悪夢を呼ぶたくさんの人格

高瀬 甚太

 「毎晩、悪夢に悩まされて困っています。どうにかなりませんか?」
事務所を訪ねてきた女性に、いきなりそんな質問をぶつけられて、私はのけぞりそうなほどに困惑した。
 「申し訳ありませんが、私は医者でも、心理学者でも夢の研究家でもなく、霊媒師でもありません。ただの編集者です。せっかくのご相談ですが――」
 慌てて断った。このところ、こうした相談が増えて困っている。これまでいくつかの依頼に仕方なく応えてきた経緯はあるが、決して私一人の力で解決したものではない。私自身は、編集しか能のない無力な人間だ。
 「編集長ならきっと相談に乗ってくれる。そうお聞きして四国からやって来ました」
 四国からわざわざ――、それにしても一体、誰に聞いたのだろうか。私の名前はそれほど有名ではない。メディアに露出しているわけでもなく、フェイスブックやツイッターの類、ブログでさえもやっていない。それなのにどうして――。
 「失礼ですが、私のことをどなたからお聞きになったのですか?」
 「これまで心理学を専門とする方や、霊媒師に相談をしましたが、ピンと来なくて――、悩んでいる時、友人に相談をしましたら、その友人が、大阪市北区の出版社の編集長に相談をしてみたら、と言うので、本日、こちらへやって来たようなわけで……」
 私は腹立ちを覚えて、その女性に言った。
 「心理学の専門家や霊媒師に相談をして解決できなかったものが、どうして出版を専門とする私に解決できると思われたのですか? 私は門外漢ですよ」
 「私も最初はそう思いました。だから友人に、心理学の専門家が解決できなかった問題を出版社の編集長が解決できるはずがない、とその友人に言いました。でも、友人は、あなたの問題は専門家では治らないと思う。専門家は、悪夢を見る原因を日常の体験や過去の体験に置き換え、病気に限定しようとする。挙句にあなたは薬漬けになってしまう。霊媒師は、霊に犯されていると言って、高い霊媒料金をせしめようとする。それがあてはまればいいのだけれど、あなたの悪夢はそれで解決する悪夢ではないような気がする。出版社の編集長は、専門家や霊媒師のように先入観を持たずに話を聞いてくれる。解決できるかどうかはともかくとして、あなたの悪夢を解決する糸口を作ってくれそうな気がするの。その時、私は、なるほどなあと思いました。それでやって来たようなわけです」
 二十代後半だろうか。ストレートの黒髪を肩まで伸ばし、化粧っ気のない顔に黒縁のメガネが乗っかっている。上下の黒いスーツを着た真面目そうなスタイルと気弱そうな表情に打たれて、仕方がない。話だけでも聞いてあげようか、そんな気になった。
 「あなたの友人がどんな方であるか、私にはわかりませんが、もしかしたら、これまで私が遭遇した中のお一人かも知れませんね。その方に免じて、また、遠くからいらっしゃったことに敬意を表して、お話だけでもお聞きしましょう。ただし、私は門外漢ですから、問題解決につながるかどうか甚だ疑問ですが、それでよかったら、どうぞお話しください」
 女性は、気弱な表情を一掃するように明るい笑みを浮かべると、私に向かって切々と語り始めた。
 
 ――藤村百合と申します。大阪の短大を卒業してすぐに徳島市内の食品会社に就職し、総務課の事務員として働き始めました。今年で八年目になります。
 従業員が百名程度の中小企業ですが、この不況下の中でも経営状態は悪くありません。仕事もそう難しくなく、同じようなことの繰り返しですが、不平や不満は特になく、ストレスもそれほど溜まっていないと自覚しています。
 二二歳の時に、初めて男性とお付き合いをしました。相手は同じ会社の営業部で働く五歳上の先輩です。会社の運動会で知り合って交際を申し込まれ、しばらく返事を保留した後、交際するようになりました。返事を保留したのは、職場が違うこともあって相手のことがよくわからなかったことと、何となく気が進まないものを感じていたからです。
 交際相手の高浦一郎は、非常に積極的な人で、最初のデートからキスを求め、肉体を求めてきました。私が断ると、途端に言葉を荒げ、罵倒するなどして、信じられないぐらい自分勝手な人でした。彼の言葉に傷ついた私は二度目のデートで別れを切り出しました。とてもうまくやっていける自信がなかったし、元々、好きなタイプではなかったから、早い機会に別れた方がいい、そう思ったのです。でも、彼は納得しませんでした。短時間の交際でわかるわけがない、悪いところがあれば直すし、セックスを要求したりしない。だから、交際を継続してくれ、このままでは会社にいられなくなる、と言うのです。
 彼は、私と付き合うことを会社の同僚たちに言いふらしていたのです。すぐに別れたら、何を言われるかわからない、会社を辞めないといけなくなる、そう言って土下座までするのです。仕方なく私は、もうしばらくだけと断って、交際を継続することにしました。
 でも、一度嫌になると、嫌な部分だけが目に付いて、会うことさえ辛くなってきます。彼は彼なりに努力してくれていたのでしょうが、とうとう私は我慢できなくなり、一方的に別れを告げました。
 それからです。彼のストーカーが始まったのは……。会社は言うに及ばず、出勤時から退社時まで、とにかく家に帰りつくまで、私は彼の視線を感じ続けなければなりませんでした。家に帰ってから後も、ひっきりなしに無言電話がかかり、挙句の果てに私の留守に自宅まで押しかけてきて、「百合さんとお付き合いさせていただいている者です」と家の中に上がり込むに至っては――、とうとう私は会社の上司に相談せざるを得なくなりました。
 しかし、高浦は上司から注意を受けたことに激昂し、その行動を余計にエスカレートさせ、仕事をろくにしなくなって、会社をクビになりました。
 彼の退職で安堵したのもつかの間、彼のストーカー行為はさらに激しくなって、怖くなった私は警察へ駆け込みました。ご存じの通り、警察は事件が起きないと動いてくれません。私の場合も、生命の危険を感じていると告げたのですが、相手にしてもらえず、家族に相談をして、しばらくの間、兄と一緒に家を出て、帰りは父と待ち合わせをして家に帰ることで、身を護りました。
 経理を担当している須磨武彦という私より二歳上の先輩がいます。明るくて話しやすい人でしたから、昼休みなど社内でよく話をしていました。須磨はとても気のいい人でしたから、父が仕事で遅くなって送ってもらえない時など、家まで送ってもらうことが時々、ありました。事件が起きたのは、須磨に送ってもらっている途中のことです。突然、飛び出してきた高浦が手にした包丁で須磨を刺したのです。高浦は、須磨の腹部を刺した後、今度は私を刺そうとしました。でも、それは間一髪のところで、通りかかった通行人によって食い止められました。
 刺された須磨は、すぐさま救急車で運ばれましたが、出血多量で一時は生命が危なかったのですが、医師の適切な処置のおかげでどうにか一命を取り留めることができました。
 高浦は傷害の容疑で逮捕され、そのまま刑務所に服役しました。私はようやくストーカーから逃れることができ、安堵しました。
 私のために被害に遭った須磨を見舞っているうちに、次第に私たちは仲良くなり、やがて交際をするようになりました。須磨は、高浦と違って、私に嫌な思いをさせることなどまったくと言っていいほど無い人で、性格的にも安心できる人でした。ただ、彼は必要以上に優柔不断なところがあり、決断をするのに時間を要しました。そのためお互いに結婚を意識しながらもなかなか進展しませんでした。
 悪夢を見るようになったのは、一年ほど前からのことです。須磨と交際し始めてから六年が過ぎ、このまま交際していいのだろうか、そんなことを考え始めていた矢先、出所してしばらくなりを潜めていた高浦が、突然、姿を現したのです。
 高浦の出現が悪夢を見るようになった直接の要因なのか、それとも須磨との停滞した関係が要因なのか、ともかく私は、その頃から頻繁に悪夢を見るようになりました。
 姿を現した高浦が、再びストーカーを始めたかといえばそうではなく、彼は、たまたま会社に寄っただけのようでした。元の上司に挨拶をするのと、自分が今、関わっている仕事の件で相談があったようで、私の前には姿を見せず、そのまま会社を去っています。
 もう二度とあんな真似はしないだろう、そんな確信はありましたが、それでも、どのような用であれ、彼が会社に姿を現したことで、私は少なからず動揺しました。
 心理学の専門家は、悪夢の要因を、高浦の出現を知った恐怖心理と脅迫観念が呼び起こしたものと推察し、精神の動揺を抑える薬を飲ませることで治癒させようとしました。しかし、投薬による治療はまったく効き目がありませんでした。治るどころか、悪夢は一層ひどくなったのです。
 また、心理学の専門家は、須磨との停滞した関係が悪夢の要因になっている可能性があると考え、違った薬を私に飲ませようとしましたが私はそれを断って、心理学の専門家への相談をあきらめました。
 続いて行った先は、関西でも超有名な霊媒師のところです。これは母の勧めでした。母は、私が毎日のように悪夢を見て、寝不足になっていることを心配に思い、霊障かも知れないと考え、私を行かせたのです。
 霊媒師は、悪夢の原因を霊に取り憑かれているせいだと診断し、家族を呼び寄せて大々的にお祓いを行いました。お祓いを行ったことで、悪夢を見なくなるとのことでしたが、私の悪夢は一向に消え去りませんでした。
 悪夢を見始めて一年になります。私はこの間、毎日のように悪夢にうなされています。眠るのをやめれば見なくて済む。そう考えて寝ないように努力をしたこともありますが、無駄な抵抗でした。少しウトウトとしただけでも悪夢を見てしまいます。
 悪夢が始末に負えないのは、単なる恐怖ではないからです。何かに襲われたり、追いかけられたりするようなものではなく、不安を感じさせるのです。底なしのような大きな不安が私を襲い、どんどん私を押し潰して行きます。
 日常生活で不安な要素などまるでありません。仕事での不安もなければ、彼との関係においても、そのうち、彼は私との結婚を決意するだろう、そう信じていましたから特に不安は感じていません。家族関係は良好ですし、借金もありません。それなのになぜ、悪夢を見るのか、不思議でなりません――。
 
 藤村百合はひと通り話し終えると、フッと小さなため息をついた。その表情に陰りが見え、疲れた肌の色に百合の苦悩が垣間見えた。――その時、頬杖をついた百合の指先の爪に施されたネイルアートの派手な色彩に一瞬、私は目を奪われた。
 夢については、ジークムント・フロイトの存在がよく知られている。
フロイトは、「夢は抑圧された願望の表れ」と言い、願望を充足することによって睡眠を保護する精神の機能と捉えた。
 人は、日常の欲求や不満を無意識に抑止している。睡眠時には、その抑止されたものが開放され、夢になって表れる。夢とは、人のすべての姿ではない、ありのままを示す。従って夢は隠された心の内部を我々に知らせる手段の一つだとフロイトは分析している。
 ――藤村百合の場合はどうか、百合の不安はどこから来ているのだろうか。
 カール・ユングはフロイトの弟子である。そのユングは、「夢は未来を予知し、過去や未来からアドバイスを送っている」と捉え、無意識の下に隠された願望や欲求は大きなエネルギーになると考えた。
 藤村百合の悪夢の正体は、抑圧された願望の表れとみるべきなのか、未来を予知するものなのか、それとも、そのどちらでもない、異質のものなのか。
 私は、藤村百合がすべてを語っているとは思えなかった。悪夢の要因は、百合が語っていない事柄の中にある。そう感じた私は、百合に対して、
 「明日、もう一度来ていただけますか。その時、改めて今日の話を聞き直したい」
 と伝えた。明日、もう一度、百合に会って確かめたいことがあった。
 もし、私の判断が正しければ、悪夢の正体がはっきりする。しかし、あくまでもそれは、推測でしかなく、この時点では私の単なる思い付き程度でしかなかった。
 翌日、百合は、昨日とは違った服装で現れた。昨日は黒のスーツだったが今日は白のワンピースで、髪型も変えていた。ストレートに肩まで垂らした髪をカールして、毛先を丸めていた。それだけではない。髪の色も黒から栗色に変わり、化粧っ気のない顔にうっすらと化粧が加わって、昨日かけていたメガネを今日は外していた。
 一見して昨日の百合とは別人のように見えた。
 「申し訳ないが、昨日、百合さんに聞かせていただいた話を最初からもう一度聞かせていただきたいのですが」
 大抵の人は、二度も同じ話をすることに抵抗を感じるはずだ。だが、百合はそうではなかった。昨日と同様に饒舌に語り始めた。しかし、その内容は昨日と大きく違っていた。
 
 ――大阪の短大を卒業してすぐに徳島市内の食品会社に就職し、総務課の事務員として働き始めて今年で八年目になります。
 二二歳の時に、初めて人を好きになりました。相手は同じ会社の営業部で働く五歳上の先輩です。会社の運動会の後に行われた慰労会で私の方から積極的にアプローチし、交際をするようになりました。
 交際相手の高浦一郎は、大人しくて、真面目な人でした。デートの最中もキスはおろか手もつないで来ません。私の方から積極的に行き、三度目のデートで関係を持ちました。関係を持ったその日、彼は責任を取ると言って、結婚を口にしました。結婚なんてまだまだ早いと思っていた私は、もう少しお付き合いをしてから考えましょうと言って彼を諌めました。どちらかといえば私は恋に対して奔放で、一人の男で我慢できるようなタイプではありません。だから一度は好きになったものの、しばらく付き合っているうちに真面目で一途な彼を鬱陶しく思い始めました。早い目に別れた方がいい、そう考えた私は、唐突に別れ話を切り出しました。それが悪かったのでしょうか、彼は怒りをあらわにし、私を責めました。彼の未練たらしい態度を見ていると、なんでこんな人を好きになったのだろう、と後悔しました。一度嫌になったらとめどなく嫌になります。彼は、私の心を取り戻したい一心でしつこく付きまとって来るようになりました。そんな時です、私が経理課の須磨武彦に誘われて、一緒に酒を呑みに出かけたのは――。酒を呑んで二人で街を歩いている時、突然、高浦が現れ、刺身包丁を手に私に襲いかかって来ました。須磨が私の楯になってくれたため助かりましたが、須磨は瀕死の重傷を負い、出血多量で危篤状態に陥りました。幸い、医師の的確な処置で一命を取り留めましたが、一カ月ほどの入院を余儀なくされました。
 高浦は懲役三年の実刑を受け、刑務所に収容され、会社もクビになりました。私と須磨は、そのことが縁で付き合うようになり、以来、今日まで付き合いが続いています。須磨は、結婚を望んでいるようで、彼の両親ともお会いしましたが、私はまだ決断できずにいます。それに、私、彼以外の男性ともお付き合いしているし、結婚するなら須磨とするでしょうが、それはまだ当分、先のことです――。
 
 百合の話は、昨日と今日でずいぶん変わっていた、まるで別人のようだ。
私は、昨日、百合の話を聞き、今日再び百合を観察して、百合は解離性同一性障害ではないかと疑いを持った。
 解離性同一性障害は、多重人格障害とも呼ばれるもので、切り離した自分の感情や記憶が裏で成長し、それ自身が一つの人格のようになって、一時的に、また、長期間に亘って表に現れる状態を言う。
 百合の中には多分、複数の人格が存在するはずだ。明日、話を聞けば、百合は昨日、今日とは違った話をするかも知れない。けれどもそれは、百合が嘘をついているわけではない。百合の中に潜む複数の人間が声を上げているだけのことなのだ。
 百合の悪夢の正体は、多様な人格によって苛まされる不安から生まれている可能性があった。複数の人格が存在するものの、百合は、どれが自分の真の人格であるかわからなくなっているのではないか。そのことからくる不安が百合の悪夢を呼び起こしているのでは――。私はそう考えた。
 「悪夢を見るようになったのは、一年ほど前からのことです。須磨と交際し始めてから六年が過ぎ、このまま交際していいのだろうか、そんなことを考え始めていた矢先、出所してしばらくなりを潜めていた高浦が、突然、姿を現したのです。
 高浦の出現が悪夢を見るようになった直接の要因なのか、それとも須磨との停滞した関係が要因なのか、ともかく私は、その頃から頻繁に悪夢を見るようになりました」
 百合は悪夢を見るようになったきっかけを昨日、そのように語った。だが、百合の悪夢は、もっと以前から発生している可能性があった。
 百合の解離性同一障害は、思春期に至って徐々に発症し、高浦と付き合うようになって如実に表れるようになったと考えられた。悪夢はその頃からたびたび百合を襲っているはずだ。
 昨日、私は、大阪府警の原野警部に連絡を取り、高浦の傷害事件が真実であるか、須磨が高浦に刺されたことが間違いのないものであるかどうかを確認した。
 事件は間違いなく起こっていた。昨日と今日では幾分話が違っていたが、高浦が刺身包丁で須磨を刺したことに間違いはなかった。ただ、警察の事情聴取で、当事者である百合は、須磨を狙って刺したと証言したかと思えば、狙われたのは自分で、須磨がかばって刺されたと証言し、二転三転する百合の話に警察関係者は翻弄されている。
 百合の会社にも、百合の話の裏付けを取るために、この日の朝、伺って、人事担当者に高浦と須磨、藤村百合について、それぞれの話を聞いている。
人事担当者によれば、百合はごく普通のОLで、真面目でよく働くが目立たない女性であるということだった。会社の中では、百合は自身の一面しか覗かせていないようだった。高浦については、人事担当者は好意的な意見を持っていた。営業の第一線で活躍していた人間が、なぜ、あんな事件を起こしたのか判断に苦しむと語り、逆に須磨は、陰気で人とコミュニケーションを取るのが苦手なタイプだと担当者は評した。
 百合が高浦と須磨のどちらとも結婚せずに来たのは、百合の中に内在する複数の百合が、二人をそれぞれに評し、反発し合った結果だろうか。複数の人格のさまざまな思いが錯綜し、それが原因で起きる悪夢だとしたら、百合に、真の自分を取り戻させる方法でしか、悪夢から逃れさせる術はない。
 私は、心理学に詳しいわけではないし、解離性同一障害への対応に長けているわけでもない。だが、百合をこのままにしておくわけにはいかないと思った。このまま放っておくと、百合の中にさらにたくさんの人格が存在するようになり、悪夢に食い殺され、やがて百合は突発的に命を絶つことになる。そう危惧した。
 翌日、私は百合の許しを得て、会社の昼休みに須磨に会った。須磨は、神経質そうなタイプではあったが、百合のことについて伺いたいことがあると告げると、意外に快く話に応じてくれた。
 私は、彼が百合をどう捉えているか知りたかった。
 「愛しています。ずっと真剣に愛して来ました。これからもそうです」
 須磨は端的に答えた。その言葉を聞いて、私は少し安堵した。
 「百合さんを見て、おかしいと思ったことはありませんか?」
 尋ねると、須磨はしばらく考えた後、
 「初めて会った時から、普通じゃないと感じてきました。でも、いいんです。彼女はぼくと一緒にいる時、普通の女の子でいてくれるから」
 と笑って答えた。人事の担当者は、須磨のことを陰気でコミュニケーション能力に欠けるところがあると評していたが、とんでもない。彼は実に大らかで素晴らしい男だった。百合が壊れずに存在し、突発的な死を選ばないのは、須磨がそばにいるせいだと悟った。
 「須磨くん。きみにお願いがある。彼女は、私の見るところ、解離性同一障害の疑いがある。複数の人格が彼女を支配し、彼女自身、どれが自分の本体であるか、自覚できないでいるようだ。このままでは、彼女は自滅してしまう。須磨くん、私は、彼女を救うことができるのは、あなたしかいないと思っている。お願いだ。彼女を救ってやってほしい」
 「彼女を救う? でも、ぼくにはその方法がわかりません。どうしたらいいのでしょうか」
 「須磨くん、きみは今、言いましたよね。彼女は自分といる時、普通の女の子でいると。彼女のそばにできるだけ長くいてやってください。彼女がどんな態度を見せようと、変わらぬ愛と変わらぬ態度で真摯に接してください。そうすれば、彼女は、彼女自身の真の人格を取り戻す、大きなきっかけを掴めるかも知れません」
 そんな単純な方法で、百合の真の人格を取り戻すことができるのか、と問われれば、私は答えに窮してしまい、言葉を詰まらせてしまうことだろう。だが、須磨は、違った。
 「わかりました。会社に事情を話して、二人共しばらく休暇をいただくことにします。休暇をもらって、二人だけで旅に出ます。二週間程度の旅で編集長のおっしゃっていることが叶うかどうかわかりませんが、ぼくは、その間、彼女と真摯に向き合って、お互いの愛を確認します」
須磨はそう言って私に約束をした。
 人を救うのは、学問でも薬でも霊媒師でもない。人を救うのは、やっぱり人だ。百合を誰よりも深く愛する須磨の気持ちが、最終的に百合を救う。私はそう信じていた。
 愛を科学で解き明かすことが出来ないように、心の病もまた、科学で証明できても救うことはできない。人は人を思う気持ちによってのみ心を開く。百合の解離性同一障害は、簡単に治癒するものとは思えない。だが、心を開く勇気を持てば少しは事情が変わって来る。須磨の愛が百合の心の中にある、真の扉を開かせられるかどうか、それを考えると、二週間という時間はあまりにも短い時間のように思えた。
 
 ――須磨と百合が旅立って二週間目が過ぎようとしていた。この二週間、須磨からは何の連絡もない。どこへ旅したのかも私は知らされていなかった。
 ちょうど二週間目に当たる日曜の午後のことだ。事務所のチャイムが来客を告げた。急いでドアを開けると、須磨と百合が立っていた。
 「ただいま」
 須磨が笑顔で私に挨拶をした。
 「ただいま」
 百合も同じように笑顔をくれた。
 二人の明るい表情を見て、私を支配していた不安の影が和らいだ。
 事務所の中へ二人を上がらせた私は、
 「旅はどうだった?」
 と恐る恐る聞いた。
 「編集長、実はぼくたち、旅には出なかったんです。ぼくの部屋で二週間、ずっと二人で暮らしました。現実の中で向き合い、お互いに心をさらけ出す努力をしたかった。旅に出るよりも部屋の中でお互いを見つめ合って過ごしたいと思ったのです。
 彼女に心の問題があるように、ぼくにも人に言えない悩みがある。すべてをさらけ出すことは勇気のいることだけど、お互いを真摯に見つめ合えば、何かが変わるのでは、編集長がそう言っていたように、ぼくもそれを実行しました」
 「……」
 須磨は、私に話しながら、ずっと百合と手をつなぎ合っていた。百合の表情は、以前とそれほど変わらないように思えたが、爪に施していたマニキュアや派手なネイルは姿を消していた。
「彼女は、眠りに就くと同時にひどい悪夢にうなされ、苦悩に顔を歪めて悲鳴のような声を上げます。ぼくはその間、彼女をずっと抱きしめていました。それしか方法がなかったからです。最初のうち、彼女は抱かれていることに抵抗し、暴れました。彼女の別人格が拒否しているのだと思いました。でも、ぼくは必死になって、彼女を抱いた腕を放しませんでした。一週間、それが続きました。一週間が過ぎた頃からスヤスヤと寝息を立て始め、目を覚ました時、彼女は、『悪夢をみなかった』、そう言ったのです。それから後も、ぼくは彼女をずっと抱き続けました」
 須磨に抱かれることで、徐々に百合は不安を解消して行ったのかも知れない。須磨に愛されているという実感が、複数の人格を黙らせ、百合の本体をよみがえらせたのだろうか。悪夢から逃れ出たということは、つまりそういうことになるのでは、と私は解釈した。
 「彼女の人格がどれであれ、ぼくはどの人格も愛しぬくと、彼女に誓いました。まだまだ時間はかかるでしょうが、頑張ります」
 須磨は、彼女の手を握りしめたままそう言った。
 人を救うのは人しかいない。愛しかない。須磨と百合を見比べながら思った。百合の表情が柔らかい。須磨を見つめるまなざしが熱い。百合は、須磨がそばにいる限り、もう悪夢と出会うことはないだろう。解離性同一障害の完全治癒は難しくても、少しずつ改善していくに違いない。私は二人を見て、そんな感想を抱いた。
 二人は手をつないだまま立ち上がると、二人して仲良く事務所を去った。
以来、私は二人と会っていない。風の噂で二人が結婚したこと、子供が生まれたこと、その子供が女の子で、百合によく似た可愛い子供であることを聞いたが、悪夢が再発したなどといった噂は一度も耳にしていない。
〈了〉

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