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【全文無料】時間と私の源へ~『時間は存在しない』概説【後編-完結】

いよいよ完結へん。

直前の第2部では、時間が空間と絡まり合い、この世界を出来事として立ち上がらせていく様を紹介した。

本記事で取り上げる第3部は、そうした時間の複雑な様相が、”わたしたち自身の問題”として帰ってくる。他パートとは異なり、著者はこのパートに、自身の時間に対する”想い”と”信念”をたっぷりと乗せて筆を滑らせているように思える。

第三部はもっとも難しく、それでいていちばん生き生きしており、わたしたち自身と深く関わっている。時間のない世界にはそれでも何かがあって、わたしたちの慣れ親しんだ時間──順序があって、未来が過去と異なり、なめらかに流れる時間──を生み出しているはずだ。わたしたちにとっての時間が、何らかの形でわたしたちのまわりに生まれているはずなのだ。

― 第三部 時間の源へ ―

時間の”起こり方”

第一部、第二部で紹介してきたように、時間がいまこのような形で感じられるという事実は、われわれがこの世界を見る解像度の粗さとエントロピー(=世界の乱雑さ)の増大と関わっている。

それでは、「過去から未来に向けて」「一律に」「連続的に進んでゆく」という時間の感覚は、どのようにして生まれてくるのだろうか。そしてまた、なぜ、エントロピーの増大という認知様式が、このまったく正しくない時間に対する理解と体験をまるごと生じさせるのか。

順を追って見ていこう。

マクロな状態によってこうして定められた時間を「熱時間」と呼ぶ。...ミクロな視点でいうと、熱時間に特別なところはなく、ほかの変数とまるで変わらない。ところがマクロな視点から見ると、...まったく同じレベルにある膨大な数の変数のうちで、わたしたちが通常「時間」と呼んでいる変数にもっともよく似た振る舞いをするのが、熱時間なのだ。なぜならこの変数とマクロな状態の関係は、まさにわたしたちが熱力学を通して知っている関係だから。

相対性理論と量子論が説明する時間の正体は、わたしたちが見ているようなマクロな世界に属するものではなくて、すべてがミクロな世界において起こり、記述される振る舞いであることは先の記事で述べた。

そこでまず、そうしたミクロの世界の時間そのものの性質とは関わりなく、われわれの感覚がかろうじて捉えられるマクロな世界で、”たまたま”連続してい流れていく時間っぽい変数を、時間と呼ぶ”ことにしている”に過ぎないというのだ。

人間の目に映るマクロな世界は本当はぼやけているが、そのぼやけ-不確実性を通してのみ、(不完全だが)人間が生きる上で都合よく認識がしやすい時間の像が部分的に得られる。

しかし、これだけではまだ完璧ではない。熱時間は、マクロな世界における熱力学的な事象をうまく説明できるのだが、ここにおいてはまだ「過去」と「未来」の区別が付いていない。

過去と未来。我々の生きる感覚世界の根本を支えるこの違いをしっかりと生じさせるために、再度第一部で触れたエントロピーに登場してもらうことになる。

過去から未来へ

エントロピーは低いところから高いところに流れる。その際、過去の低いエントロピーは熱(エネルギー)へと姿を変え、そこに「痕跡」を残す。その痕跡こそが、過去であり、記憶であるのだと、著者は言う。

過去の痕跡があるのに未来の痕跡が存在しないのは、ひとえに過去のエントロピーが低かったからだ。ほかに理由はない。...
熱が存在しない世界では、すべてがしなやかに弾み、なんの痕跡も残らない。

われわれが過去から未来への時間の方向を意識できるのは、過去には痕跡があり、未来にはないからである、と。紙が焼け焦げ、ガラスが割れるという「痕跡」によって、ひとは「過去」と「過去ではないもの」の存在を知るのだ。

時間から生じる「わたし」

こうして、時間の経験が生まれる。そしてまた、それとまったき同時に、時間の流れの中にある「自己」も生まれる。

前述のような物理系の振る舞いに従い、生命もまた、相互作用のネットワークの中で生まれ、動いている。そしてエントロピーが増大していく特殊な物理系の中では、その生命の「視点」が重要になる。

神経科学において、脳のニューロンも相互作用の膨大なネットワークを持っており、量子的時間と類比的に似た存在であるだけでなく、時間の奇妙な振る舞いを捉え、世界を形作る。個々人が特有の視点からぼやけを眺め、それによって時間や空間、情報の観念が生じていく。視点があることでマクロな世界が立ち上がり、たゆまぬ相互作用の中で、世界をまとまった像として統合していく。

脳が時間を時間と認めるとき、脳が時間の経過と相互に作用して、過去と現在と未来に橋を架けるさまざまな方法がある。

ロヴェッリは、われわれがモノをモノと認識するために用いる「概念」を、このたゆまぬ相互作用の過程における”不動点”と捉える。この世界があり、あらゆるものの「名指し」があり、痕跡が刻まれる。痕跡は過去を生み、痕跡によって世界は意味のネットワークに分節化され、いまの我々にとっての世界が立ち上がる。時間と自己だけでなく、世界もまた、同時的なことがらなのである。

前記事で紹介したヒュームは、「観念連合」という形で、経験が概念一般を形作っていく過程を捉えようとした。本論は、ヒュームが思い描いたこの姿に似ているが、一切の経験を超えたその奥底に、さらに不気味で神秘的な時間という存在が明滅している。

こうして見ると、時間が織りなすこの膨大なネットワークとその帰結は、初期仏教の「縁起」の概念にほど近い。

インドで仏教を開いた釈迦は、この世のあらゆる物事を縁起という無限の因縁(原因)からなるネットワークとして構想した。どのような個物や出来事も単独では存在せず、無限に連なる関係において存在している。机と呼ぶものを、そのすぐ横にある空気と根本的に分かつ道理はなく、机の実在性もあくまでわれわれがその粗い目で切り取っているからこそ成立する。釈迦は、こうして物事を分節させる「わたしたち」自身も、関係が生み出した虚構であることを見抜いた(無我)。

本書においてロヴェッリが示した世界観は、多く近現代の科学的発見に基づいたものである。人類の知的探求が見出した最先端のコンセプトは、こうして2500年前のインドと回路を開く。もしかすると、仏教こそが最も真なる真理の学として、200年後ぐらいに再評価されることになるかもしれない。

わたしたちは物語なのだ。両眼の後ろにある直径二〇センチメートルの入り組んだ部分に収められた物語であり、この世界の事物の混じり合い(と再度の混じり合い)によって残された痕跡が描いた線。エントロピーが増大する方向である未来に向けて出来事を予測するよう方向づけられた、この膨大で混沌とした宇宙のなかの少しばかり特殊な片隅に存在する線なのだ。
つまり時間は、本質的に記憶と予測でできた脳の持ち主であるわたしたちヒトの、この世界との相互作用の形であり、わたしたちのアイデンティティーの源なのだ。

モノ、記憶、わたし、そしてこの世界。これらすべては、かくして時間という大いなる網のなかに抱かれて、今この時をふくむいっさいの瞬間に、絶え間なく起こっているのである。

まとめ

さて、ここまで長々と雑文で紹介してきた本書。おそらく、科学的知識としての時間という観点では第一部が最も具体的で、それ以降はやや著者の立場や捉え方に基づいた抽象的な思弁に支えられている。ゆえに、本解説においても、たとえば今回の第三部は(自分の力量の無さも相まって・・)かなり抽象的で捉えがたい書き方になっていたかと思う。

また特に、第一部の終盤以降の時間の捉え方は、著者が研究し、強く支持するループ量子理論という仮説に基づいているゆえ、実際のところ時間がこういった構造で世界の中に現れているかどうか、まだ決定的に言えないことは依然として多いようである。

それでも、本書が持つ意義は、自分にはとても大きいと思われる。

現代の理論物理学者や神経科学者は、いつの時代にも増して哲学者であらねばならない。表層的で個別的具象の仕組みを探求する時代を終え、すでに世界そのもののシステム・成立条件と深く関わっているからだ。世界の成り立ちの物語を根源的なレベルで紡ぎ出し、その科学的な観察結果を取り出すことに留まらず、そこから人類と”人類の世界”にとっての意味と価値とを鮮やかに取り出す。ここに、著者一流の方法がある。世界を再発見するための「知」のあり方に、ロヴェッリは最先端の物理学者として先鞭を付けてゆく。

そしてまた、物理的観察と言語の限界スレスレの神秘的な時間探求の旅に、不慣れな読者も乗り遅れることのないよう気を配りつつ興味を掻き立て続けるその軽妙な筆致も、まさに神業と言ってよい。本記事シリーズではあまり引用しなかったが、とにかく詩的な表現は豊富であったし、実際に過去の詩篇からの引用文も多い。本記事と違って、本書内の豊富な図表も読者の理解を助けることにも一役買っている。

難しい箇所も多かったが、読んでいてとても楽しく、知的興奮に溢れた名著であった。今回の一連の記事で、本書が扱う「時間」の深遠さと尽きせぬ魅力の一端を、すこしでも引き出せていたら幸いである。

全15,000文字程度と、ものすごい書いてものすごい疲れたので、記事購入いただけると少し浮かばれますmm

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