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海と空は青

母校の創立150周年記念誌に寄稿した内容を修正しています。
東日本大震災で家が流され、小学校で暮らした思い出を書きました。少しでも10歳の自分が救われるといいなと思って書きました。
※校閲が入っているわけではないので、表記揺れや読みづらい箇所などあると思いますがご了承ください。

20代の私が、諸先輩方のように回想し教養深いことを書けるわけではないが、捲られる歴史のページに抜け満れがないように、私から見た宮古小学校について書こうと思う。
さて、宮古小学校の礎となる宮古村第二小学が開校した明治6年から今年で百五十周年であるが、この長い歴史の中で、校舎から教室へと登校した人間が何人いるだろうか。
2011年3月11日午後2時46分。
2001年生まれの私はちょうど10歳、宮古小学校4年1組の児童であった。
東日本大震災の発生とともに、向町の実家は全壊。仮設住宅に移るまでの4ヶ月以上を宮古小学校で暮らした。
最初の晩からしばらくは図書室で過ごしていた。天窓から滴る結露水を避けながら、本に囲まれて暮らしていた。
本の虫であった私からすれば、図書室で暮らすというひとつの夢が叶った出来事であったが、活字では覆いきれない不安や寂しさがそこにあったのもまた事実だ。


農災から一週間ほど過ぎたあたりで、学校が再開できないと分かると、安否確認のために学級集会が開かれた。担任の藤島洋介先生から、防塵マスクと林檎がふたつ手渡された。「クラス全員の無事な顔が見られて本当に良かった。支援物資でいただいた林檎だから全員2つずつ持って帰りなさい。」と言われた。右手にひとつ、左手にひとつ持った林檎の重さは、畢竟支援してくださった方々の優しさの重さなのだなと思った。
学級集会が終わった後は、同じ子供会の同級生である坂下くんたちと一緒に五年集会室から、自分たちの暮らす二年集会室まで下校した。同じ学校の敷地内の中だが、ピロティやロ植垣の近くなどで寄り道をしながら、「帰る前には林檎を1つ食べ終わったりした。放課後の楽しみをすぐ近くで生活する大人に悟られないように享受していた。その後は4月末の学校の再開に伴って、体育館へと移り住んだ。
避難所では同じ地区(子供会)の家族で集まり、集団で避難生活をおくる。向町や黒田町など地域ごとに寝起きする場所が決まっていて、体育館は小さな街となっていた。朝6時半に起きて、全員で掃除をして、朝食を取る。
コミュヌとしての機能を最大限に発揮しながら自治し、生活していた。


震災から四ヶ月以上が経過した7月24日。私はコミュヌでの最後の夜を迎えていた。長い避難所生活が終わりようやく自分たちの家が確保されるという安心感と同時に、友達と生活する長いお泊まり会が終わるような寂しさもあった。最後の夜の体育館の天井は、進級して五年生になった私の手を伸ばせば届きそうな気もするが、実際にはこれっぽっちも距離は縮まらず、失われた震災以前の日常への距離を教えるかのように、ずっとずっと高いものであった。

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