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生命

昔、ジャンガリアンを飼っていた。

確か小2?3?の誕生日に買った。ハムスター自体は1000円くらいで売られていた気がする。ゲージやワラなど、出費はたかだかしれたものだ。

以前の記事でも書いたが、志望校の高校に合格したのに結局「犬を飼う」という公約を果たさなかったしょうもない母親にとって、動物にはお金をかける価値がない、ということだったのだろう。5000円もするゲームを買うより値が張らないし、「動物を飼わせた」というファクトを子どもに残しておきたかったに違いなかった。


その小さな生命に、できる限り愛情をかけた。

たしかに、めんどくさかった。小さいペットなので犬や猫に比べればたかがしれてるが、糞の始末や藁の交換、餌の供給や水の取り替えなど。


ひまわりの種をうまそうに食っていた。当初はスマートだった彼も、みるみる体が大きくなっていった。だが、そんなことはどうでもよかった。病気になるくらいなら話は違うが、ハムスターの寿命は数年だ。小学を卒業するまでに、確実に生命が尽きるのである。そんなことはわかっていた。

犬や猫と違い散歩をさせられないので、たまにゲージから出して、家の中に放った。ストレスを発散させたかったのだろう。


聞いていた通り、3年はもたなかった。だが、平均寿命よりは長生きしてくれた記憶がある。

ある時から、確実に運動量が減った。そしてある日、ゲージの中でまるで置物のように、固まっていた彼を目にした。心配になり、名前を呼んだ。すると、ハッとしたような反応を見せ、こっちを見た。

それから1週間もしなかったかな、朝起きてゲージを見ると、小さくなって固まった彼がいた。記憶が正しければ、当時10歳くらいのおれはその光景を見て一瞬で悟った。あ、天国に逝ったんだな、と。

悲しかったが、もう息を吹き返さないので、その日のうちに庭に埋めた。大好きな相手でも、死の瞬間に必ずしも立ち会えないんだな、と思わされた。なんだか、とても悔しかった。


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それから7、8年経った頃だろうか。当時高校を卒業したくらい?の時期に、祖父母から連絡を受けた。祖父母の家で飼っていた柴犬が、息を引き取った。


彼もまた、大好きで大事な、友人だった。小学に入る前から、物心つく前から、遊んでいた気がする。

相当なばあちゃん子で、月寒に住む祖父母の家には幼稚園の頃からかなりの頻度で遊びに行っていた。

当時まだ3歳だかの柴犬は、等身大の友人だった。数え切れないくらい散歩に連れて行ったし、今となっては北洋銀行のどデカイ研修センター?的な建物が建った広大な敷地も、昔は一面何もないTHE土地だった。そこでリードを離し、フリスビーやボールを投げたりして、体力が尽きるまで2人で遊んだ。昨日のことのように覚えている。

祖父母にはおれを含め孫が4人いるが、昔も今も変わらず、明らかにおれが一番贔屓されている。そして、その柴犬も、親戚一同いるなかで明らかにおれを贔屓していた。昔から、ちょっと年上の奴や一回り違うおっさんには好かれないが、動物や年寄りには好かれる。

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その柴犬も、高校2〜3年になったくらいから、元気がなくなっていった。ちょうど、犬の平均寿命である。ハムスターとは違い1週間という単位ではないが、1、2年と徐々に衰退していった記憶は新しい。なんせ、通っていた高校は祖父母宅から徒歩15分くらいにあった。当然たまに、遊びに行っていた。

祖父母は、「この子もやっぱり年だし、昔みたいな元気さはもう見れないのよ。」と、しきりに言っていた。だけど、アンタが来てくれたときがやっぱり、一番嬉しそうにしてるわ。体力もないだろうに、元気に小屋から出てくるもんね、とか言っていた。

散歩も、昔ほど長距離は歩けない。しつけは甘かったので、主人のおれをなんとも思わず好き勝手前を歩いていた彼も、いつのまにかおれの後ろをとぼとぼ歩くようになっていた。


訃報を受けて、本当にしばらく涙が止まらなかった。当然、覚悟もしていたし寿命が尽きるのは生命がある以上避けられないことだった。もっと遊んであげればよかった、というような気持ちや後悔はない。そもそも「遊んであげる」という表現はそぐわず、もう気が済むくらい、2人で遊んだ。だけど、もっと遊びたかったし、幼稚園児、小学生だったおれが高校生になっても、広大な敷地で走り回りたかった。そして何より、叶うのならば、生命がひきとられる瞬間を見届けて、別れの挨拶が言いたかった。しばらく止まらなかった涙は、きっとその悔しさからだった。

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2人について初めて文章にして書き綴ったが、これもまたベタな現象だが、途中からずっと涙が止まらない。


三浦春馬さんが亡くなった。寿命ではなく、自ら命を絶たれた。自分と2つしか違わない、まだ30歳の年であった。

もちろん関係者でもなんでもないが、とても悔しい。数え切れないくらいたくさんの人から愛されている人間であれ、抱えるその深い何か、それは内的要因も外的要因も複雑に絡まり合っていたのだろうが、その蓄積によって自ら命を絶つという結末となってしまった。こういうとき、深い関係者達の心中を想像するだけで恐ろしくなってくる。もし自分の周りでそんなことが起きてしまったら…と考えると、万が一もし起きてしまったとしたら、その後、強く懸命に生きていける自信はない。


生命は、「何か他の要因によって生かされているもの」だと思う。

飼っていたハムスターも祖父母に飼われていた犬に対しても、おれは深く関わり、彼らを生かす要因の一つとなっていたはずだ。きっと、おれ自身が彼らの幸せの一部になっていた。そしておれ自身も、彼らによって生かされていた。そして自分自身、「彼らによって今も生かされている立場の生命」だと考えている。

あなたもあなたもあなたも、あなたの愛情によって誰かの生命を生かすことができるのだから、誰かの生命を殺してしまうことは、大変悲しいことです。

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