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みんな、苦しいんだ—『正欲』と『いちばんすきな花』を見て感じた叫び

小説・朝井リョウ『正欲』と、2023年秋クールドラマ『いちばんすきな花』の内容についての言及を含みます(映画『正欲』には触れません)(冨樫義博『レベルE』の作中作について触れるところも少しあります)。
ネタばれなどを嫌悪される方は御注意下さい。


私は、性別違和当事者だ。
一応乳房除去手術の前に性同一性障害と診断はもらったが、FtMという自覚はまだ明確にはもてていない(手術要件を残しており、戸籍変更まではしていないため)。
状態的にはまだトランス男性でもなんでもない。ただの胸のない男みたいな女だ。
しかし最近LGBTQ、特にトランスジェンダーをめぐるXやネットでの言説には疲れてきている。
曰く、トランスジェンダーは旧弊的なジェンダー観に囚われすぎている、トランスジェンダーは(移行後の性の)トイレに入るな、トランスジェンダーは(移行後の性の)スポーツ大会に出るな、トランスジェンダーは気のせいだ、移行した後で後悔するワカモノが増えている、などなど。
個人的に、これらのひとつひとつの指摘に関して言いたいことはあるが、今回はそれは横に置く。
個人的には、トランスフォビアは論理的なことより、感情的・生理的な嫌悪感が強いように感じる。だが、それが悪いことだとも思わない。
以前書いた記事で書いたように、世間一般ではトランスジェンダーを含む性的マイノリティについて、わかられてないことが多すぎると思っているのは事実なのだが、それとは別に少し気づいたことがあったので、それについて述べてみる。


正しい性欲ってなんだ?

朝井リョウ著『正欲』が映画化されるタイミングで文庫化されたのでそれを読んでみた。
数名の小児性愛者の逮捕の記事で物語は始まり、そこからさかのぼる形で数名の視点から物語は語られる。
学校になじめずYouTuberを始めた子どもを持つ親、モールで寝具を売る女性、推しに執拗な視線を投げかける女子大学生、ほんのつかのま時を過ごしたクラスメイト、本当に正常な人たち——はじめはバラバラだった登場人物たちの相関図が次第にできあがっていき、とある秘密でかれらは強く結び付けられることになる。
異常——少なくとも正常ではない——性欲をもつ人々がいるということは、自分も知っている。
というか自分も正常じゃないのだろうなとつねづね思っているので、この作品冒頭の叫びのような序文がぐさりと刺さった。

 私はずっと、この星に留学しているような感覚なんです。
 いるべきではない場所にいる。そういう心地です。
 生まれ持った自分らしさに対して堂々としていたいなんて、これっぽっちも思っていないんです。
 私は私がきちんと気持ち悪い。そして、そんな自分を決して覗き込まれることのないよう他者を拒みながらもそのせいでいつまでも自分のことについて考えざるを得ないこの人生が、余りにも虚しい。
 だから、おめでたい顔で「みんな違ってみんないい」なんて両手を広げられても、困るんです。
 自分という人間は、社会から、しっかり線を引かれるべきだと思っているので。
 ほっといてほしいんです。
 ほっといてもらえれば、勝手に生きるので。

朝井リョウ『正欲』新潮社

『幽☆遊☆白書』『HUNTER×HUNTER』などで有名な冨樫義博の代表作に『レベルE』がある。
地球に来訪した宇宙人をめぐるオムニバス形式のマンガなのだが、その中で作中作品之形になるが、「好きになった人に対して食欲を感じてしまう」宇宙人が出てくる。かれらは生まれ故郷をなくし、家族で地球へやってきたのだが、そのうちの子どもがクラスメイトに性欲を覚え、ついには食べてしまう。

「何で僕みたいな生き物がいるんだろう。最近 死ぬことばかり考えてる」

冨樫義博『レベルE』集英社

『正欲』を読んで、まずこの一文を思い出した。
『正欲』で登場するのは、水を見て性的興奮を覚える男女だ。
水に濡れた異性の身体を見て興奮するフェチズムを持っている人はそう多くはないかもしれないが、少なくはないと思う。いる。射精を思い起こさせて興奮する、という人もいるかもしれない。
だが、かれらはただ、人のまったく介在しない、ただ水があふれ、飛び散るさまを見て性欲を感じるのだという。
作中で、承認欲求ゆえにリクエストを受け付けるYouTuberの少年たちに一見そうは思えないようなリクエストを投げる投稿者たちがいる。
明らかに性的な意図を感じるものから、こんなのは別に気にもならないだろうと思われるようなリクエストのそれぞれに潜む、秘かな欲望の香り。
それをかぎつけられるのは、同じ「正常でないもの」だからなのだ。

LGBTとかって、最近よく言われるけど、多様性でいいよね。
みんな違ってみんないいでいいよね。
そんな暢気なことを言っていられるのは、自分をセーフ側だと思える正常な人たちだ。正常と異常の境界線上に立っている人たちはいつも怯えている。いつ、自分の立っている場所が、ラインの外側——アウト側——になるか。
LGBTQは「セーフ側にいれてもいいよね」という風潮がたしかに主流になってきた。
男が男を、女が女を好きなことぐらい「大したことじゃない」。
もっと「どうしようもない」存在だっているのだ。と、『正欲』は語る。

性的興奮について、正常と異常の間のラインをどこに引くかという問題はとても難しい。
各種宗教では未だに同性愛や堕胎どころか避妊すら禁じている国もあるし、社会情勢によってこれまで正常の範囲とされ、許されてきたことがいきなり異常に変えられることもある。
たわいないフェチズムから、ペドフィリア、ネクロフィリアなど明らかに実行すれば犯罪になってしまうものもあるし、また『正欲』で取り上げられたような「普通の人には到底理解できないであろう」性欲も存在する。
それの、どこからどこまでがセーフで、どこからがアウトなのか。
LGBTQに関しては「ある程度人権に配慮のある国」なら、許されるべきだという考えが主流になってきた。
それはこれまで多くの活動家たちが戦い、獲得してきた権利であり、それなしでは成り立たなかったもので、尊重されるべきことだと私は思う。それに対して、敬意を持たない人は日本ではそれほどいないだろう。
だが、声高に権利を叫ぶ人に対して、仄かな嫌悪感を抱く人がいることもまた事実だ。

Lとか、Tとか、そういうのじゃなくて

『いちばんすきな花』では、美女であるがゆえに異性や同性、そして親から綺麗な人形扱いされてきた女性、夜々よよが登場する。
夜々は母から人形のように扱われ、男の兄弟が遊んでいるような、本当に好きなことをさせてもらえず、学校ではトロフィーワイフのような扱いをされ、友人と御飯を食べにいっただけで、性的に見られ、同性からはやっかまれ、人と充分な関係を持てないでいた。
そんな夜々が数名の人と出会ううちに素晴らしい友情を育むことができたという話が微笑ましいメインストーリーなのだが、夜々が語る過去の中に、こんな話がある。
保健室に行った夜々は保健教諭に「女でいたくないです」と訴えたところ、教師は「夜々ちゃんは男の子になりたいの?」と言った。「そういうんじゃないんです」と返すと、「じゃあ、女の子が好きなの?」と返された、という。
教師側にはおそらくこういう子がきたら、こういう対応をしろというマニュアルやハウトゥがあってそういう対応になったのだと思うが、夜々は言う。
「Lとか、Tとか、そういうのじゃなくて」
自分が苦しんでいるのは、そんな「わかりやすい」ものではないのだ、と。

『正欲』がLGBTの外側の「完全アウトゾーン」にある人々の苦悩の話だとするなら、『いちばんすきな花』で語られた夜々は、それより「ギリギリセーフ側」の苦悩なのだと思う。
異性になりたいわけではない、同性が好きなわけではない。そんな「わかりやすく」はないけど、ちいさな針でたくさんつけられてしまった傷を背負った人たち。

おまえたちはわかりやすくていいよな

この二つの作品からはこんな声が聞こえるような気がした。
この言葉は、もしかしたらLGBTQフォビアに取られるかもしれないが、私はそうではない、と思う。
くるくるとまわる独楽の中心が正常な人々だとして、LGBTQといったカテゴライズに入った、もしくはレッテルをはってもらえた人々は独楽から飛び降りれた人々だ。
もちろん、飛び出すのに勇気はいるだろうし、着地には酷い痛みと傷が伴うだろうが、それにさえ耐えれば(それに耐えられない人がたくさんいることは承知の上で)、生きてはいける。
だが、独楽の端にいる人たちはどうなるだろう。
かれらはぐるぐるとまわる独楽の端につかまって、必死に耐えている。振り落とされないように、排除されないように、気を遣って、心を閉ざして、必死に耐えている人々。
そんな人は、実はたくさんいるのではないだろうか。
そんな人からすれば、いわゆる「性的少数者」に対して人々が見せ始めた「寛容さ」は「ずるい」のだ。
おれだって、わたしだって、苦しいのに生きている。
自分の本当の気持ちを吐露することもできずにいるのに。
おまえたちはさっさと白状して、権利をもらって、声高に叫ぶことさえできて。
ずるい。
そう言っているように聞こえるようになった。

日本は明らかに貧しくなっている。経済的・精神的余裕がなくなってきている。
だから他者へ与えられる寛容さが自分に与えられないとき、「ずるい」という感情があふれてきやすい状態になってしまっているのではないだろうか。
もちろん、昭和の過去に比べ、今は多様性には配慮されるようになってきた。それで生きやすくなった人たちは確実にいて、それは社会としての進歩なのだ。
が。
かれらにはやさしくすべきだ、それが正しい態度だ、と言われて、そうでない人々の中に戸惑っている気持ちがあるのを感じる。
「あの人たちは認められて優遇されるのに、わたしたちの叫びは聞いてもらえないの? つらさはわかってもらえないの?」
という声なき声が、まず文学の分野で、そしてドラマというエンタメの分野から、聞こえてきた。ように思える。

これはあくまで日本の現状の話で、世界中に敷衍できることではない。
LGBTQの存在を軽んじろといいたいわけでもない。
だが、そうでない人々も、その叫びも、また、存在するのだ。


最後まで読んでくださり、誠にありがとうございました。

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