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モノとコト、哲学と物理学の相克~『時間は存在しない』概説【中編】

さて、前章までで、全3部のうちの第1部が終わった。

読みにくく言葉足らずな解説をここまで読んでくれた読者諸賢には感謝の念とともに頭が下がる思い(!?)だが、この時点ですでに、自分たちが知っていると思われた「時間」の概念は、中空に力なくただよう粉塵のように、こっぱみじんに砕けてしまっている。時間の神秘の一端に触れたわれわれは、これらの事実を前にして呆然と立ち尽くすしかない。

本記事で紹介する第2部では、崩壊してしまった時間が実際のところどのようにしてこの世界に織り込まれ、普段われわれが見知った日常風景を形作っているのか、というテーマを取り扱う。直感から遠く離れた驚天動地の時間旅行は、まだまだ続く。

― 第二部 時間の無い世界 ―

事物は、”起こる”

前記事までで、「時間が均一ではないこと」「過去と未来は区別ができないこと」「現在は存在しないこと」「時間は粒状であること」などを見てきた。そのような、不安定でミクロ的で、非規定的にすら見える「時間」は、この世界の成立に、現にどのように関わっているのだろう。

ここでもまた、現代の物理学が突き止めた、(字義上は)至ってシンプルな事実をお披露目したい。

「事物は、出来事である。」

およそわれわれがモノとして、ありありとそこにある”物体”として認識しているいかなるものも、瞬間瞬間に「起こる」出来事でしかないというのが、自然科学の粋を集めた最先端の知見のようなのだ。

この世界が「物」、つまり物質、実体、存在する何かによってできていると考えることは可能だ。あるいは、この世界が「出来事」、すなわち起きる事柄、一連の段階、出現する何かによって構成されていると考えることもできる。基礎物理学における時間の概念が崩壊したとして、この二つの考え方のうちの前者は砕け散るが、後者は変わらない。

時間の崩壊は、その帰結としてモノの崩壊をも生むと、著者はいう。これはどういうことだろう。

普段、われわれが「モノ」として捉えている対象は、なにかしら固定的で、固めで、実体があるものではないだろうか。少し定義を見てみよう。

【物】もの
1.空間のある部分を占め、人間の感覚でとらえることのできる形をもつ対象
【物体】ぶっ-たい
空間的な大きさ・形をもつときの物質
【物質】ぶっ-しつ
2.物理学で、物体を形づくり、任意に変化させることのできない性質をもつ存在。空間の一部を占め、有限の質量をもつもの。
-『デジタル大辞泉』

いずれもその定義に、「空間」というワードが入っている。われわれの感覚にとって見れば、物理空間上で任意の大きさがあり、その感覚が容易には変化しなければ、それはもう十分にモノといえる。

われわれ人間の感覚の遥か下層、超微細な世界においては、前記事で述べた通り、空間は伸縮自在な「場」としての性質を持つ。そして時間同様、空間もまた粒子的な振る舞いをする。アインシュタインと量子論の登場以降、物質は素粒子の集まりであり、場でもあった。

しかし、これだけではまだ、モノが空間内に一定の位置を占めるものであるという定義を覆すには弱いように思える。どれだけそのパーツが細かかろうが、空間上に存在していて集まっているのであれば、モノというには事足りよう。

ここで改めて、時間が登場する。これまた前記事の最後で書いたような、時間の粒子性が問題になる。時間が粒状であり、最小単位を持つブツ切りで飛び飛びな量であるとすると、モノが存在している空間も、その規定に縛られている。要は、空間上でのモノの位置の占め方も、瞬間ごとに飛び飛びであり、時間が最小単位の枠外において存在していない局面では、モノもまた存在することができない。こうした振る舞いであるとき、その物質は、その空間上のある位置を「占めている」と言うことができるかは、かなり怪しい。われわれが「モノ」というとき、じつは空間的な延長だけでなく、時間的「持続」が暗に前提とされているのだ。

ある瞬間には存在していて、次の瞬間には存在していない。毎度立ち上がり、また新たに立ち上がる。こうした挙動がモノの基本的性質であるとき、それはモノではなく「出来事」と言い表すしかない。

出来事の連鎖~哲学史的ネットワーク

目の前に明らかに存在している物体が出来事にすぎないという考えは、とても突飛なものに思える。しかしこういった捉え方は、実はかなり昔から存在した

上記の話をよりイメージしやすい形で補足できるのは、「経験(知覚)こそがこの世の原理を普遍であらしめる」と唱えたイギリス経験論の系譜であり、それを体系的に昇華させたカントであると考える。

アイルランドの哲学者バークリー(1685-1753)は、「存在するとは知覚されることである」と説き、経験(出来事)をあらゆるものの上位に置く一方で、経験される対象(物体など)の実在性に最も基本的な地位すら与えない

誰一人見ていない森の中で倒れた木は、音を発するだろうか。バークリーは、発しないと考えた。そしてその木は、そもそも存在していたとは認められない、と。

この考えを推し進め、経験論を完成させたイギリスの哲学者ヒューム(1711-1776)は、さらに「私」という実体すら否定し、絶え間なく起こり、変わりゆく知覚のみが実在すると表現した(「人間とは知覚の束である」)

しかしここまでの議論においては、経験という出来事に全てを帰す考えの原型は見て取れても、まだ時間と経験の関係についてはそこまで言及がなされていない。

こうした経験論的構想と、デカルトら理性と普遍的認識を信奉する大陸合理論を調停したカントが、「時間」という難事業に深々と切り込む。

この人が鋭かったのは、われわれ人間が何かを経験するとき、その当の経験や、それ以外の過去のすべての経験に還元しきれないような、経験に先立つ認識のルールを見て取った点だ。人は何かを経験するとき、時間が流れ、空間が存在することを、無条件に前提している。そしておそらく生まれながらにして、これらを前提している。時間と空間という概念を用いることなしには、人はなにひとつ想像することも経験することもできない。

その上で、カントは知覚と経験一般が成立する様々な”先経験的な”条件を明らかにしていく。ここで時間(と空間)は、人間がものごとを認識するメカニズムとして現れ、世界そのものの成立や運動とは一切の関係を断たれる。

とくに、カントがその哲学のうちに示した「経験の類推」という知性の形式が、本論と直接的に関わる。

例として、「そこに机があること」を経験する(知覚する)場面を考えてみる。わたしたちがそこにある机を見ているとき、目に飛び込んでくる視覚情報は、実際には微妙に角度の違う多くの机の画像である。これらは瞬間瞬間に、ちょっとずつズレている大量の机の連続写真として送られてくる。そして、横から見ても、下から見ても、上から見ても、通常わたしたちは同じひとつの「その机」を経験する。

なぜ、これが起きるのだろうか。下から見た机と、横から見た机を同じ一つのものとして結びつけるいかなる根拠も、われわれの手中には存しない。

カントの説によると、これは前述のような、人間に予め備わった知性と認識の形式が我々の経験を縛っていることによる。似たような視点からの視覚情報を、あくまで仮定として、あくまで虚構として、一つの机として結合し、「実体が持続する」と(ほぼ無意識のうちに)判断している。これは、数ある「経験の類推」のうちの1つと定められている。

一瞬一瞬にわれわれの目に飛び込んでくる机の画像そのものは、まだ一なる物体として定まらず、いまだ事物になりきれていない「出来事」である。この出来事の火花を、こうした先経験的な認識の形式によって結合し、一つのまとまった表象として処理することで、はじめてそれは「もの」になる。

これは、「モノは出来事」であるとされた過去の言説のなかで、もっとも現代物理学が示唆する時間と空間の様相を端的に言い得たものであろう。連続写真の「持続」が実体を生み出すのである。

カントが編み出した、経験にまつわるこの壮大な体系としての超越論的哲学は、2,500年に渡る西洋哲学史における金字塔である。

出来事と関係の網目から

さて、第2部も終盤である。

時間の量子的性格を鑑みると、

もっとも硬い石は、じつは量子場の複雑な振動であり、複数の力の一瞬の相互作用であり、崩れて再び砂に戻るまでのごく短い間に限って形と平衡を保つことができる過程であり、惑星上の元素同士の相互作用の歴史のごく短い一幕である

と言われる。われわれが知覚できるレベルで端的に実在する空間的な物体は、よりミクロなレベルにおいては生滅変化を続ける相互作用の網目でしかない。

この世界で起きるすべての事柄の完璧な地図、完全な幾何学を描くことは、わたしたちには不可能だ。なぜなら時間の経過を含むそれらの出来事は、常に相互作用によって、その相互作用に関わる物理系との関係においてのみ生じるものだから。この世界は、互いに関連し合う視点の集まりのようなもので、「外側から見た世界」について語ることは無意味なのだ。

カントに影響を与え、ニュートンの時空間論と対立したライプニッツ(1646-1716)は、「モナド」という個体概念を用いて、あらゆる事物間作用の関係のネットワークが調和する美しい世界を描いた。そこでは、各モナドの視点の違いが生む個々の事物のみずみずしい差異と多様性が息づき、それぞれが全世界を表象している。現代物理学が結果的に接近したこの理論には、時空間の議論においてニュートンに敗れ去ったと思われた200年の後、再度光が当てられている。

本文にもどると、ロヴェッリが続けて語るには、空間の量子は空間的な「近さ」で結び合わさり、互いに離散的に転換し合う。

これらのジャンプが生じることで 肌理 が現れ、その肌理が、より大きなスケールのわたしたちの目にはなめらかな時空構造のように見える。この理論は、小さなスケールでは確率的で離散的な揺らぐ「量子時空」を記述しており、そのレベルでは、狂騒的な量子の群れが現れたり消えたりしているにすぎない

生まれては消える出来事は、しかしわれわれの感覚器の解像度の低さにより、いまあるような滑らかな時空間として認識される。

これが、時間にまつわる真実なのだ。この物理世界の振る舞いの真理は、われわれの認識の網目を決定的な仕方ですり抜けている。


特に第2部の議論は、その多くが著者が支持するループ量子理論における時空間のモデル化を前提として、物理学者の間でも今もってどの理論が正しいか決着を見てはいない。それでもこの新しく、想像がとても難しい世界の像は、なにかとてもワクワクするものをわれわれに運んできてくれる。


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