五日目の奇跡 魂の入れ替わり

高瀬 甚太
 
 階段で足を踏み外し、転んだ拍子に右足首を亀裂骨折した。間抜けな話だが、徹夜続きで疲れていたのだろう。急ぎの仕事に追われ、不眠不休でやって来たツケが回って来たのだと思った。
 歩けないと一人暮らしはできない。そう思った私は、この機会に病院でゆっくりしようと思い、入院を願い出た。医師もそう考えていたようで快く応じてくれ、その日から入院生活が始まった。
 しかし、いざ入院してみると退屈過ぎて時間を持て余す。朝は午前6時に起こされ、7時に朝食が届いて、10時に定期の検診がある。それを終えたら昼食の時間まですることがない。いや、もっと悲惨なのは午後からの時間だ。足を骨折している以外、悪いところのなかった私はきわめて健康で、ベッドにいることが耐えられない。最初の一日、二日は珍しさもあって楽しめたが、三日目からは退屈に耐え切れず、松葉杖で病院中を歩きまわった。
 総合病院であったから、さまざまな病気の方が入院している。私の入院する外科は、主に交通事故やその他の事故による入院患者が多く、悲惨を極める例も多々あった。病室は四人部屋で、私のような軽症患者は稀で、ほとんどの患者が重傷か、それに近いものが多く、年齢もさまざまだった。
 私の病室の入口にベッドのある患者が、小学校低学年の男の子だと知ったのは、入院して四日目のことだ。それまでその男の子はかなり厳しい状態であったらしく、ベッドはずっとカーテンで閉ざされたままだった。
 若い両親が青ざめた表情で、ベッドに詰めていた。子供の兄であるのだろう、小学校高学年の男の子を何度か見かけたが、その男の子でさえ悲壮な表情を浮かべて出入りしていた。よほど状況が悪かったのだろう。そう思ったが、声をかけられずにいた。
 「良太くん、かわいそう――」
 若い看護師が私の足を手当てしながらひとり言のように言った。
 「良太くんと言うのですか? 入口の男の子」
 「そうよ。とても可愛い男の子なんだけど、五日前に交通事故に遭って」
 「交通事故ですか?」
 「そうよ。自転車に乗っていて、後ろからやって来た酔っ払いの車に撥ねられたの」
 「よくそれで無事だったですね」
 「ヘルメットをしていたから頭は無事だったけど、腕、肩、腰、足、全身打撲と骨折で、一時は命も危ぶまれた。奇跡的に一命を取り留めたけど――」
 「一命を取り留めたけど――?」
 「記憶が戻らないの」
 「頭にダメージを受けていないのに記憶喪失ですか?」
 「脳波には異常が見られないし、一時的なものだと医師は言っているけど、事態はそれほど甘くないと思う。私が見てもあの子の状況はかなり逼迫している」
 「逼迫しているというのは?」
 「様子が普通じゃない。言動もおかしいし」
 看護師は、そこまで言って手当を終え、「内緒にしていてくださいね」と言って去った。
 事故で記憶を喪失するのはよくある話だ。しかし、言動が普通ではないというのはどういう意味なのだろうか。――同じ病室の隣人、秋山良太のことが気になった。
 
 入院したことは誰にも告げていなかった。しばらく旅行に出ると伝えていたものだから、見舞いに来るものなど誰もいない。それが幸いしたのか、骨折した足の経過は極めて良好だった。見舞いに来られると妙に焦ってしまう。焦ると微妙に足の完治に影響する。入院を誰にも告げなかったことは良策だったと思ったが、それにしても退屈過ぎた。
 良太の部屋のカーテンが開いたのは私が入院して五日目のことだ。開いたカーテンを覗くと、両親も兄もおらず、良太が一人で横たわっていた。
 頬に包帯が巻かれ、腕や足も包帯で覆い尽くされた良太の姿は見るからに痛々しかった。そっと覗いていると、良太が目を覚ました。驚いた私が、
 「こんにちは、大丈夫ですか?」
 と声をかけると、良太がむっくりと起きた。
 「起きても大丈夫なの? 寝ていなきゃ」
 すると、良太がじっと私を見つめて言った。
 「あなたはどなたですか?」
 大人っぽい口調と、可愛い顔に似つかわしくない太い声に驚かされた。
 「私は井森と申します。同じ病室に入院している者です」
 良太は、品定めでもするかのように私を見つめて言った。
 「なぜ、私はここにいるのでしょうか? 私はこのような場所でじっと寝ている暇などありません」
 看護師が言っていた、言動がおかしいと言っていたのはこのことだなと、その時、思った。
 「きみは交通事故に遭って、全身を強く打って病院に運ばれた。今は体を動かすことさえ、困難なはずだ」
 良太に説明をすると、良太は平然とした表情で言い放った。
 「この程度の傷、何と言うことはありません。それよりも私、急いでいるんです」
 口調は子供のものではなく、大人のものだった。瞬間的に私は良太に何かが憑依したのではと思った。
 「あなたは何者ですか?」
 尋ねると、良太はさらりと言って退けた。
 「私は佐伯隆一と言います。東京国際貿易で課長として働いています。今日、目を覚ましたら病院のベッドにいるので驚きました。契約が迫っていて、その書類の作成に追われているのに――」
 佐伯は自分の肉体が見えていないようだ。幼い子供の肉体になっているのに、しきりに起き上がろうとする。
 「ご自分の体を見てください」
 私の言葉に、佐伯はその時、初めて自身の肉体を見て悲鳴を上げて驚いた。
 「一体、これはどういうことですか!?」
 私は、良太が事故に遭った同時刻に佐伯もまた事故に遭ったのだと推測した。多分、佐伯も良太と同様に生死の境をさ迷っているのだろう。急いで処置をしないと大変なことになってしまう。
 「佐伯さん、あなたの会社の社名、または家の住所を教えてください。急がないと大変なことになってしまいます」
 佐伯は最初、私の言っている意味がわからずにいたようだ。だが、それでも彼は聞かれたことには素直に答えた。
 私は、病院の休憩室に向かい、そこで携帯を使って佐伯の会社に電話をした。
 「佐伯課長、いらっしゃいますでしょうか?」
 電話を取った相手は、佐伯の会社の社員だったようだ。私の問いに一瞬、言葉を詰まらせた。
 「課長は事故に遭って、現在、病院に入院中です」
 「どのような状況なのでしょうか?」
 「五日前に交通事故に巻き込まれて、現在、意識不明の重体が続いています」
 やはりそうかと思った私は、
 「入院している病院を教えていただけませんか?」
 と急いで聞いた。社員の女子は、「少し待ってください」と言った後、しばらくして、病院の名称と電話番号を私に告げた。
 「佐伯さんは東京の方ではなかったのですか?」
 「契約の関係で大阪へ行っていて、事故に巻き込まれました」
 と社員の女子は言う。私は丁寧に礼を言って電話を切った。
何と言うことだ。佐伯は良太と同じ病院にいる。しかも、意識を取り戻した良太と違い、佐伯は意識不明の重体だ。
 話には聞いたことがあったが、こんなことは初めての経験だった。同時刻に同じような事故に遭った二人の魂が何らかの衝撃を経て入れ替わった。このまま放置しておくと良太の魂は佐伯に乗っ取られてしまう。
 私はすぐに病院の医務科へ行き、良太と同時刻に救急車で運ばれてきた佐伯という会社員がいないかどうか尋ねてみた。
 「佐伯さんなら五日前に事故に遭ってこちらへ搬送され、意識不明の重体で集中治療室に入っています」
 医務科の担当はそう説明してくれた。集中治療室の場所を聞いた私は、松葉杖をつきながらおぼつかない足取りでその場所に向かった。
 集中治療室の前では、佐伯の家族が心配げに座っていた。
 「佐伯さんのご家族ですか?」
 尋ねると、「はい、そうです」と夫人が答える。その隣に幼稚園児と思われる子供が一緒にいた。
 「事故に遭われたそうですね」
 「ええ、大阪へ契約のためにやって来て、その作成を支店で行っていたのですが、遅い昼ご飯を取りに外へ出た時に、突っ込んできた車に撥ねられ、病院に運ばれました。以来、ずっと意識不明の重体が続いています」
 佐伯夫人は、そう説明し、涙をこらえきれないのか、しきりにハンカチで瞼をぬぐい、幼い子供の手をしっかりと握った。
 
 二人の魂が何かのアクシデントで入れ替わったことは容易に想像できたが、それ以上の方策を思い浮かべることはできなかった。気が焦るものの、初めての経験だけにどうにもしようがなかった。咄嗟に友人の川口慧眼和尚のことを思い出した私は、すぐさま滋賀県の劉王寺に電話をした。しかし、放浪癖のある彼は寺にはいなかった。携帯を持たない彼を捕まえることは難しい。そう思っていると、劉王寺の僧の一人が、大阪へ向かったはずだと教えてくれた。
 しかし、大阪へと言っても雲をつかむような話だ。思案していると、突然、私の携帯が鳴った。意思が通じたのか、慧眼和尚からの電話だった。
 「編集長か。元気にしているか? ちょっと大阪まで来たから電話をしてみた」
 とのんびりした口調で言う。
 「探していたんだ。慧眼和尚、すぐに病院へ来てくれ。一刻を争う」
私は、慧眼に病院の場所を教え、ロビーで待っていると伝えた。慧眼はわけ がわからないまま、それでも15分ほどで病院に到着した。
 「一体、何があったんや。びっくりするやないか」
 ロビーで待つ、私の前に現れた慧眼和尚は、荒い息を吐きながら聞いた。
私は、秋山良太と言う男の子と、佐伯隆一という中年男性が同時に事故に遭い、その時のショックで、どうやら魂が入れ替わったようだと伝えた。片方は意識を取戻し回復途上にあるが、片方は意識不明の重体で深刻な状況であることを話すと、慧眼和尚は、
 「編集長、事故から何日経っている?」
 と私に聞く。
 「今日で確か五日目のはずだ」
 「ギリギリだが、どうにかなるか……」
 慧眼和尚は懐からハンカチを取り出し、汗を拭うと私に言った。
 「七日経つと元には戻らない。早ければ早い方がいいが、ギリギリの状態だ。うまく行くかどうか、わしもやったことがないが、何とか頑張ってみる」
 私は、慧眼和尚を連れて良太の元へ連れて行った。幸い、両親も兄も誰もまだ良太の元に帰っていなかった。一人でベッドに横たわる良太に慧眼和尚が言った。
 「滅多にないことだが、良太という子供の魂と佐伯さん、あんたの魂が入れ替わってしまった。佐伯さん、あんたは今、生死の境にいて、意識不明の重体と聞いた。良太の魂は今、佐伯さん、あんたの肉体に宿っている。何とかしないと、あんたの魂は良太に宿ったままになってしまう。少し荒療法だが、やってみる」
 そう言って慧眼和尚は良太と佐伯を隣同士、並べられないかと私に尋ねた。
 慧眼和尚は、二人を並べ、佐伯の体に宿った良太の魂と佐伯の体に宿った良太の魂を入れ替えようというのだ。本当にそんなことができるのかどうか、しかし、疑心暗鬼になっている余裕などなかった。私は、急いで集中治療室にいる医師に今回の件を伝えた。
 案の定、医師は笑って相手にしなかった。
 「実際に良太という子供に会って話してみてください。彼は、大人びた声で、自分は佐伯だと答えます。このままでは、良太くんは佐伯の魂を宿したまま、早死にしてしまう可能性があります。二人とも無事に助けるために劉王寺の和尚、川口慧眼が今、魂の交換を実施しようとしています。そのためには、二人を隣同士、並べないといけません。それをさせてください。佐伯さんだって、自分の魂を取り戻せば、意識を取り戻す可能性があります」
医師は、「少しだけ待ってくれ」と言い、佐伯の家族に相談をし、上部の医師に連絡を取った。意識を回復して以来、良太の様子がおかしいということはすでに上部に伝えられていたようで、しばらくの間をおいて、許可が出た。
 密教に頼るなど、病院で許可できるはずもなかったが、良太の言動の妖しさと、佐伯の意識不明の状態が続いていることを考えて、やらせてもいいのではないかという結論に達したようだ。
 良太のベッドを集中治療室の佐伯の眠るベッドの隣に置くと、慧眼和尚は印を結び静かに唱え始めた。
 慧眼和尚を残して、私たち全員が集中治療室を後にした。
慧眼和尚の奇跡の実例を多数見てきた私だからこそ信じられたが、医師も、佐伯の家族も、後から駆けつけてきた良太の家族も、誰一人としてそれを信じなかった。二十一世紀の現在、誰が信じよう。しかし、どのように時代が変わっても、不変のものがある。それが霊的な事柄と人智を超えた、科学では究明できない事柄の数々だ。
 2時間はすぐに経ち、3時間を過ぎても、慧眼和尚は姿を見せなかった。5時間が過ぎ、7時間を経る頃になると、医師がざわめき始めた。
 「やっぱり嘘だ。こんなことあり得るはずがない」
 医師の声を抑えたのは、良太の家族と佐伯の家族だった。
 「信じましょう。今は信じるしかないと思います」
 共通した家族の意見だった。
 8時間を経過した頃、突然、集中治療室のドアが開いた。疲労困憊し、吐く息も荒い慧眼和尚が、今にも倒れそうになって全員の前に現れた。
 「成功しました」
 慧眼和尚はそれだけ言うと、ぐったりとなり、床に伏した。
 
 集中治療室に飛び込んだ良太の家族は、恐る恐る、ベッドに横たわっている良太に尋ねた。
 「良太、お父さんだ。わかるか?」
 良太はしばらくポカンとした表情で父の顔をみていたが、
 「パパ、ぼく、怖かった……」
 と呟いた。その声を聴いて、良太の母と兄が良太の体に飛びついた。
医師は、意識不明の重体に陥っていた佐伯の状態を丁寧に調べた。しかし、佐伯の様子はまるで変っていなかった。生きているか死んでいるかわからない佐伯を見て、佐伯の夫人は再び声を上げて泣いた。
 状態が一変したのはその1時間後だった。良太のベッドを元の病室に移し、医師が再度、佐伯の状態を確認しようとしたところ、突然、佐伯がうめき声を上げた。
 医師が驚いて佐伯を確認すると、佐伯の目がうっすらと開いた。
 
 意識を取り戻した佐伯は、その後一カ月ほど入院治療を行った後、病院を退院した。幸い後遺症は残らず、仕事にも無事に復帰できたと言う。
 良太は、三週間ほどの入院して退院することができ、今は元気に学校に通っているという。ただ、二人とも、時々、おかしな言動をすることがあると伝え聞いた。
 佐伯は、必要以上に妻に甘えるようになり、良太は時々、大人びた振る舞いをして周囲を驚かせることがあった。しかし、それもしばらくの間だったようで、すぐに元に戻ったという。
 慧眼和尚はかなり体力を消耗したのだろう。あの後、劉王寺でしばらく伏せていた。だが、私が慧眼和尚を見舞おうと劉王寺を訪ねると、すでに慧眼和尚は体力を回復し、いずこともなく旅立った後だった。
 私は、騒ぎの最中、走り回ったおかげで、よくなりかけていた足首をさらに痛め、余分に十日、入院し、その後、退院した。
 今回の騒動を文章にまとめようと思ったが、原稿を書きかけて途中でやめた。一番大切な、二人の魂を目撃していない私には、状況程度の文章しか書けなかった。慧眼和尚にそこのところを取材しようと思っていたが、肝心の慧眼は捕まらず、結局、私は日記の中に留めておくことにした。うまく行けばベストセラーものになると考えていたが、どうやら世の中はそれほど甘くないようだ。しばらく赤貧状態を継続するしかなくなった。
〈了〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?