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心の次元の増加



中高生くらいの頃、大人には何か足りないと感じていた気がする。何というか、似てはいるけど、感性が一つ足りないのだ。子供にとっては大切な何かが。

子供は大人の真似をするのが基本だが、その中で、大人には理解されない・感知されない何かを生み出していく。自分たちに影響を及ぼそうとする大人たちの振る舞いを無力化するために。

それがいいことか悪いことか、とかは関係なく、ただそうしていく。自分たちにあんたたちの価値規範は通用しないのだ、そんなダサい人間にはならないのだ、ということを証明し続けるために。

それが可能となる基盤として、2つのことがあると思う。一つは現代の変化の速さ。日々を過ごすことで精いっぱいで、既に社会慣れして鈍くなっている大人では、なかなかそれに付いていくことはできない。そしてもう一つは、子供を学校という特殊な環境に20年近くも閉じ込めておくという、現代の特殊性。

アリエスが描き出したように、現在の意味での子供という概念は、とても近代的なものだ。それは近代において、西洋社会で開発された。それ以降、子供は学校において守られ、教育を受ける必要があるものとされてきた。

前近代的な社会においては、子供は通過儀礼を超えながら、現代よりもより早い段階で社会生活に入っていくように見える。社会生活における関係というのは、たとえそれが原始的な社会であっても、実際はかなり複雑なものだ。

ルイ・デュモンはその著作において、インドのカースト制が単純な封建的支配関係などではなく、異なるカースト間での複雑で精緻な相互依存を生み出すものであったことを論じている。

彼らの生活にとっては、どのカーストも不可欠なものであり、場面場面や、全体を概観した際の優劣はもちろん存在しただろうが、しかしそれは決してあるカーストがあるカーストの生殺与奪を一方的に握るようなものではなかった可能性がある。

翻って、学校というのは極めて人工的で特殊な空間である。子供たちは多くの時間をそこで過ごすが、彼らの生活はそこにほとんどまったく依存していない。彼らの学業成績が周囲から必ずしも影響を受けるわけではなく、ましてや彼らの生活の経済レベルが学校の状況にやって決まるわけではない。

そういった、密接でありながら相互依存性を大きく欠いた集団では、嫉妬や憎悪は先鋭化しやすく、肉体的・精神的の両方において、迫害が極めて凄惨なものとなりうる。対象に危害を加えても、相互依存性がない以上、自分へのダメージはしれているのだから、それは当然の傾向でもある。

しかも、それが大人にはわからないように行う。

空間的・時間的にも見えにくくするのはもちろんだが(それだけなら大人社会のいじめも同じだ)、それに加えて、心理的なレベルで新たな物差しのようなものを生み出し、その物差しの上で誰かを貶めていく。これだと、たとえ公衆の面前で行っても、その物差しが見えない人に気づかれることはない。

大人の狙いがどうであれ、子供たちが学校生活において感じ取っていくものの中で最も大きなことの一つが、こういった歯止めの利かない破滅的な人間の関係性である気がしてならない。

近年、社会はさらに高学歴になりつつある。その一つの帰結として、高学歴社会は教育機関でしか働けないような人材を多く産出し、そして彼らの日々の食い扶持を確保するために、より多くの子供たちを学校に送り込むようになる。少子化社会もあいまって、この自滅プロセスは急激に致命傷になりうる。

学校における子供たちの階級的な地位の差をスクールカーストというらしいが、かつてのインド人がそれを聞いたらプンスカ怒り出すのではないだろうか。現代人からすれば彼らは経済的には貧しかったかもしれないが、精神的にはよっぽどマシだったかもしれないというのは、一度考えてみてもいい話だ。

話がだいぶそれてしまった。30代後半に差し掛かってくると、学生たちをみても何を考えているのか感じ取れないことが多い。若いころはそんなことはなかったはずなのに。今度は、いったいどんな物差しが生み出されたのだろうか。

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