酪農家 金谷雅史

酪農家 金谷雅史

最近の記事

私の見た真実。番外

ここまで私の見聞きしたことを書き記しましたが、とても大事な所用がありますので少しの間、執筆活動を休みます。その前に応援いただける消費者の方に正確な情報をお伝えしたいのでそれを項目ごとに書き記します。 「牛乳が大量廃棄の危険があります。牛乳余り問題」 皆様バター不足を覚えていると思います。当時これを解消すべく国と酪農業界全体で生乳生産量増産へと舵を切りました。クラスター事業などにより牛の増頭、生乳の増産を推進した結果、予想よりも早く進み生乳の生産量が増えました。一方で人口減少

    • 私の見た真実。6 第三次酪農危機 第三章

      2022年11月24日 加藤獣医先生から電話がきた。 「金谷さんさぁ、30日農水省前のデモ、ちょっとマイクもって話してくれない?3分くらい」 とのこと。俺が?国の農政を司る最高位機関の農林水産省で?マイクもって?何言うの? 二つ返事で快諾したものの、そんな思考がしばらく頭から離れなかった。電話の最後は 「かましちゃってよ!」 とのこと。さて、どうかますのよと思った。 程なくしてデモの主催、農民連の満川さんから連絡が来る。すごく慣れた感じで一回目の電話から百戦錬磨という印象を受

      • 私の見た真実。5 第三次酪農危機 第二章

        こんにちわ。千葉県の酪農家の金谷です。 このノートは私の見て知った現実を整理整頓して自分の考えをまとめるために徒然なるままに書き記していきます。 第三次酪農危機2022年10月末から動き出した戦いは今もまだ続いています。その初期を自身の記憶を振り返りながら書き記します。 第三次酪農危機5 前回投稿の最後で記載したフェイスブックへの投稿は主に千葉県内の酪農家に向けて投稿したものだ。文章には続きがある。 千葉県内の酪農家さんへお願いします。 上記の方向性で動画を撮影し、Yo

        • 私の見た真実。4 第三次酪農危機 第一章

          こんばんわ。千葉県の酪農家の金谷です。 このノートは私の見て知った現実を整理整頓して自分の考えをまとめるために徒然なるままに書き記していきます。 第三次酪農危機の第一章を書き記します。 今後、出来る限りかかわった方のお名前を実名で書きたいと思っています。必ず了承を得てから書きますが、書けない方もいらっしゃる旨、ご理解ください。 第三次酪農危機1 2021年末。前年の年末にも同じような話題があったと思うが、牛乳大量廃棄問題が広く世間に表面化した。このままでは大量の処理不可能

        私の見た真実。番外

          私の見た真実。3 私の時代

          こんばんわ。千葉県の酪農家の金谷です。 このノートは私の見て知った現実を整理整頓して自分の考えをまとめるために徒然なるままに書き記していきます。 私の時代、就農直後から設備更新や牛舎の修繕、自給飼料作りの苦労、そして現在につながる第三次酪農危機入口まで、を書き記します。 私の時代1 父が手術して病院でリハビリを始める事になった。いわゆる半身不随だ。歩く事もままならない。これでは退院してすぐに仕事など到底無理だった。母は父の見舞いに行きながら仕事を頑張っていた。それでも60

          私の見た真実。3 私の時代

          私の見た真実。2 父の時代

          こんばんわ。千葉県の酪農家の金谷です。 このノートは私の見て知った現実を整理整頓して自分の考えをまとめるために徒然なるままに書き記していきます。 父の時代、私が就農した経緯や、自給飼料作りの苦労、過去の酪農危機の状況を書き記します。 父の時代1 1975年、祖父から父へと受け継がれた訳だが、幼少期からの私の記憶を中心に書き記す。まだ祖父が現役で仕事していた時は父と祖父の二人で搾乳をしていた。エサやりなどは祖母もまだ活躍していたと思う。母ももちろん仕事していた。その後祖父も

          私の見た真実。2 父の時代

          私の見た真実。1 過去

          こんにちわ。千葉県の酪農家の金谷です。 このノートは私の見て知った現実を整理整頓して自分の考えをまとめるために徒然なるままに書き記していきます。 まずは私の知る金谷牧場の歴史と所信を書き記しておきます。 過去 金谷家の歴史1 日本の1945年の敗戦以降、国民全体で食糧増産に取り組んだと聞いている。私の祖父は満州への開拓(満蒙開拓義勇団)で骨を満州の土に埋めるつもりで移民していたが、終戦の折に日本への帰国を余儀無くされた。満州での生活で牛を飼っていたらしく当時獣医さんも満足

          私の見た真実。1 過去