今日の知的生産のために~『知的トレーニングの技術』

花村太郎 (ちくま学芸文庫)

至高の一言。一見すると凡百のビジネス書のようなタイトルで、しかも初版は40年前。最初は食指が伸びにくいが、いざページをめくりはじめてみると、骨太で重厚で、いわゆる知識産業にプロとして携わる人たちにとってもかなり読み応えのある一冊であることがわかる。

序文より

本書の素晴らしさを示すには、序文から2、3の言葉を引用すれば事足りる。

知的トレーニングの第二の原則は、 自分一身から出発しよう、等身大の知的スタイルをつくろう  ということだ。だれしもが同一の知的環境に育ち、同一の知的条件のなかで生きているわけではないのだから、理想状態を頭に描いて無理をしても、かならずみじめな失敗をするしかない。必要なのは、自分の問題関心や知的サイズにぴったりあった諸道具と知的ノウハウの体系を、保持することである。
~(中略)~
自分の現実の条件から出発して、すこしずつその現実を自分に有利なほうへと変えていくたたかい、そしてそのたたかいをとおして、自分の知的振幅をひとまわり、ふたまわり、とひろげていくこと──知的トレーニングの要諦はここにある。
知的トレーニングの第三の原則は、 知の全体を獲得すること、そのために自立した知の職人をめざす  ということだ。これは情報の大洪水のなかで、ぼくらが自分の主体性を見失わないための知的戦略である。どんなに素朴でプリミティヴなものであってもよいから、ぼくらは知の全体像・全体図をもつようこころがけることだ。
道具をつくること(発明) とそれを使いこなすこと(熟練)。ひとによってこのふたつのどちらかをより好むタイプがあると思うけれど、現代社会の歩みをみると、前者の道、つまり 技術革新(方法革新) によって、カンやコツにたよる熟練労働を不要にする方法がとられてきた。でもこの方法が知の分野でもおこなわれると、知的活力は退化してしまう。制度や組織やシステムにばかりたよって、個人の知の主体的力量をたかめるトレーニングがおこなわれなくなるからだ。この本は、したがって、ラディカル・テクノロジーのような現代の最先端の立場にたちながら、同時に、非常に古風と思われる古典的な知のスタイル( 手仕事) の再発見という方向に航路をとることになった。
~(中略)~
探求の過程で、ぼくらが意外な驚きをもって再発見したこと──それは、偉大な知、知的巨匠たちの方法の真髄はみな 手仕事 であり、からだをつかう肉体作業である、ということだった。

情報技術が進歩し、知のデジタル化が叫ばれるなか、手仕事の重要性を指摘する読み物はそう多くない。効率化への欲求が日増しに加速していく社会に踊らされず、歴史を顧みながら足場をしっかり固めていく。
それこそが、知的振る舞いの大前提だと著者は言う。

全体構成と中身の話

全体としては
・目標設定や学ぶ姿勢、学ぶための環境設計など、学ぶ前段としての基礎的な構えを扱った「準備編」
・調べ読み・考え・書く具体的な技術を扱った「実践編」
の2部構成で、最終的には知的生産(=新規性/重要性のある書き物の出力)に向かう道具立てが順を追って書かれている。

ことさら傑出しているのは、収集した資料を読み込んだり分析する技術のパートと、偉大な先人たちの思考法を紹介しながら、自身の思考を展開して文章の形に収束させていく技術のパートである。
例えば読書法。目的に応じて「試し読み」「速読術」「精読術」「再読術」「遅読術」の5段階をそれぞれ詳細に紹介しながら、知的生産のどのフェーズと対応していて、成果物に至る各工程の中でそれらをどうやって出したり引っ込めたりしながら運用していくべきかが語られる。

終盤に向かうにつれ、思考法の話が敷衍され、より壮大な形で現れてくる。社会における”知”の現在地に対して、様々な分野の学者の言説を大量に引きながら著者の思想を折り重ねていく人文知の泥沼みたいな文章が、本書の特殊性を一層引き立てる。

今日の知的生産のために

いま世の中に広まっている知的ノウハウ本の多く-「戦略思考」「問題解決」等のキーワードが紙面上を踊っている類のもの-は、科学における探求手法をビジネスの文脈に翻訳したものである。これらを本格的に大衆啓蒙に落とし込んだのは20世紀末の経営コンサルタント達であったが、いまや増えすぎて玉石混交となってしまったこの手の手法や書籍とは明確に趣を異にする本書は、それが刊行された40年前よりも尚一層、今日的な価値を帯びてきている。

自分が本書に見るのは、著者の一貫した「知への信頼」であり、自身の知的水準をドライに客観視することを勧めつつも、知性とその成長にこめられたまばゆいまでの希望だ。これは、厄災と混沌にまみれる現代社会が直面しがちな反知性主義/虚無主義への強烈なカウンターである。


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