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コミュニケーションにはいる手前で苦労するヒトへのおもいやりについて


はじめに

 世のなかにはさまざまなヒトがいる。なかにはだれとでもすぐにうちとけてあたかも長年の友人のようになれるかたがいる一方で、最初のきっかけがつかめずに、輪にはいるタイミングがみつけられずに苦労されるかたも。

なるべくわたしのほうから声をかけてみる。ぱあ~と表情がゆるむとうれしい。

きょうはそんな話。

さまざまなヒトたち

 初対面のヒトの多いある会合にでかける。「会合」の文字のしめすとおりここでは積極的なコミュニケーションがもとめられる。ここには仲介いただける役割のかたがいらっしゃる。参加をすすめていただけるありがたい方々。

こうしたかた(がた)は、たがいに面識のないヒトどうしをつなげる。面とむかいいきなり話しあいをすすめるのがむずかしいかたがたのあいだに立ち、おたがいを紹介して話をスムーズに進行させてまとめたり、今後のいい関係をつくるきっかけづくりになくてはならない存在。

最初の一歩

 ヒトビトとの出会いの機会は会合のみならず世間にはあまたとある。仲介者がいるとはかぎらない。そこへ足を踏みいれるのをむずかしいと感じるかたがすくなからずいる。たとえると集団の長なわとびにタイミングよくはいっていけないかんじ。タイミングや機会をつかめないでなかばあきらめ、まわりでひざをかかえてみつめるだけになっているのかも。

そんなかたがじつはまわりをみわたすと多いと感じる。のちに運よく交流させていただけると、とても繊細で多感な側面をもたれている。まわりに目がとどき、ものごとをしっかり把握されている。そんなよさをいくつももちあわせている。最初のとっかかりに苦労される機会が多いといわれる。うちとければなんでもないのに、とおっしゃる。

会合でなくても

 こうした機会は世のなかにさまざま。あたらしい出会いのチャンスは、「人間」という語に「間」の文字がはいるぐらいだから、数かぎりなくある。その一方で殻に閉じこもってしまうかたもいる。

学校や職場ではどうしても最低限のヒトとヒトとのコミュニケーションをもとめられがち。こうした生徒たちに接してきた。なにもいまにはじまったことではない。時代はかわりつつある。

学校ならばたとえば単位制高校など。集団授業よりも個別授業。ひとり+αでもある程度すごせる社会ではある。

人手不足もあいまってスーパーではセルフレジがふつうになり、ひとことも発しなくてももはや買い物できる。SNSなどをつうじていわば「ななめ」の交流やおつきあいもできる。

だが一見するとバーチャルのようでいて生身は傷つかないように見えて、じつは中傷などでこころに深傷を負うこともある。じつにむずかしい。

おわりに

 生身のヒトどうしがちかづきあうと、ことばを発せずともしぐさや表情ひとつでそののちの距離感をちぢめたり、ひろげたりしかねない。そこで外に出てヒトに接する際には、なるべくにこにこした表情でいるようにしている。というかしぜんとそうなった。

とかくこの世のなかは繊細なこころもちぬしほど生きづらいかもしれない。苦労されることが多そう。

さまざまな学生さんに接する機会がある。あっさり世間話をしてもらえる方がいる一方で、なかなか心をひらいてもらえない方も。昨今の状況やなにかで会える回数がすくないためかなとか、にこにこしていてもすでにわたしはなんらかの原因でいれてもらえない側になってしまっているのかなとか。

なかなか最初のかべをとりはらうのはむずかしいけれど、やりがいはある。


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