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独学考:メモについて~文字メディア、遅さ、B8 01 00 C0 00

頭の中でぐるぐると考え(あぐね)ていたものが、眼のまえの机に紙を広げてササッとメモしてみると、案外と思考が進む。「とにかく紙に書いてみる」というのはあらゆる知的生産の骨法であるが、一方で、そんなうまい話があるか?とも思わなくもない。立ち止まって少し考えてみよう。

意識という現象はあくまで無延長で無限定なものだが、そのうちで意識内容は局限されたもの―それ自体、模像として意識に流れ込んできたもの―である。考えていることを紙に書くということは、意識内容を物理的な対象に有意味な記号列として写し取るということであって、すなわち文字という媒介物によって規格化を被ることになる。文字によって我々は、意識に伴う様々なノイズを除去して共約的なコードにあやかれるし、時空を超えたコミュニケーションを行える。その結果として、何百万人と束ねられて統治されることができる。言葉とは優れて政治的なメディアでもある。

この規格化の効果を軽く見てはいけないだろう。ベンヤミンは、メディア技術による複製可能性が作品のオーラを剥ぎ取り、その本来的な一回性に基づく神秘性が減衰すると論じた。文字もまたこうしたメディアであり、話し言葉としての思考は紙とペンという技術の登場によって決定的に変容を受けるに至る。ここでは文字とは免罪符であり、日曜のミサである。紙に書きつけることで、思考という一回限りの現象の「遠さ」「厳かさ」は世俗化され、その分だけ気兼ねなく複製/編集していくことができる。一階述語論理のように形式化/量化された観念対象の操作とそれによる世界了解はこういう条件のもとに初めて可能になってくるし、その分だけ捉えることの可能な射程は格段に広がることになる。

しかしそうして得た可能性の束は、等質的な論理的可能性に過ぎないとも言えるし、思考の内実が統計学的抽象物へと脱穀されているとも言える。こうした技術に晒されるがまま漂うと、行き着く先は計算とデータへの収斂であろうし、ヒトの知性はAI的知性の範囲に留まるだろう。

さいきん、思考する事柄の「身近さ」についてよく考える。ある観念を思考するとき、それが自分自身にとってどれほど身近なものであるか。本当にその事柄の意味内容を実感として持てているかどうか。そうでないとき、そこからの演繹は次なる観念を更に薄く形式的なものとしてしか思考できないのではないだろうか。

デカルトやスピノザに倣うなら、真の知識とは事物の対象的本質を十全な直観的把握として手中に収めることである。そして誤りのない探求の順序というものは、必ず十全な観念から出発するべきものである、と。形相的本質が、まさにその事物において凝集されたものとして明晰に理解されること。彼らほどラディカルにならずに言えば、そうした十全性・明晰判明性はある観念における自分に対する身近さや手触り感といったアナログな側面にこそ基礎を置いているし、それらの観念が表象している事柄における実際上の経験と実験に即して地歩を固めていき得べきものである。これを思考の「遅さ」ともパラフレーズできよう。

思想家であり都市計画家のポール・ヴィリリオは、テクノロジーとメディアが速度を産む特性と、律速としての政治という局面を描いたけれど、そもそもが思考に対する文字という媒体も、存在論的にそれらと同一であるようなおなじ速度としての政治的技術だろう。

我々は、早く、そして遠くまで来すぎてしまった。さながらブロックチェーンのように計算量と台帳の長さこそが真正性を基礎付けるものであるとされるなら、その時代の聖書―真理の集成―はマシン語で書かれた意味のわからないものになるだろう。

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