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読書記録|筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』
読了日:2023年3月11日
日本のポピュリズムは何をきっかけに、どのようにして進み今に至るかを紐解いていく。
大衆迎合の政治、マスメディア、戦前も今もやってることは同じ。
見出しで感情を揺さぶり、ドラマチックに掻き立て、国民が好きな物語に仕立て、涙を誘うやり方はもう”お家芸”と言ってもいい。
わかりやすいところで言うと、五・一五事件と安倍元首相暗殺事件だ。
殺された方、殺した方のどちらが悪いかという議論は置いといて、手をくだした者の生い立ちや境遇について、同情を誘うような書き方で大衆を煽る。結果、それが減刑運動へと誘う発端となる。
また獄中の犯罪者への差し入れや寄付、応援の手紙なども多く寄せられ、そうなればどちらが(法的な意味での)罪を犯したのかわからなくなる。場合によっては、まるで人を殺めることの正当性を謳うかのように讃えられたりもする。
こうなる状況の裏には(あからさまに報道されるのである意味表だが)、マスメディアの誘導、煽動が必ずある。
政治は政治で国民の人気取りが目的の政党ばかりになっている。
立場的に不利になると、政治的シンボル(例えば”天皇シンボル”がわかりやすい例)を利用し、ポピュリズムに走る。
近衛文麿(元首相)はマスメディアが作ったポピュリズムの産物、対する松岡洋右(当時の外相)は国民が求めたポピュリズムの産物。
人気を博した二人の人物の衝突が、日本を戦争へと走らせた要素の一つとも言われる。
このポピュリズムに乗せられた二人ともが、不幸にも最後には世間から見放され、不幸な末路を辿った。「日本」を道連れにして。
ポピュリズムvsポピュリズムは、ロクなものを生まない。
現代でも、大衆の人気取りばかり気にする政治とマスメディアのあり方は全く変わっておらず、この状態が蔓延してるのは国民の知的レベルに比例するものに思える。
日頃よく散見されるのが、報道の見出しだけを見て脊髄反射で反応し騒ぎ立てる人たちによる、二次災害的騒動。
且つ、新聞社も考えたもので、大衆が好きそうな見出しにし、ミスリードを誘うような書き方をしているものもある。
情報はただ流れてくるものを受け取るのではなく、自ら取りにいくもの、という認識がもっと必要なのではないだろうか?
情報過多な時代、国民が賢くならなければならない。
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