見出し画像

愛はきっと、見つからない~フロム『愛するということ』

愛が渇望されている時代である。

「愛はお金で買えるか?」という問いは意外と息が長い問いで、未だに各所で議論がなされている。「買えた」という人がいて、「買うべきでない」という人がいる。「買えるべきだ」という人はあまりいないが、「買えなかった」という人もあまりいない。「なぜ買えないか」という問いに対して、納得がいく答えも実はあまりなされていない。

ときに、巷にはマッチングアプリが溢れ、出会いの機会を最大化させるべく、皆があらゆる場所に目を光らせているように見える。

恋愛の技術的側面を心理学からノウハウ化してみたり、恋愛工学と謳われるものが出てきたり、とかくそのテクニカルなあり方、効率化しうるモノとしての”愛”の方程式に、光があたっている。

”愛される自分”になるための”自分磨き”という風潮も、これまでにないほど盛んに取りざたされているように見える。まるでRPGさながらに、自分自身の様々な側面にステータスを付け、規格化し、技能として高めていくことが奨励されている。

Pairs上での”7いいね”が、少なくとも部分的には、現代における愛の形をもっとも端的にあらわすものになっている。

現実世界にデジタルが染み出していく過程で、このあまりに資本主義チックなトレンドに、おそらく歯止めは効かない。悪い面に劣らず、良い面もたくさんあるのだろう。量的拡大は、自由と競争の現代社会における至上命題なのだから。

他方、愛が成就し、うまく行っているかは、また別の問題のようだ。

婚姻数自体が逓減トレンドながら、数十年単位で見ると、婚姻数に対する離婚率の推移は右肩上がりに増加していっている。

画像1

画像2

こうしたマクロなデータを引っ張り出すまでもなく、毎日のように報道される芸能人の離婚報道は、世間の耳目を集め続けている。

資本主義の極地とでもいうような華々しい成功者の世界の中で、”人間的”ステータスを最大まで振り切った華々しいカップルがたくさん生まれ、彼ら彼女らはさぞや幸せなことだろう、とわれわれ一般人は思うのだけど、しかしこれが全然うまくいかないようだ。不倫しかり、性格の不一致しかり、原因は様々ではあるが、遠くきらめく世界を見上げながら、「こんなに成功してるのに、それ以上なにを求めるのだろう」と地上の人々は首をかしげる。

愛をめぐる状況は、こうしてつねに錯綜している。

『愛するということ』

本書『愛するということ』は、ドイツの哲学/社会学者エーリヒ・フロムにより1956年に出版された、世界的ベストセラーである。

本書の性格を一言で言い表すのは難しい。愛そのものについて、その自体的な性格をまじめに語ろうとする本は意外なほど少ないが、本書の中心的タスクはそれである。

”社会”的な営為の例にもれず、「愛」というものも、時代時代の社会構造や精神性によって強く基礎付けられているがゆえに、その心理学的な側面以上に、歴史や社会、文化的な分析によって明らかになる。本書は、そうした複雑な問題に対して正面から取り組み、その捉え難い本性をあぶり出す珠玉の一冊として、独特な存在感を放っているといえる。

フロムは言う。愛は、いつしか出会う運命の相手との間で電撃的に生まれるような類のものではないと。そうではなくて、愛は技術であり、自分自身がその人生の全体を表現する中で高めていく技能である、と。

愛が”対象”にこそ見いだされるという誤解が、ここで鋭い批判にさらされている。「良い相手とめぐり逢えさえすれば、自分はきっと深く愛することができる」という考えは、愛を相手という客体に還元してしまっており、愛を、数多ある相手に付随する、あたかも商品かなにかのように取り替え可能なものと考える誤謬をはらんでいる。

資本主義下の歪んだ愛

そもそも、人と人とが自由に恋愛をするという価値観自体が、比較的最近に成立したものだと著者はいう。結婚制度の歴史において、結婚相手を選べる”自由恋愛”というものはそもそも存在しなかったし、中世以降長きに渡って支配的だった一神教と密接に結びつく厳格な性道徳は、愛を生の自由な表現とは認めてこなかった。

「人生において真実の愛をこそ探し求めるべし」というご信託は、実はものすごく最近になって成立した考え方である。

そしてこの考え方の成立自体も、決してポジティブな理由からではないという。著者はその背後に、資本主義の成立の影を見出している。マルクスがいみじくも暴いたように、世界に浸透した資本主義は人間を”労働力”として固定化し、疎外するに至った。市場原理が育んだそうした”商品的人間観”は、あらゆるものごとを交換可能な価値として捉え、感情的な物事、そして愛すらも、自由競争の名のもとに効率的に征服可能なものとして捉える錯覚を生んでいると、著者は指摘する。

そして、マルクスの唯物史観が示す人間像は、フロイトの思想と相まって、動物としての人間の性的本能の結果としての、あくまで生理的現象でしかない「愛」へと突き抜けてしまったというのである。こうした物質的であり機械論的な愛の形が、個々人が生きる人間の実存の内側から厳しく問い直されることになろう。

相手に依存するような関係や、自分が相手を全て知っているという思い上がり、ナルシシズムに基づく支配的な関係、相手から愛される実感を求める態度、それらすべてがほんとうの愛と混同されているとして、フロムは切り捨てている。

中心的関係の愛

愛は、社会の中での孤独への鎮痛剤であると著者はいう。

原始的な社会ではそれを濃密な共同体体験のなかで解消し、現代社会では非日常的な祝祭と画一的な娯楽が、孤独を紛らわすツールになる。ただ、これらだけでは埋まらない人生の空隙を、正しい愛こそが埋められるというのが、本書の中心的なメッセージである。その意味で愛は、サルトル風にいえば現実存在としての人間の「実存」と深く結びついている。

人間の生がそこにしかないような中心的な存在として、個々人が活動し成長し、他人との共同作業を通して、それぞれの存在の中心において自他を真に経験するようなあり方。そうした過程を経てはじめて、他者との精神的な一体化が実現する。フロムによると、これこそが純粋な愛の形なのである。

ナルシシズムや相手への依存、近親相姦的な固着から離れ、他人の存在に対するビジョンや信念のもとで、相手の可能性を信じることこそがここでは求められている。「自分が与える愛は信頼に値するものである」という確信が、信による愛を起動させる。

では、この自分の愛への確信は、どのようにして確保できるのだろうか。

本書では、「兄弟愛」「母性愛」「異性愛」「自己愛」「神への愛」など様々な愛の対象の分析を通して、その成立と発展過程が語られるが、そうした確信への到達の仕方は提示されない。

思うに、そのほとんどにおいて、自身が他人からまっとうに愛された経験はとても大きいだろう。決して時間的に大きな部分を占めてはいなくとも、ただ一瞬間のうちにでも相手からの無私の愛を感じたり、人として信じられた経験は、無意識的にしろ記憶の中に深く刻まれ、その後の自分の他人への関わり方を決定的に変えていっている。その積み重ねが、自分への信頼を生む。同時に、他人から傷つけられた経験もまた、自身のうちに深く根を張り、他人との接触態度に否みがたい影響を与える。

ただ、すでに決定された、過ぎ去ってしまった過去にだけ方法があるのではない。だからこそフロムはそれを”技術”と言っている。なんにせよ、自らが与えることである。人の可能性を信じ、ほんの少しでも、ほんの一言だけでも、自身の全存在を掛けて他人に愛を投げ込むことでしか、車輪は回り始めない。フロムならきっとそう言うだろう。

信頼と愛の連鎖

冒頭の問いに戻る。果たして、愛はお金で買えるのだろうか?

本書を読めば、この問いへの見通しはかなり晴れてくる。

自分に装飾を施して、ステータスを上げていけばいくほど、実はそれは遠ざかっていく。そしてまた、愛を「自分ではないもの」として、買う対象として客体化すればするほど、もともと手中にあったはずの愛は、手のひらからこぼれ落ちてゆく。

”愛する”という能動性は、自分自身への信頼からしか生まれない。自分の存在ではなく、お金その他の外在化されるステータスに頼ろうとすればするほど、自分”ではないもの”と相手”ではないもの”が、前面に現れてしまう。これはやっかいなジレンマである。真実の愛を求めてさまようほどに、それは見えなくなっていく。つまるところ、愛の源泉は、自分自身のうちにのみあるのだ。ゆえに、愛をお金やテクニックで買おうとすることは、自分への信頼を自ら剥ぎ取っていくことに等しい。

人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識の中では愛することを恐れているのである。

かつて誰かが、まったき他人である自分に対してなんの見返りも求めずに勇気を持って愛を注いでくれたとき、自分は愛そのものよりも”勇気の持ち方”をこそ知っただろう。誰かの勇気は、自身のうちで、また他の誰かを愛するための勇気の源泉になる。そうして手渡される信頼と勇気のバトンは、さらに多く、周囲の誰かへと向かう。

抗いえない資本主義社会の圧力のなかで、人と人との無機質な価値交換の連鎖から抜け出すために、愛の伝播が必要とされている。こうして、愛は愛のために存在するのではなく、失われつつある個々人の生の全体へと関わることになる。

本書で明言されてはいないが、これは個々人の生の話にとどまらない。個人ではなく社会の全体が愛と勇気のネットワークで覆われたとき、形式的で誰かに”対する”ものとしての「自由」ではなく、真の自由が達成されるだろう。西洋社会が長く標榜してきた「自由」「平等」「友愛」は、「愛する」という一つの能動性のもとに総合されるのかもしれない。

本書では、「愛(Love)」そのものの本質は明確な形では語られない。その代わり、「愛する(Loving)」という行為の中に、人が生きるための足がかりが見いだされる。本書の原題が"THE ART OF LOVING"であることは、ここに帰する。

愛を見つけたいと願う人は、本書を読めばその中にまず、”勇気”を見出すだろう。生きることの全体を見つけたいと願う人は、本書の中に”与える愛”を見出すだろう。

もらったバトンを次に繋いでいくために、本書もまた必ず読み継がれなければならない一冊である。

頂いたサポートは、今後紹介する本の購入代金と、記事作成のやる気のガソリンとして使わせていただきます。