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梅雨明けを前にしてさきほどふと思い出したこの時季ならではの風景


はじめに

 なにかをやっているときにまったく無関係(かと思う)なことがあたまによぎることがある。それまで浮かばなかった過去のある一瞬が浮かんでくる。さきほど食器を洗っているとそんなことが。ずいぶんむかしのかれこれ半世紀前の頃のこと。そのときの音も耳にのこる。

きょうはそんな話。

梅雨時に

 いつもちょうどこの時季には青空が恋しくなる。ことしはなおさらそう。例年以上に雨つづき。そのぶんいろいろと夏が来たらこうしようとかあれこれ考える。

とはいえそれは雨の降ることを想定していない。晴れて自由に活動できる前提で想定するのでひとたび天候がくずれるとそれらの計画はだいなしになりかねない。

たいていそんなもので計画どおりにいくことのほうがもしかしたらめずらしいかもしれない。意外と予想外のことが起こるほうがかえっておもしろいし、何でもすんなり予定どおりにすすむと味気ないのかもしれない。

七夕だけでなく

 たしか小学校に入ってまだそれほど経っていないころ。クラスの前のろうかにまだ小柄なわたしたちには見あげるほどの笹の枝が据えつけられた。

そこには色とりどりの色紙をさまざまな細工をほどこした七夕のかざりつけ。まだ夏とは名ばかりで梅雨空のつづくなか、ろうかや教室のまどは全開。当時の教室にはクーラーなどなかった。風のふきぬける教室で、ろうかにならぶ笹の葉がいっせいにさらさらこすれあう。

休み時間にろうかを通ると各教室のまえには色とりどりの七夕かざりを施した笹がずらりとならび壮観だった。さらさらひびくかすかな音とともにふとあたまに浮かんできた。

ほかにも

 当時のわたしの家ではこうした「かざりもの」は七夕かざりだけでなくクリスマスツリー、それにつづいて正月かざりをかざっていた。

こうした行事はいずれもこどもにはなぜかたのしいもの。どれも興味ぶかくていろいろ空想した。クリスマスツリーにとりつける細工物の品々の中身が毎年のように気になり、開けて中身をたしかめてみたかった。

音やかおりも

 さて、最初に浮かんだ七夕かざり。小学校の低学年のあいだはいつもこうしてろうかにならび家にもかざっていたと思う。図工の時間にこうしたかざりの品々をつくり枝先にむすびつけた。そのときつかったチューブいりの「のり」の香り。どういうわけかこれをかぐときもちが落ち着いた。このにおいから好きな図画工作を連想できるからか。

かおりだけでない。さきほど記したようにさらさらと葉の擦れ合うようす、涼やかな風、それらがむすびついてここちよい季節の思い出につながる。

おわりに

 どうして梅雨時に儚い晴れを期待する行事をやるのだろうと七夕が近づくといつも思っていた。今になってよくよく考えると旧暦の七夕ならば気候はちがうだろうし納得できる。織姫と彦星はおちついた気候のなか天の川を渡れる。かえって悲恋の状況設定としてめったにない「梅雨の晴れ間」のほうがよりそれを物語るのかもしれない。

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