると、通路に二人がかりで円を描き始めた。
 「円の外側にいてや。怪我すんでぇ」
 山形はそう言うと、円の中央に立った。堤も円の中央に立ち、中央で両者がにらみ合った。
 心配になって店から飛び出してきたマスターが、それを見て、二人の間に立ち、
 「はっけよい、のこった」
 と行事のまねごとをやると、二人は蹲踞の姿勢を取って、激しくぶつかり合った。
 山形が団子みたいな体で堤を押し込んで行く。ズズーッと後ずさりをした堤だったが、ぐっと踏ん張り、その後、押し返して行く。
 二人の周りに数十人の人が集まり、口々に歓声を飛ばす。一進一退の攻防がしばらく続いた後、さすがは十両手前まで行った堤だ。激しく息を吐き出し、押し疲れた山形を下手投げでコロリと転がした。
 歓声が上がり、マスターが、「つつみ~やま」と勝ち名乗りを挙げた。
堤は、転がってなかなか起き上がれない山形に近づくと、その手を握って、助け起こし、「大丈夫か」と声をかけた。
 「ああ、大丈夫や。さすがは十両手前や。強いがな」
 山形は、額から汗を噴きだしながら笑って言った。それを見た堤は、
 「ビール、いただくから」
 と言って、山形の肩を抱えるようにして店の中へ入った。
 その日を境に、堤と山形の凸凹コンビは急接近し、大の親友になった。

 山形は、堤の運を何としても幸運に変えたいと思った。いろんな方法を思いついたが、どれも、堤の強烈な不運の前には頼りなく思えた。考えに考えた末、思いついたのが、堤を結婚させることだった。幸運な星を持つ女性と結婚すれば堤の運も変わるはずだ。きっと変わる。そう信じた山形は、奥さんに相談をした。
 山形も今の奥さんと結婚をして運が変わった一人だ。堤ほどではなかったが、山形も独身時代は、何をやってもうまくいかないと嘆いていた一人だ。それが奥さんと出会って、思い切りツキが回り、今は小さいけれど引っ越しの会社をやってそこそこ生活ができるようになった。一応、従業員五名を抱える社長さんなのだ。
 山形に相談を受けた奥さんは、堤を一度見てみたいと山形に言った。それで、えびす亭に奥さんを連れて行き、堤と面会をさせた。
 堤は、年も年だし、こんなふうな性格だから難しいと思います、と山形の奥さんに言い、丁重に断った。
 だが、堤と初めて会った奥さんは、堤の純朴な性格と、やさしい眼差しに打たれ、夫である山形に、堤さんの不運を覆す女性を探すと宣言した。
 二週間ほど経った時、えびす亭の中で堤は、山形に、
 「明日、時間あるか。午後六時」
 と誘われた。
 「午後六時、大丈夫やけど何の用事やねん。別にここでええやないか」
 堤には、山形の企みがわかっていなかった。
 「何でもええから来てくれ」
 「で、午後六時にどこへ行ったらええねん」
 堤に聞かれて慌てた山形は、
 「そうやった。場所を言うてなかったな。ホテルニューオータニや」
 と言って堤に場所を説明した。
 「場所はわかったけど、なんでそんな場所まで行って、山形と会わなあかんね」
 堤は少々不服気味に言ったが、文句を言うのも面倒なのか素直に了解した。
「堤さん、一張羅の服を着て来いよ」
堤は、一瞬、キョトンをした顔をしたが、すぐにまた了解して、
「相撲取り時代の着物を着て行こうか」
とふざけてみせた。山形は真剣な顔をして両腕でバツ印を作った。
翌日、仕事を終えた堤は、いつもより配達に時間がかかって、着替えのために家に帰ることができなくなった。着替えをしていたら完全に遅れてしまう。そう思った堤は、作業着姿のまま待ち合わせの場所に向かった。どうせ、山形に会うのだ。一張羅の背広を着て行く必要なんかない。堤はそう思ったのだ。
ホテルニューオータニに着き、ロビーに着くと、すでに山形と山形の奥さんが待っていた。山形は、作業着姿のままやって来た堤を見て、
 「堤さん、服はどないしたんや。一張羅の服、着て来いと言うたやろ」
 と怒った。
 堤は、仕事が遅くなって服を着替える時間がなくなったと説明をした。山形は、
 「せっかくのチャンスやのに……」
 と嘆いたが、奥さんは、
 「堤さん、いいですよ。そんなことを気にする人じゃありませんから」
 と言って、堤をロビーの近くにある喫茶店に案内した。
 堤は、まだ、これから何が起こるのかをまったく知っていなかった。しかし、喫茶店に入って、ようやく気が付いた。見合いなのだと――。
 山形の奥さんは、山形と共に、堤を奥の席へ案内した。奥の席に、女性が一人、顔を下に俯けて座っていた。その女性の着ている明るい花柄のワンピースが堤の目にやさしく温かく映った。
 「お待たせしました」
 山形の奥さんが、テーブルに近寄り、座って待っていた女性に声をかけた。顔を上げた女性は立ち上がると山形夫婦を見て軽く礼をし、その後、堤に向かって礼をした。
 その瞬間、二人が同時に声を上げた――。
 山形の奥さんは、信じられないといった表情で、
 「お二人がお知り合いだったなんて……」
 と言って絶句した。
 「私が務める会社に、毎日のように堤さんが配達に来られて、やさしいいい人だなってみんなで噂してたところなんですよ。でも、まさか独身だとは思っていませんでした」
 山形の奥さんが選んだ女性、深山美子は爽やかな笑みを称え、堤を見つめて言った。
 堤は体を固くして、
 「私も、深山さんが独身だとは思っていませんでした。嬉しいです。今日はこんな恰好で来て本当にすみません」
 と平謝りに謝った。
 「堤さんらしくていいですよ」
 深山は、笑顔でそう言った後、山形の奥さんに向かって、
 「山形さん、今日はどうもありがとうございました。コーラスクラブでご一緒するだけの間柄なのに、このような席を設けていただいて――。四〇歳を過ぎたこの年まで独身でいて、こんないい方を紹介していただけるなんてまるで夢のようです。就職して、事務員として右も左もわからなかった私を、毎日のように配達にやって来る堤さんが、さりげなくやさしく包んでくださいましたこと私は忘れたことがありません。おかげで私はクビになることなく、今も務められています」
 一通り、口上を述べた後、深山は、緊張して体を固くして座っている堤を見て、
 「堤さん、今日はありがとうございます。堤さんさえよければ、どうか私を嫁にもらってやってください」
 と、はっきりとした落ち着いた口調で言い、頭を下げた。
 山形夫婦は、思わぬ展開に口を開け、目を見開いて言葉もなかった。堤は、えっという顔をして、聞き間違いじゃなかったのか、といった感じでうろたえた。
 堤に不足などあるはずがない。毎日、深山の務める会社に配達に行き、誘いの言葉の一つもかけられず、ドギマギしながら深山に接するだけの日々を過ごしていた。そんな中、深山が困っているのをみると、いつも放っておけなくて手助けをしてきた。別に大したことをしたわけじゃない。それなのに、深山は感謝してくれた。嬉しい。俺は嬉しい――。その言葉を堤は心の中で何度も叫んだ。

 その後、えびす亭で、堤の見合いはひとしきり話題になった。見合いの席で見合い相手の女性が、自分から嫁にしてくれないかなど、前代未聞の出来事だ。それも、その女性は、美しくおしとやかで、芯のしっかりした女性なのだ。言ったその相手が、金もなければ話も下手で、女にモテるなどまったく縁遠い、アンラッキーな堤であれば尚更だ。誰もが首を傾げてしまう話で、おい、本当かよ、ということになる。
 山形もまた、同じことを思っていた。奥さんから、コーラスグループに一人いい女性がいるのよと言って、写真を見せられた時、思わず、「こんなええ女じゃ無理だ。断られるに決まっている」と言って、ご破算にしようと思ったぐらいだ。
 ところが奥さんはえらく自信ありげで、
 「この娘は、芯のしっかりした女よ。見かけじゃなく、堤さんのいいところをしっかりとらえてくれるはず。こんな女がついたら、堤さんの運もきっと好転するわよ」
 と高らかに宣言した。半信半疑のまま、見合いの席を用意したのだが、二人が知り合いだったことも驚きだったが、それ以上に、女の方から嫁にしてくれ、と言ったのには驚いた。堤のその時の呆気にとられた顔を山形は今でも忘れない、思い出すたびに腹を抱えて笑った。ポカンとした顔で江中を見て、笑い泣きしたあの表情、山形も堤と同様、嬉しかった。いや、少し、羨ましかった。
 堤と江中は結婚し、それ以後の堤は、まるで嘘のようなツキのついた運のいい人生を送ったという。
<了>


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