見出し画像

こどもたちが生きにくい世の中にしないためにまわりのおとなたちができることとは


はじめに


 このところこどもたちの学習サポートをつづけていて、この流行り病の状況を抜けたあとの活動をどう方向づけしようかと模索中です。わたし自身そんなにいつまでもうごけるわけではありません。

いまだ思考をつづけて散漫ですが、頭のなかにある内容を記します。


つたない経験から

 みずからの経験をふりかえり考えます。過去のうち中学校時代は楽しかったし時間がゆったり流れ、小学校から中学のあいだは永遠につづくのではないかとさえ思いました。それだけ密度が濃かった。

さまざま新鮮な経験をしました。なかまと語らい部活では先輩たちと交流、ともだちを通じた洋楽などへの出会いなど。他愛ないですがほかに代えがたい影響を受けたと思います。

どの経験ひとつとってもいまのわたしの何らかの要素につながります。むしろ年を重ねるにつれて経験が関連をもち人格が形成されていくと感じます。

交流の輪はそうしたなかでつくられるのでしょうし、ヒトがヒトをよぶ運命的な糸の存在すら感じる出会いも1度や2度ではありません。

ヒトによってそれぞれの経験はさまざまあって当然ですし、とらえかたもちがう。それが多様なヒトを生む源泉のひとつでしょう。地球上にまったくおなじ道をあゆむヒトなどいません。むしろさまざまだからいいのだし興味深いと思います。


楽しいときといえるかどうか

 代償をもとめないこどものころのともだちの存在の貴重さはなにより。さらに好奇心でなんでもスポンジのように吸収して身につけて成長をとげられる。

こどもたちをサポートしてこう思います。はたしてこの時代のこどもたちの多くがおとなになりふりかえるとき、この多感で貴重な時期を楽しかった、この時代にもどってみたいと思えるだろうかと自問自答しています。

人それぞれですからむかしはこうだったという価値観でたがをはめるやり方はさけたいです。

おとなたちがこどもたちを生きづらくしているのではないかとしばしば思います。

そのもっとも大きな理由は、文明社会の問題の多くをわたしたちの世代が解決の道すじをつけられずにほとんど棚上げし、あとまわしにしているからです。もちろん放置しているわけではありませんが。てをこまねいてあらたにふえたものすらあります。この点は未来の世代の方へほんとうにすまないきもちです。

こどもたちがふりかえり、自分たちのこども時代は最悪だったという印象が残るのは避けられないかといまさらながら思います。


追い込んでしまってないか

 こどもたちをサポートしていてよく話をします。こちらが疑問に思ったときには、考えをなるべく言ってもらう。こちらで答えを準備せず、先入観をもたないでこちらが聞く態度をなるべくとるといいとわかりました。つまり問いつめないし、追いこまない。

話しやすい状況ならば、こどもなりにいろいろと言いますし、けっこう保護者の方々のようすを見ていて、親へのこころづかいをこどもたちなりに表そうとしています。

しかしそれが肉親である保護者の方へ伝わらずもどかしい。こどもたちは多くの語彙をまだあやつれません。さまざまな経験をとおして言葉の本質的な意味を理解しようやく使えるのはずっとあと。多感で繊細なきもちをうまく伝えられないでもやもやしている焦燥感に気づきました。

保護者の方に、お子さんはこう思っているようですよと伝えますと、そうでしたかと涙ぐまれる方がいらっしゃいました。

こどもたちには言葉で伝えにくかったら、「ありがとう。」のひとことといっしょに手紙にして伝えるでみては、とアドバイスしています。


昨今の状況下で

 こどもたちは多くを語りません。こころのなかに押しとどめてがまんしたり、歯をくいしばって耐えたりしているのかもしれません。おとなですら生まれてこのかたこんな経験をしてないですから、こどもたちにどう伝えるべきなのか迷う場面があります。

教室では事実や科学的な裏づけのある行動の指針だけをたんたんと伝えています。耳にタコができる話もあるでしょう。でもそれが本当に理解できて、実際に実践できてこそです。何度でも伝えなければならないでしょう。今後ほかの流行病やそのほかの状況に接しても、今回の経験がいきてくるはず。

こちらからはあえて余分なことは言いません。不安がっているならばこうするといいよと声をかけたり、先のことを考えようよとアドバイスしたりしています。

世のなかはこの経験から

 今回の経験の余波はこれからの世のなかが、これまでの50年、100年とは想像できないぐらいの変化をともないつつ訪れる予兆かもしれないとこどもたちに話しています。今までとはちがうんだ、チャンスもあるんだと前むきにとらえてほしいです。

とくに環境問題は学校でもくわしく学んでいる若い層が真剣にじぶんごととしてとらえているふしがあります。地球の今後に不安なきもちをもつこどもが多いようです。

この3年あまり、こどもたちがやりたくても多くの行事が変更になったり、延期になったりしてきました。貴重な経験の機会が失われています。しかし命には変えられません。

ようやく一部はかたちを変え、おおかたの理解のもとで行動への一歩にうごきはじめています。これだけ学んだうえでの行動。そんな時代背景がありなにを優先して伝えるべきなのか、わかい方々へバトンタッチしていくべきか模索しています。


将来の生き方へ

 おそらくこの世のなかの状況をみて自分の将来の生き方を、現実の社会をつうじて小さなひとみで見て聞いてけんめいに考えているはず。それはおとなでも答えを見つけるのが難しい。

どんな生き方をしたいか、何の職業につきたいか、さまざまこどもたちと話します。そのたびに返事は変わるでしょうし、ちがう自分が見つかるでしょう。

それでも時代のとてつもなくはやいうごきには若いヒトたちのほうが敏感ですし適応しやすいのはまちがいありません。それをおとなたちはあたたかい目で見守りたい。


おわりに

 いまはこう考えます。わたしの中学時代のおとなたちは、当時のこどもたちに時間を与えてくれたと。こどもたちが気づかないところで熾烈な仕事やたゆまない努力をしていただけたおかげでできた貴重な時間だということ。

それを惜しげもなくこどもたちに与えてくれました。こどもたちがよろこぶすがたはなにものにも代えがたいです。それを多くのおとなたちがしんどい思いをしながらも生きがいとしていたのでしょう。平和な社会のこどもたちの笑顔です。かけがえがありません。

おわりに

 これからおとなになるヒトたちとしてリスペクトしながら、羨望のきもちももちつつ接しようと思います。なぜなら未来はこどもたちが決めていく存在だから。

その場になって主体性をもってなんでも自分たちの責任で決めていかねばなりません。人だのみでは望む社会は築けないでしょう。

ちょっとだけ先に生まれたおとなとして、その橋わたしをするのがわたしの役目と思いながら今日も接しています。

ただし、いまもこれからもこどもたちが生きにくい世のなかにしてはなりません。


関連記事

広告


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?