『牛丼屋にて』ヨシ呑み好きだった鬼六
父・鬼六の書いたエッセイの中に『牛丼屋にて』という作品があります。
1作品として収蔵された小品が
そのままエッセイ集のタイトルになっています。
官能系ではなくいわゆる人生の喜怒哀楽をつづった随筆群なので、
息子である私も当時、抵抗なく読むことができました。
抵抗なくというより、読んだあと、悔しいけれど、
この親父は本当に文章がうまいのだ、生粋の文筆家で、
ストーリーテラーなのだなと、
ある種の敗北感のような思いをもって本を閉じたものです。
このエッセイが書かれたのは1995年ころということなので、
バブル崩壊の真っただ中だったと思います。
父もそのころの時代の狂騒に巻き込まれ
(いやむしろ率先して没入した感があります)、
先物相場に手を染め、
ど素人であるのに将棋雑誌の出版事業に手を出し立ち行かず、
借金がどうにもならなくなって、
横浜桜木町に所有していた(我々家族も一緒に居住していた)豪邸を
手放すことになっていきます。
還暦を過ぎていったん公表した断筆宣言も撤回し、
再び食うために書かざるを得なくなりました。
プライベートにおいても前妻に完全に見放され(つまり私の実母ですが)、
私自身も独立し入社7年目ほどで最も忙しく、
時々かかってくる父の誘いも邪険にスルーしていた時期で、
相当に孤独であったのではないかと思います。
いわゆる団鬼六のどん底時代だった。
そんな中で、ほろ酔い加減でふと立ちよったのが
牛丼屋・吉野家だったのだなあ、
というのがいま改めてこのエッセイを読んで得た、当時の状況把握です。
――(引用)この庶民に愛されている牛丼屋で一人、飲む事を覚えてからこの店はなかなか捨て難い味わいのある事を知った。ここへ出入りする人々のむき出しにした生々しい食欲を見廻しながらチビリ、チビリと酒を飲む気分はこれこそ粋人の飲み方だと感じる事がある――
(今思えば吉野家の存在を最初に父に教えたのは、当時吉野家フリークであった私であったと思うのですが、それはともかく)
エッセイの前半は、牛丼屋に行き来する様々な人間との遭遇から、
そこに明滅する人々のひたむきさや純粋性、
あるいは独善を描写していきます。
ただ、おそらく、このあたりの登場人物は
ほぼ鬼六の「創造」であったかと私は思います。
幼い頃、父はよく身の回りで起こったいろいろな出来事を
私にぽろりぽろりと話して聞かせてくれたのですが、
あまりにもその顛末が面白く、腹を抱えて笑ったものです。
ただいっぽうどう考えても話ができすぎているので
「それ作ってるでしょ?」と聞きました。
「あほ、ホンマや」
と何回か押し問答をするのですが最後には
「そのほうがオモロイやろ」
と返されるのです。まあ、だから作家をやっていけるのだなあ、
と感心したのを覚えています。
また作品後半では、酒を飲みすぎて酩酊状態になった自分を認知しつつ、
思考がどんどん内省的になっていく父がいます。
当時他界してしまった交友のあった人々への思い。
特に親しかった将棋指しの方々との忘れえない記憶の数々。
そして不慮の事件に巻きこまれて亡くなった森安九段に思いは及びます。
作品の最後は、
――(引用)私は路地の石畳の上で浮浪者みたいに寝入りそうになった自分に驚き、起き上がろうとして転んだ。そして、転んでは起き上がろうとし、「しっかりしろ、転んだら起き上がるってのがダルマ流だろう」と、自分を叱咤した。そして転んだまま起き上がれなくなった森安さんが急に腹立たしく、煮え切らなく思えて、涙が止まらなかった――
と結んでいます。
盟友・森安さんの受け入れがたき死を
その時の自分自身の境遇のもどかしさに、
きっと照らし合わせていたのでしょう。
そう書いた父ももう10年も前に他界しました。
相場や事業などに手を出さず、夜の街での遊興も
ヨシ呑み(吉野家で飲むこと)くらいに抑えて、
文章だけをきちんと書いていたら、
この人は本当に財を成していたのだと思うのですが、
まさに宵越しの金は持たぬ、の典型だった。
我々親族も相当振り回されましたし、
死んでもほぼ借金しか残っていませんでしたが、
でもなんというか、父が生きている時代はオモロかったなあ。
ちなみに私の記憶が正しければ
このエッセイは当時の大学模擬試験問題の引用文に使用されたはずです。
団鬼六の作品が模擬試験の設問に、、、!
「えらいやろ!」
父の屈託のない自慢げな顔が思い出されます。
煌々と光るオレンジ色の吉野家の看板の下でたった一人、
父の心に何が去来していたのかをいま思う時、
やはり胸が詰まるところはあります。
一つだけ伝えたいことがあるとすれば、
父よ、あなたはそのあと立派に起き上がり、生き抜いてくれました。
ということです。
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