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生と病の渾身の対話篇~『急に具合が悪くなる 』

衝撃的な読書体験だった。間違いなく今年のTOP5当確本だが、これをどう扱って良いか正直分からない。
出版に際しても、関係者にはあらゆる葛藤があったろう。

内容は、がん患者の哲学者と、その友人の文化人類学者による、病気やその周辺についてのエッセイ風往復書簡である。

良かった云々という言葉で評するにはあまりに重い、万人に訪れる、病とともに在る人生についての考察。それが、友人同士の対話の中に織り込まれ、時に軽やかに、時に厳かに、そして迷いを持って語られる。


書簡のはじめは、いつ来るともしれないぼんやりした未来に向けて、友達同士の会話を続ける2人だが、本書後半に至り唐突に片方に訪れる死の予兆に、戸惑い、苦しみ、しかしそこから全く逃げない。否、少しでも逃げていた自分たちの言葉尻を捉え、徹底的に分析し、再度その渦中にぐっと引き戻す。

哲学者の方の著者が専門にしている九鬼周造-『いきの構造』がスーパー有名な日本の哲学者-の偶発性/リスクについての哲学を引きながら、「病気にならない可能性もあった自分」の淵に忽然と立ち現れる「病気になった自分」を見つめ、その事象と自分との関係をどう調停するかを説く。リスクとは何か、選択肢とはなにか、いかにしてそれが提示され、いかにそれを”信じる”か。

医療の現場の社会的な構造も捉えながら、2人の対話は展開していく。


ハッとしたのは、「患者としての自分」の役割を、誰しもが無意識のうちに演じてしまうという著者の気付きだ。そして、本人の周囲もまた、「患者としての役割からの語り」を本人に無意識に求めてしまうことで、その人は患者という役割・立ち振る舞いに閉じ込められてしまい、"それはそれとして生を楽しむ"余白が無くなっていく、という指摘である。本当は、さまざまな役割や人格を背負って生きているはずの人間が、病を前にして”ラク”な「患者の役割」に簡単に閉じこもってしまう。

「病気が治ったら、ヨーロッパに旅行に行きたい。」そう語る隣のベッドの患者を見て、著者は憤慨する。なぜ今、実際にそうしないのかと。現実に存在する様々な制約とうまく付き合いながら、今そこでやれる事をやっていく。それは、重病患者であろうと、全くの健康体であろうと、一緒ではないかと。

そう言われると、(そもそも完全に健康な人なぞいないが、)健康体であったとしても、我々はいつも色んな現実的制約を受けながら、それらとやりたい事をうまく折り合わせて日々の暮らしを営んでいる。病人の制約だけが特殊ではなく、「できない事」の全体ははるかに大きい。

本書のゲラをレビューする事なく亡くなってしまった著者が死の瀬戸際で必死にかき集め紡ぎ出した「生」の思想と、それを必死に受け止め打ち返すもう1人の著者の双方による可能性のキワのキワで奇跡的なタイミングと関係性で結実した言葉の応酬は、人生の一回性とそのまま対応しているかのように、過去にも未来にも2度と書かれることのない類の書物だろう。そしてまた、死が常に未完であるように、死に向かいもがくこの思索、この対話、この書簡の全てが、永遠に閉じることなく未来に開かれた未完の文章として、後に残る我々に引き渡される。

死の床にありながらそれを俯瞰し、しかし決してシリアスになりすぎず、生に希望と信頼の位相を見出す、これは、人の生きる様を世界に克明に打ち込む、本当に活きた哲学の物語である。


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