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もう1つのアジア的戦後精神~『高い城の男』P・K・ディック

第二次大戦から15年、日本とドイツが勝利したのちの、もう1つの可能世界を描いた小説である。

戦後の荒廃が、ドイツ的全体主義とアジア的神秘主義(と武士道精神?)によって再構成された登場人物たちの世界の中心に、1冊のベストセラー本があった。

その本こそ、ドイツと日本が戦争に負けた、もうひとつの世界の可能性を示す、『イナゴ身重く横たわる』である。

政治小説、とも読めるだろうか。この、真実と虚構の二重入れ子構造を軸にして、どこか不気味で座りの悪い社会と、数多くの登場人物たちの穏やかならざる日々が、各々の視点から描写される。

各登場人物が重要な意思決定の基盤を中国の易経にもとめ、自身の人生に降りかかる困難を、易の目を読むことで受容しようとするという発想は面白い。著者のディック自身も、本書のシナリオの重要な分岐点をじっさいに易で決めたというエピソードもある。

作中で描かれるドイツの醜悪さに対して、日本はややポジティブに、崇高に描かれてはいる。社会にあまねく流布する贋作を横目に、主人公の1人フランクがオリジナルの造形でタオ(道)の精神に向かう局面に、唯一の希望が根ざす。

道教でいうタオは無為自然であって、水のような存在たるべしという思想である。そう見ると、作中の人物たちはどこか、易の結果に一喜一憂しつつも、それを受け入れ、漂うように生きているように感じる。自由や規範に”支配”される史実の世界とのこの点における描き分けに、著者はことさら力を注いだのかもしれない。

ただじっさいのところ、これらは主に中国思想の話であって、作中のように自分たち日本人に対して向けられた評価でもないし、日本人的な感覚で読んでもあまりピンとこないとも思う。いずれにしろ、その社会全体は、物質的な無価値が虚飾で上塗りされた淀んだ社会であって、日独側の世界にしろ英米側の世界にしろ、著者の眼差しは冷たい。ジュリアナと『イナゴ~』の著者の会話の場面においても、どちらの世界が真であるともついぞ明かされない。

***

ディストピアではないけれど、全員がどこか違和感を持ちながら暮らしている具合の悪い世界を鮮やかに描く、本書は、不思議な魅力を持った作品である。

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