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ことばは水のように

このところ毎日、オリンピックを見ている。

世界中のひとが往来する大イベントをなんでこんな大変なときに無理やり開催するんだよ、という月並みな憤りは気づけば霧散していて、なんやかんや日々テレビのリモコンをチャカチャカ切り替えながら暮らしている。

個人的な注目は断然サッカーで、それはもう揺るぎない圧倒的第一位。

それでも、よくもまぁこれだけの種目のスポーツを揃えたもんだというぐらい色んなのがやっていて、普段見る機会がないものも多いから、意外とそれぞれ面白く、意外とそれぞれのメダルの行方を追っているのだ。


ふとしたときに、なんとなく「自分がもし五輪に出場するとして、一番やりたくない競技はなんだろうな」と考えた。


ほとんど直観的に、「水球だな」と思った。

理由ははっきりしている。水球は、とても”歯がゆそう”だからだ。

数尺先の水面を所在なく漂うボールをめがけ、我先にと近づいていくが、身体が重たい水に押されて思うように動けない。かき分けながら押し戻され、もがき続けるストレスの強さが、イメージの前面にすぐさま来ていた。

ボールゲームにおける「移動」のこのストレス、この抑圧。これはちょっと看過できない。


水泳は良い。水の中を泳ぐと、速いのだ。その速さを競う競泳は、けっこう楽しい。自分もむかし水泳教室に通っていたのだ、うん。対して水球では、ちゃんと泳ぐことはおそらく全移動中の1/3もなくて、基本的には立ち姿勢での移動が多いし、立ち姿勢のままでボールをパスしたりシュートしたりする。水の中にいるのに、速くない。

そしてもうひとつ、事態を難しくしている点がある。それは、陸地でやる似たような競技の存在。たとえばサッカーやハンドボールは、身体をなんの抵抗もなく自在に動かしながら、プレイヤーが個々人の身体機能の限界まで目一杯使いながらボールを追うことができる。これの体感を知っているゆえ、いやがおうにも陸地での身体の動きと水中での身体の動きを比べてしまう。すると、この水の重さ、移動の大変さが際立ってしまう。ゆえに水中での移動はつねに、理想的な動きの限定・抑制という形で現れることになる。(「地上の空気は人間の認識にとって無抵抗である」という全く自明ではない前提について、認識論や生物学的な発生論などを通した議論は様々あろうが、ここでは触れない。)


急いで先に行きたい。けど行けない。自分が思い描くようなスピードでは、動けない。

その体感が、水球という競技のほぼ全ての過程につきまとう。だから自分は、水球はやりたくない。


このストレスについて思いを巡らせていると、自分の中でその感覚ととてもよく似ていて、共鳴するようなイメージに突き当たった。

それは、「ことば」でなにかを表現することにつきまとうストレスだ。


何かを表現したいとおもうとき、自分の脳内にはそのテーマを中心とした無数のイメージが、火花を散らしながらぶつかりあい絡み合っている。

そのイメージを丁寧に固定して、脳内にある語彙の引き出しからそれに沿った適切な単語を慎重に取り出して、精緻に組み合わせる。そうして、書きたいことについてのよどみなく美しい表現のことばが眼前に現れる。伝えたかった気持ちが、最高度の完全性と明証性をもって伝えられる。

でも、この理想はいつも裏切られる。

言いたいことの多様で艶やかなイメージと比して、現に紙面に出てくる言葉は薄汚れていて貧相で、味気ない字句の羅列でしかない。表現は常に、貧困に苛まれる。「表現したいもの」に対して、「表現されたもの」は必ず後塵を拝し、思い通りではないものとして結実する。

なまじ日々いろいろな本を読み、優れた文章を数多く摂取していればこそ、それらが紡ぎ出す豊かな色彩を自分のうちにある程度蓄積しているし、”美しい言語化”という理想があたかも予め自分の手中にあるもののように、ごくごく身近に感じられる。それでも、いい言葉は全く見つからず、表現の夢は潰えていく。おそらくは、「内在的イメージとその外化としての表現(ことば)」という捉え方自体がそもそも欠陥を孕んでいるだろうが、そうした状況理解もあまりこの心境の支えにはならない。

高邁な理想を抱え、去来するイメージを捉える言葉を探し続け、それでも全然出てこないこの”歯がゆさ”は、自分にとっては表現に常に付帯しているストレスなのであって、それは水球の移動のイメージとぴったり一致する。両方とも、「動きたいように動けない」ことによって一切が規定される行為である。



「流れるような文章」ということばがある。

あたかも、うららかな春の日差しを受けながら過ぎゆく小川のせせらぎのような。軽妙でいて流麗な移動。


一方で自分にとっては、ことばは自然と流れていくようなものじゃなくて、むしろ自分の周囲を取り囲み、隙を見せればすぐにこちら側を押し込んでくるようなものだ。ことばは、水のように重い。

仄暗い深海をひとり漂いながら、全方位から圧力を受けつつなお少しの流体を掻き分けて、わずかばかり前へと進んでいくような。鈍重で、つねに妨げられる移動。


そうやってことばを、文章を”掻く”ことは、それでも不思議と嫌いではない。幸運にも、それは自分にとって、水球ほど「やってみたくないこと」ではないのである。

それに、水球にしたって、外からでは伺い知れない面白さが沢山あるはずである。なんとなれば、スポーツの"面白さ"とは単に「"快"の多さと"苦"の少なさの合算値」ではない訳であって、事の次第はそれらの抑揚/機序/全体配置の方にこそ委ねられるからだ。そしてこれらは、実際にやってみなければわからない。

書くことの愉悦もまた、重いながらも、そうした方面からの助け舟によって救出されることになるのかもしれない。

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