ぼくと史江の出会いと旅立ち

高瀬 甚太

 せっかくの満月も、ネオンきらめくこの街では何の意味もなさない。史江は情緒の薄い町中を急ぎ足で歩きながら健夫の待つ喫茶店に向かっていた。
 三歳年下の健夫と付き合うようになって数か月が経つ。
――知り合ったのはネオン街の雑踏の中だった。その日、朝から胃の調子が悪かった史江は、夜を迎えていよいよ痛みが増し、薬を買いに、店を出て夜半まで開いているドラッグストアに向かう途中、突然、襲ってきた激しい痛みに我慢できず、お腹を抱えてうずくまった。
 「大丈夫ですか?」
 ほとんどの人が史江にかまわず足早に通り過ぎて行く中で、一人だけ足を止めて、史江の容態を気遣ってくれた人がいた。それが岩下健夫であった。
 「大丈夫です」
 と答えたものの、再び襲ってきた痛みに耐えきれず、史江は「ウッ」と呻いて腹部を抑えた。
 健夫は携帯で救急車を呼び、場所を伝えると、うずくまる史江に、
 「もうすぐ救急車が来ますから我慢してくださいね」
 と言い、史江に付き添った。
 十分ほどして、慌ただしくサイレンを鳴らしながら救急車がやって来た。
 健夫は、事情を説明し、史江を救急車に乗せると、その場を離れようとした。その健夫を救急隊員が止めた。
 「すみません。一緒に付き添ってもらわないと困るのですが」
 健夫は通りすがりの者で、無関係な人間であることを伝えようとしたが、説明しようとする健夫を救急隊員はあわただしく車に乗せると、急発進した。
 史江は、急性の胃腸炎で疲労からくるものだと診断され、一週間ほど入院して様子をみることになった。
 医師に説明を受けた健夫は、成り行き上、史江に付き添うことになり、状態が落ち着くまで世話をすることになった。
 翌朝には史江の胃痛は改善されたが、疲れが出たのか、意識が朦朧として、会話もろくにできない状態だったため、健夫は史江のベッドからし離れることができなかった。
 昼過ぎになって、史江はようやく意識がはっきりし、胃痛の痛みからも脱したのか、元気な笑顔を見せた。
 「申し訳ありません。見ず知らずの方にこんなに世話になって……」
 健夫に世話になったことに史江は深く感謝をし、このお礼をしたいと申し出た。
 しかし、健夫はそれを断り、
 「連絡しなければならない人がいたら代わりに連絡をしてあげますよ」
 と話すと、史江は、とたんに暗い表情になり、
 「私、誰もいないんです」
と、ポツンと言った。
 その日、健夫は、転職先の面接が午後からあったため、史江の元を離れ、急いで病院を出た。
 一週間後に病院を退院した史江は、その日、マンションに戻ると、すぐに健夫の元へ電話をした。健夫はあれ以来、史江の入院する病院には来ていなかったが、連絡先だけは聞いていた。
 だが、電話は留守電になっていた。史江は留守番電話にお礼の伝言を入れた。
 「岡倉史江です。このたびは世話になり、本当にありがとうございました。無事、退院できましたので、ご連絡させていただきました」
 それだけを入れて、電話を切った。
 勤め先の店に電話を入れると、ママが出た。
 「いつまで入院しているんだい。うちは他の店と違って忙しいんだからね」
 と、史江の体を気遣う言葉もなく、荒っぽく言い、なおも喋ろうとするのを史江は押しとどめ、
 「ママ、大変お世話になりましたが、本日でお店をやめさせていただきたいと思います。どうも今までありがとうございました。ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません」
 と告げて、一方的に電話を切った。
 施設を飛び出た中学生の頃から、三十歳を迎える今日まで、史江はずっと水商売の世界で生きてきた。水商売といっても幅広い。高級なクラブもあれば場末のスナックもある、そのどれをも史江は経験し、流れてきた。今日、辞めた店は日本橋にあるクラブで、中年の客が多く、猥雑な店だった。金にまかせて女を蹂躙しようとするどうしようもない客たちと一緒にいると、史江のストレスは高まり、胃痛が絶えず続いていた。
 携帯が鳴った。ママからのものだった。
 「史江ちゃん、ごめんよ。言いすぎちゃって。辞めるなんて言わないでよ。うでまともな女の子はあんたぐらいなものなんだから」
 「すみません。ママ、体調が良くないし、そろそろ仕事換えしたいと思っていたところなんです」
 史江が断ると、ママは途端に口調を変えて、
 「ふん、あんたみたいな親なしの施設育ち、どこも雇ってくれへんわ」
と罵るように言って電話を切った。
 『親なしの施設育ち』
 ママの言葉が史江の胸をえぐった。史江は生まれてすぐにアパートに置き去りにされ、管理人によって発見され、施設に入れられた。母親がどんな人であるか、父親が何者なのか、何も知らされず、知らずに育ってきた。
 親がいないということは、天涯孤独であるということだ。親戚縁者もなく、施設の中でさえひとりぼっちでいた史江には、友だちと呼べるような存在でさえ、皆無だった。
 中学二年になったばかりの頃、施設へ研修でやって来た大学生の男子に悪戯をされそうになり、恐怖のために着の身着のままで施設を飛び出した。
金もなく頼る人もなく、行くあてさえなかった十三歳の少女は、年を偽って難波にあるキャバクラに務め、寮に入った。それが史江の出発点になった。
これまで何人もの男と付き合ってきた。男を渡り歩くことで女の値打ちが上がって行くと、最初に務めたキャバクラの古参の女に教えられたが、それはすぐに嘘だとわかった。
 史江が出会った男たちはみな下らなかった。渡り歩いているうちに、史江は男ばかりか人間に対する失望の度合いをどんどん深めて行った。

  ネオン街を早足で駆けながら、史江は健夫と初めて付き合うようになった日のことを思い出していた。
 「退院おめでとうございます。よかったですね。早くに退院できて」
健夫からそんな電話を受け取ったのは、退院した翌日の午前だった。
 「ありがとうございます。本当に感謝しています」
 「いえ、よかったです。体にお気をつけていつまでも健康でいてくださいね」
 健夫の思いやり深い言葉に史江の心臓がドキンとなった。生まれてこの方、史江はやさしい言葉などかけられたことがなかった。やさしい言葉の裏にはいつも何か裏があった。だが、健夫の言葉にはそんな裏など感じなかった。
 「お忙しいところ申し訳ないと思いますが、一度、お会いをしてお礼をしたいと思っています。できれば近いうちにお時間をいただけませんでしょうか」
 「お礼なんて本当に結構です。そんなつもりで――」
 「明日はいかがですか? 明日の夜、できれば午後五時。このままでは私の気持ちが収まりません。お食事でもご馳走させてください。大したことはできませんが……」
 「わかりました。では、お誘いに甘えたいと思います。お時間と場所はそちらの都合に合わせますのでよろしくお願いします」
 電話を切ると、心臓の鼓動が早鐘のように高鳴った。どうしたのだろうか。頬も熱く、赤みを帯びている。――その夜、史江は眠れない夜を過ごした。
 翌日、史江は新しい仕事先を探すために二社ほど面接試験を受け、その後、高島屋に立ち寄って、健夫にお礼をするためにネクタイと財布を買った。
 水商売から足を洗いたいと思っていたが、学校もろくに出ておらず、両親も保証人もいない身では、水商売以外の仕事は探しても得られなかった。仕方なく、史江はまた、水商売関係の仕事先を求めて面接を受けた。二社のうち、一社は積極的に史江の雇用を示唆したが、もう一社は検討して連絡しますと告げ、はっきりとした返事をしてくれなかった。
 企業として水商売を経営しているところは待遇がよかった。社会保険もあり、賞与も補償されていた。何よりも健全な経営内容が務めるものを安心させた。検討するとした一社はそうした企業経営する店だった。
 これまで史江は、結婚を考えたこともいくどかあったが、あと一歩と言うところで踏み出せずにいた。相手の男性を信じきることができなかったのだ。
 後妻の話も愛人の話もあった。だが、それについても同様に相手が信じられず、心から愛することができなかったことが原因で破綻した。
 高島屋のインフォメーションの前で待ち合わせをしていた。午後五時五分前に立った史江より健夫の方が先に待っていた。病院のベッドの上では学生のように見えた健夫だったが、街中で大勢の人の中で観ると、しっかりとした一人前の男に見えた。史江が挨拶をすると、健夫は頭を掻きながら照れ臭そうに笑い、深々と頭を下げた。
 スイスホテルの最上階にあるレストランへ史江は健夫を案内した。大阪を一望にする景色のいいレストランの窓際に席を取った史江は、コース料理とワインを注文し、健夫に尋ねた。
 「岩下さんはお酒の方、大丈夫ですか?」
 「ええ、一応、何でも呑みますが……」
 「どうされました?」
 史江が聞くと、健夫は笑って、
 「ぼくは、こういう場所はあまり得意としていません」
 と素直に答えた。
 それを聞いて史江も笑った。
 「いつもどんなところへ行ってらっしゃるのですか?」
 「場末の居酒屋か立ち飲み屋です。何しろ貧乏なもので」
あっけらかんと正直に言う健夫には裏表が見られなかった。
 「岩下さんは貧乏なのですか?」
 「はい、ぼくは昔から貧乏です」
 胸を張って答える健夫を見て、史江はまた笑った。
 「両親が交通事故で早くに亡くなりまして、以来、ずっと一人で生活して来ました。高校も夜間ですし、大学も夜間です。おかげで仕事は目いっぱい、いろんな仕事をしてきました」
 「苦労されたんですね……」
 「いえ、苦労というほどのものではありません。ぼくなんかよりもっと苦労している人をたくさん見てきましたから」
 健夫の明るさと素直さが、史江には不思議でならなかった。
 「お年はおいくつですか?」
 史江が恐る恐る尋ねると、健夫は、
 「二十七歳になりました」
 としっかりした声で答えた。
 「私の方がお姉さんですね。私は三十歳です」
 史江が年齢を言うと、健夫は少し暗い顔をした。
 「どうしたんですか?」
 史江が気になって尋ねると、健夫は、
 「三年前まで付き合っていた女性が、岡倉さんと同じ年でした。ぼくは、結婚をするつもりでいたのですが――」
 「どうして結婚しなかったのですか?」
 「向こうの両親に反対されました。両親がいないというのはマイナス要素だなって、その時、思いました」
 「女性はその時、どうしたのですか?」
 「できれば両親に認められて結婚したい、そう言って離れていきました。あの時はさすがに泣きました」
 「……」
 「岡倉さんは、先日、ぼくが誰か連絡する人はいませんか、と尋ねた時、誰もいない、と答えましたが、あれはどういう意味ですか?」
 史江は、少し躊躇した後、
 「私、捨て子なんです。生まれてすぐに施設に入れられて、嫌なことがあって中学生の時に施設を飛び出して、後はずっと一人で生活してきたわ」
 と言った。
 「……」
 「中学生の頃からずっと水商売一筋。今日も面接を受けてきたところなの。何か別の仕事をと思っているけれど、学歴も両親もない身では難しいわね」
 コース料理が次々とテーブルに並ぶ。健夫はスープと前菜を口にしながら史江に言った。
 「お嫁さんになればいいじゃないですか? 岡倉さんならきっと引く手あまたですよ」
 史江は苦笑した。
 「お嫁さんになりたいと思ったことが何度かあったけれど、本質的に男性が信じられなくて……。未だにずっと独身なの」
 コース料理を食べ終えて、温かなコーヒーを口にした史江は、自分が、生まれて初めて本音を口にしていたことに驚いた。
 レストランはほぼ満席状態だった。ほとんどの人がスーツにネクタイ姿の中で、健夫だけはジーンズにポロシャツ姿でそのスタイルはいかにも貧相に見えた。だが、服装がそうだとしても、健夫の表情は貧相には見えなかった。溌剌として元気があり、意欲に満ちていた。
 「岡倉さん、この店、高いでしょ?」
 健夫が心配そうに聞いた。
 「大丈夫よ。あなたにお世話になったお礼よ。心配しなくていいですよ」
 「……」
 健夫が突然、黙ったので、気になって史江が聞いた。。
 「どうしたの? お金なら大丈夫よ。そのぐらいの金は持っているから」
 「違うんです。今日、これからもう少し時間がありますか?」
 健夫の言葉に史江はドキンとした。健夫がよからぬところへ誘っているのではないかと思ったからだ。
 「もし、時間があれば、次の店、ぼくがご馳走しますから付き合ってください」
 何だ、そんなことか、と史江は肩を撫で下ろした。男が、食事の後、誘うのはラブホテルか、ホテルと相場が決まっている。史江はそれが嫌で、極力、男性の誘いを断って来た。
 「一軒、岡倉さんをお連れしたい店があります。心配しないでください。超安い店ですから」
 「それじゃ、甘えようかしら。私ももう少し、岩下さんと話したい気分なの」
 最上階のレストランを出て、エレベーターで下へ降りた健夫は、史江をかばうようにして雑踏を歩き、電車に乗せた。電車を一つ乗り継いで、駅を降りるとけばけばしいネオンに目を射られ、史江は思わず目を覆った。十八歳の年、場末のバーに勤めていて、ヤクザな男に騙され、散々貢がされた挙句放り出された日のことをふと思い出した。
 「岩下さん、やっぱり、私、帰るわ」
 と言いかけたところで、健夫が一軒の店ののれんをくぐった。
 「岡倉さん、どうぞ入ってください。ぼくの店です」
 健夫はそう言って、モジモジして入るのをためらっている史江の手を掴んで引っ張った。
 「いらっしゃい! たけちゃん、珍しいなあ。たけちゃんがべっぴんさんを連れてくるなんて」
 マスターが冷やかすと、それにつられて、他の客たちも一斉に健夫を冷やかした。酔っ払いたちの注目を浴びた史江は身の置き所がなく、少しでも早くこの場所を抜け出したいとそればかりを考えていた。
なぜ、岩下はこんな場末の店に私を連れて来たのか、安物の酒に酔って、管を巻く酔っ払いたちの視線には遠慮と言うものがなかった。
 「岡倉さん、ぼくはこの店に来るといつもホッとするんです。生身の人たちが、生身のまま、接してくれますから。ぼくの生まれがどうの、両親がいないからどうの、そんなことを言う人なんてここには一人もいません。だから安心して酒が呑めるし、安心してここに居ることができるのです」
 「あなたは男性ですからそれでいいでしょうけど、私はどうなるの。こんな場所に連れて来られて、酔っぱらいの男たちの好奇の目にさらされて…」
健夫は、立腹する史江に素直に謝った。
 「申し訳ありません。あなたを困らせるつもりでここへ連れて来たわけではありません。ぼくは、今日、あなたにお会いし、話をして、思いました。もっとあなたとお近づきになりたいと……。通じ合えるものがあるような気がしたのです。両親がいないとか、生まれがどうだとか、そんなこととは無関係に、一人の人間としてそう感じました。あなたの気持ちを考えなかったことはぼくの過ちです。ぼくは、ああいった場所ではなく、こうしたところであなたともっとフランクに話したかった」
 史江は、店内を見回した。煤けた天井、年季の入ったカウンター、酒を呑み、話を交わす人たち、でも、どの顔も笑っていた。なぜか、腹の底から笑っているように見える。
 「岩下さん、申し訳ありませんけど、今日はこのまま帰ります。また、連絡を差し上げます」
 健夫にそう告げると、史江は、足早にえびす亭を去った。
 「たけちゃん、こんな店に、あんなべっぴんさん連れて来たらあかんがな」
 「せっかくのべっぴんさん。逃してしまいよって、アホやなあ、たけちゃんは」
 えびす亭の客たちの声を聴きながら、健夫は、頭を掻き掻き、ビールグラスを空けた。
 ――ぼくは間違ったことをしたのだろうか、岡倉さんに失礼なことをしたのか、その悔恨が健夫を支配し、いつまでもそれは消えなかった。
 三日経った。ようやく健夫の転職先が決まり、この日が初出勤の日だった。大学を卒業して就職した会社で五年間過ごし、転職を考えた今月、思い切って会社を退職し、新しい会社の試験を受けた。その報告が届き、今日から出社となった。
 以前の仕事は、待遇も給料も決して悪くはなかったが、満足できない何かがあった。大手の企業独特の体質で、個人より企業を中心に考える体質に次第に嫌気を覚え、中小の企業への転職を考えた。従業員が二十人足らずの会社では、個人の力を頼りとするところが大だった。そこに健夫は着目し、仕事もそうだが、自分の資質も伸ばしたいと考えていた。
 自分の力でどれだけ会社を盛り上げることができるか、できなくてもそこに情熱を燃やすことは、健夫にとってお金や地位に代えられないほど楽しいことだった。
 えびす亭で別れて以来、健夫はずっと史江のことが気になっていた。自分は知らないうちに彼女を傷つけていたのだと思うと、電話をしようにもできなかった。
 一週間が過ぎた。新しい会社は全体を見通せるという点で健夫を満足させた。社長も社員も一丸となって、真黒になって仕事をしていた。健夫もまた精魂込めて仕事に打ち込んだ。汗を流して働いた後の酒がまたおいしい。毎日のようにえびす亭で酒を呑み、疲れを癒し、鋭気を養った。この日も、仕事を終えた健夫はえびす亭に向かった。
 駅から近かったが裏手の露地にあり、酔っ払いが踏み鳴らした足跡が鮮明に残る道にえびす亭があった。健夫はその道を歩くとき、さまざまなことを思った。一度に両親を失って途方に暮れた日のこと、頼りにしていた親戚に邪魔者扱いをされ、家を飛び出し、就職をして寮に住み、一年後に定時制高校を受験し、合格した。大学へ行こうと思い立ち、会社を退職して、新聞配達、牛乳配達、さまざまな職業を経験しながら卒業した。大学へはストレートで入学し、昼間働いて、夜学んだ。満足に食事ができなかったこともよくあった。病気になり、途方にくれたことが何度もあった。さまざまな経験が自分を強くしてくれたと、健夫は思っている。
 史江の話を聞いた時、健夫は、史江の中に自分をみた。自分でなければ理解してやれないものが史江の話の中にあった。そう確信して、しっかりとした目線で向き合いたかったからえびす亭ののれんをくぐったはずだった。だが、それは健夫の勝手な思いでしかなかった。史江を傷つけてしまった――。
 えびす亭ののれんが揺れていた。すでに客は満杯だ。健夫は急いで店に入りかけようとした時、視線を感じて背後を振り返った。
 史江が立っていた。
 健夫は驚いて、言葉もなく史江をみた。
 「この間はありがとう」
 史江は、健夫に近づくと笑顔で言った。
 「どうしてここに……」
 健夫の言葉に、史江が答えた。
 「あれからいろいろ考えました。私もあなたともう少し話してみたいし、付き合ってみたい、そんな気になって……。それにこの店で食べたおでんの味が忘れられない。おっちゃんたちの笑い顔もね」
 「じゃあ……」
 立ち尽くしている健夫の腕に自分の腕を巻き付けて、史江は言った。
 「さあ、入りましょう。そして見せつけてあげましょう。私たちがこんなにも仲がいいということを」
 呆然としている健夫の腕を引っ張り込むようにして、史江はえびす亭に足を踏み入れた。健夫と歩む新しい旅立ちのための第一歩だと、その時、史江は思った。
<了>


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