『首』から漫才

究極の映画とは、10枚の写真だけで構成される映画である。

これは映画監督・北野武氏の言である。
省けるところは極力省き、エッセンスのみを見せるのが粋、ということか。
この志向は多くの北野映画に認められるし、北野映画のスタイルの一つとして確立されている。

奇しくも『首』(北野武、カドカワ)の構成は「プロローグ+10章+エピローグ」となっており、本作において、正にそれを試みたと考える。
内容は「本能寺の変」前後の歴史小説。帯には「これが、「俺」の本能寺。」とある。
「本能寺の変」の全貌は、私の中では「竜馬暗殺」の黒幕、「邪馬台国」の在処と並ぶ、酒肴三大日本史ネタである。悪く言えば、擦りに擦られたネタである。

上記を踏まえ、今回、彼(北野武氏)は①初の歴史小説執筆、②定番ネタ(本能寺の変)への「俺流」アプローチ、③文章における「省略美」の追求、と三つの挑戦を試みたと思える。
以下、これら三つの挑戦について、恐れながら私なりの結果考察を述べる。

①初の歴史小説執筆
朴訥とした文体によるユーモアとペーソスが織り成す自伝的小説『フランス座』(ビートたけし、文藝春秋)は、太田光氏、劇団ひとり氏、又吉直樹氏といった手練れ芸人による小説に引けを取らないで作品であった。
しかし、本作においては粗が目立つ。
具体的には、不明瞭な情景描写はまだしも、句読点の打ち方、修飾語と被修飾語との位置関係など基本的文章ルールへの対応の甘さが散見される。総括するなら「歴史小説的文体への未適応」ということになろう。

②定番ネタ(本能寺の変)への「俺流」アプローチ
曽呂利新左衛門(上方落語の祖)を狂言回しとし、彼の芸人としての意趣が発揮される。しかし、この定番ネタに触れる以上、明智光秀の動機、その背景や黒幕に独自性が求められるが、この点において読者の期待を満たしていない。
一方、備中高松城主・清水宗治の船上切腹のシーンではお得意のブラックユーモアが発揮される。
映像化すれば映画監督・北野武が脳裡に浮かべる情景と意図が明確に伝わるはずだが、小説家・北野武の文章にはうまく落とし込まれていない。ブラックな苦みが強く残り、ユーモアによる調和が不十分である。「映像の文章化」は「文章の映像化」と同様、困難な作業なのだろう。

③文章における「省略美」の追求
攻めた結果、繋がらない。
東京五輪の男子400mリレーでDNF(Did Not Finish、途中棄権)に終わった日本チームを思い出す。場面場面(映画で言うところのカットやシーン)の筆力(例えるなら個人走力)が不十分で、「省略の美」(史上初の金メダル)の追求のために、切り替えシーンの繋ぎ描写(バトンパス時の重複距離)を挑戦的に省いた結果、ストーリーの流れが悪く、読者の思考がぶつ切りになってしまった(バトンが繋がらない)。
結論として、「省略美」の手法において、彼は映画としてはモノにしたが、歴史小説としては未達に終わっている。
これが今回の「省略美」への挑戦結果であろう。

しかるに、もう一歩踏み込んで、彼がなぜ「省略の美」にこだわるのかを独断したい。
彼が愛した映画作品、彼自身が撮った映画作品の影響もあるのだろうが、私は彼の偉大なキャリアの出発点である「漫才」にその答えを求めたい。
島田紳助氏によると、漫才のセオリーとして「極限まで無駄な言葉(「てにをは」に至るまで)を省く」というものがある。
思えばビートきよし氏の「よしなさい」はもっと評価されてもいいツッコミ台詞であった。
この5文字は、そんなことを言うのはよしなさい、そんなことをやるのはよしなさい、そんなことを考えるのはよしなさい、を略し、さらに、なぜその行動をやめるべきなのか(子供がマネするからよしなさい、対象/世間に失礼だからよしなさい等)の理由説明をも省略できるのだ。
加えて、きよし氏のツッコミで笑いをとる構成ではないツービートの漫才においては、きよし氏の台詞を極限まで削る手法がセオリーとなる。
ゆえに「よしなさい」の5文字は無駄を削ぎ落された優れたツッコミである。

また、副産物もある。
大阪弁の「やめとけや」、「やめろや」(例.ほぼすべての大阪漫才師)、「やめろよ」(爆笑問題・田中氏、くりぃむしちゅー・上田氏、ハマカーン・浜谷氏、磁石・佐々木氏、これもやはりキリがない)、「やめ~」(千鳥・ノブ氏が時々使用)に比べて、漫才に若干の品をもたらす。
これにより、たけし氏の毒を上手く和らげ、「母のたしなめをものともしない悪ガキの毒舌」という微笑ましさがツービートの漫才の隠し味になっている。

結論に戻ろう。
上記三つの視点から、本作においては、現代映画での成功後、やはり初の時代物に取り組んだ「これが、「俺」の座頭市。」としての『座頭市』程には、彼の挑戦は成功したとは言い難い。
しかし、「本作においては」を強調し、次回作を待ちたい。
齢七十をとっくに過ぎたビートたけし、あるいは北野武の今なお続く挑戦を応援しながら。

(以下、蛇足追記)
1.俺流アプローチ
成功例としてスタンリー・キューブリックの『フルメタル・ジャケット』(Full Metal Jacket)を挙げたい。ベトナム戦争を扱った映画は数多あるが、テンポよい二本立て構成の双方のラストがキレと余韻を併せ持つ。「これが、「俺」のベトナム。」といった趣。

2.笑いはボケ後かツッコミ後か
昨今の漫才はボケ直後の笑いが少なく、ツッコミによって笑いを生む漫才(ボケ後の笑い<ツッコミ後の笑い)がほとんど。
これはボケの複雑化/進化により、「一瞬、客にボケの意味を考える間を要し、その間隙を縫う説明ツッコミによって笑いが増加する」という流れを汲む。また、前者と後者のバランスはコンビ毎に異なる(3:7、4:6、5:5、6:4,7:3等)。最近では漫才ブーム時の主流であったツッコミに頼らない漫才(8以上:2未満、例.ツービート、紳助竜介、B&B)を探す方が困難。
※「ボケ後の笑い:ツッコミ後の笑い=8:2」レベルの稀なコンビ例として3組挙げます。

-爆笑問題
大田氏の台詞内にフリを含み、昨今のボケ台詞としては比較的長いため、その間に客が笑える。(例.あと、これからはもっと大変ですよ。このままずっと○○になったら、もうあれですよ、××になっちゃいますから。)

-ランジャタイ
国崎氏のナンセンス系ボケを天丼(同じボケを繰り返す手法)するので、ボケが客に非常にわかりやすく、ボケ直後(ツッコミ前)に笑いが起きる。
※千鳥も天丼を好むが、ノブ氏のツッコミ(ワードセンス、イントネーション、体言止め風)が特長なので、ツッコミ後の笑いもかなり大きい

-矢野・兵動
矢野氏の台詞(ツッコミというより、合いの手)で笑いがほとんど増さない昨今稀有な漫才ブームスタイル。実は兵動氏はボケるのではなく、「第三者(おもろいオッサン等)に関する一人漫談」を展開することが多い(ツービートにも似ている)のが特徴である。ゆえに、漫談進行を邪魔しない矢野氏のツッコミ(合いの手、例.えらいこっちゃで)が理に適っている。

3.ツッコミの最新トレンド
十~二十年前に全盛を極めたのが「例えツッコミ」や「上手いこと言うツッコミ」である(例.フットボールアワー・後藤氏、南海キャンディーズ・山里氏、サンドイッチマン・伊達氏ら。最近では霜降り明星・粗品氏)。
しかし、ここ数年、1ボケに対して浅いツッコミ(わかりやすいツッコミ)と深いツッコミ(客が「あ、なるほど、そういえばそうだ」/「あ、ホンマや。それもおかしいわ」と唸るツッコミ)の2つのツッコミが入る漫才が増えている。
これはボケが「阿呆のボケ」ではなく「ツッコミのためのフリ」という位置に変化しており、ツッコミ重視のコンビにとっては「1つのフリで2回の笑いを得られる効率的なシステム」になっている。多用するコンビとして銀シャリ、カミナリ、ミキ、オズワルド等がいる。
また、深いツッコミ特化型としてキュウが挙げられる。

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