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私の見た真実。3 私の時代

こんばんわ。千葉県の酪農家の金谷です。

このノートは私の見て知った現実を整理整頓して自分の考えをまとめるために徒然なるままに書き記していきます。
私の時代、就農直後から設備更新や牛舎の修繕、自給飼料作りの苦労、そして現在につながる第三次酪農危機入口まで、を書き記します。

私の時代1
父が手術して病院でリハビリを始める事になった。いわゆる半身不随だ。歩く事もままならない。これでは退院してすぐに仕事など到底無理だった。母は父の見舞いに行きながら仕事を頑張っていた。それでも60歳を過ぎた母には重労働であったことは解っていた。そんな折、私の目の前で搾乳中に足を滑らせて転んでしまった。それは母の仕事を減らしてあげなければならないと決意させるに十分な出来事だった。次の日から搾乳の頭数をどんどん奪い取っていった。それでも私と母の二人では仕事も追い付かない。牛の管理もなあなあになっていたのは間違いない。頭数は牛舎の半分の15頭ぽっちだった。そんなことではいくら自給飼料を作ろうが儲けは出なかった。お金に困っていたのは恒常化していて、月末になると母はゴメンねと言っていた。涙を流していたこともある。辞めれば楽になっただろう。しかしなんでだろう。不思議と辞める選択肢は無かった。なんとかこらえるんだ、と必死だったのを思い出す。それでも機械設備は壊れる。父ももう継続する気も無かったのだろう。水道管やません棒など牛舎の各所が壊れる壊れる。電気工事士や建築会社に勤めていたから、そういった修繕はなんとか出来た。しかしながらミルカーは相変わらず40年モノのため不具合が多かった。電気で動くパルセーター(乳搾りの動きをする機械設備)だったのでそこはなんとか直せた。だが一度真空ポンプが動かなくなったのには参った。朝の搾乳が出来ずモーターが動かない原因を探るも解らない。もう中の素子が溶けていたんだと思う。芯線のまき直しなど出来る訳もない。諦めだ。結局昼を過ぎて機械屋さんから中古モーターをもらったんだと思った。その日は牛たちがほとんど全頭泣き叫んでいたっけな。

私の時代2
父が退院してきた。まだまだ仕事に復帰できる訳ではなかったが、監督業務をしていた。そこでぶつかることも多々あったと記憶している。だがそんなに大した問題ではない。父が退院後、まずは牛床のパスチャーマットをボビレックスタイプのものに交換した。2014年の事。同年二月に千葉ではありえない大雪が降った。その時に我が牧場の一番最初の牛舎がつぶれてしまった。初年度は大変だったからよく覚えている。自給飼料作りも父と仕事は分け合ったけども、ほとんど一人でこなした。父がやっていた飼料畑の面積は10Ha。東京ドーム二個分の大きさだ。初年度は自給飼料はホントに苦労した。本当に一人でやっていたのか?と疑惑すら持っていた。まだまだ機械操作も慣れていなかったためすごい時間がかかってしまってデントコーンの質も悪く、牧草の種まきも遅くなってしまった。特に苦労したのはプラウ作業だ。素人のプラウは凸凹が各所に出来てしまって圃場も狭いことも相まってトラクターは切り返しの度に左右に大きく揺れた。難しいと感じた。この時は人並みに酪農について勉強していたと思う。優良牧場の見学や講習会などもかたっぱしから行った。それも両親がなんとか勉強してこいとがんばってくれてたから行けたのだという事は書き添えておく。

私の時代3
2016年妻と結婚した。当時決して儲けていた訳ではない。けどもなんとかして新婚旅行で海外にいかせてもらった。いい経験だったと思う。そこからだ。本当に気合の入ったのは。妻と生まれてくる子供のために頑張らねばならぬ、と。同時に初めての従業員を雇った。国からの補助事業あっての事だが、これで私の仕事が減らせる、その分いろんな仕事ができるぞ!と思った。ここから機械設備の更新も本格的に行った。クラスター事業にてロールベーラーの更新もこの年だ。他にもいろいろなものを更新していった。ホイールローダーのバケット、タイヤ、牛舎のタイストールなど。おかげで儲けとして手元に残るお金は皆無だったと記憶している。2017年はTMRミキサーを中古で買ってきて更新した。お金も無かったため不動のものを10万円で買ってきて、一人で持って帰ってきた。10万で買ってきたものが修理に30万かかるという謎の現象が起きたwデントコーンのサイロ詰めもこの年に変えた。今までのスタックサイロだと下部は残らず捨てていたし、なにより発酵品質などの分析結果も悪かったためだ。中古で細断型ロールベーラーを買ってきてラップサイレージとして保管した。これで大量に雇ってた人件費を減らして天気も気にせずサイロ作業をできるようになった。この時期(結婚した翌年)に第一子の娘が生まれた。よくニコニコする子で天使か、と思った。名前は妻が決めた。

私の時代4
2018年、初めて30頭牛舎が埋まった。それからはしばらく儲けもあったし、順風満帆だった。月に100万円稼ぐ事もあった。が、やはり儲かった分は投資に回した。具体的には父が使っていた農作業機が限界だったのでラッピングマシンとテッダーを更新した。この時期がいわゆる酪農バブルだったのだろう。自分の体力も十分だしなにより働いたらその分儲けが出ていたと思う。その年に暑熱対策で換気扇を自分で設置した。30頭牛舎に12台。吊り下げから配線、圧着などもすべて含めて自身で行った。おかげで以前は舌を出して呼吸が荒かった牛もいなくなった。電気工事士やっててよかったと思えた。でもその順風満帆な酪農家人生はその一年だけだったと私の経営では思う。この年に第二子の息子が生まれた。名前は私が決めた。我が家の決定的な礎となった祖父の名前をそのままいただいて息子につけた。この理由を説明する時が来るのがもう楽しみになっている。その時にそっぽ向かれないように頑張らなきゃねと再度思った。

私の時代5
2019年千葉県を襲った猛烈な台風15号が来た。先にも書き記した通り、無事だった。だがその爪痕は各所で見られた。近所では建設途中の大型倉庫の足場が倒壊したり、移動式の巨大なホイストクレーンが道路まで押し出されてぶっ倒れていた。両親はこんなこと今まで生きてきて初めてだ、と言っていた。地域の高齢の方も同様で皆なにかしら被害を受けていた。うちの被害は牛舎のスレート屋根の端っこが5枚程度飛ばされた。そこから大量の雨水が侵入、バンクリは満水になっていた。また、バンクリのエレベーター部分のトタン屋根も全て吹き飛ばされた。あと乾草用の古い倉庫が倒れた。ここには重要なものは置いてなかったので草だけ救出した。台風が来たのは未明AM4:00頃ではなかったかと思う。その時間に牛舎に行ってなにもないか見て居ようと思ってのことだ。甘くみていた。牛舎の形が変わって軋むのを見たのだ。牛舎の柱が立っていて構造としては横長の四角形の形をしている。その四角形が強風にあおられるのと同時に平行四辺形になるのだ。なんと怖かった事か。強風の音に合わせて揺れ動く牛舎を見たときは血の気が引いてここに居ては死ぬ可能性がある、と思い牛を出すなど考えもできなかった。すぐに外に出て車の中は安全だと思って軽トラに乗り込もうとする。小走りで向かっている途中で、どこかから飛んできた2mくらいの長さのトタン屋根が後ろから直撃する。痛いとかは無かったけど釘が付いてなくて良かったと思いながら軽トラに乗り込む。暴風の中で軽トラから牛舎を見守る。パリーン!と音が2回かした。ガラスが割れた音だ。こりゃ掃除が大変だと思いながら軋む牛舎を見守って1時間ドキドキしていた。軽トラはさすがに飛ばされなかったが、それでも不安になるくらい揺れた。停電になったのはうちの牛舎は一瞬だった。朝仕事中に復旧したので搾乳は出来た。発電機も動かせるように段取りしといたが必要無かった。でも地域の一部では5日間程度停電していたとこもあった。おそらく足場倒壊した関係で電柱が折れていてその影響だろうと思う。台風通過後は復旧作業に追われた。また雨が降れば困るのは解っているのだから最善策はまずは屋根の復旧だ。その後千葉県内で発電機を求める声がたくさん聞こえた。自分の発電機も貸してくれと鴨川の酪農家さんから頼まれて二つ返事で貸した。近所のよく付き合っていた建機レンタル屋さんに発電機が余っていたのでその情報を流したら借りにいった酪農家も居た。安房の方では発電機をダンプに積んで電線を長くとっておいて、搾乳のために酪農家を何件も回るような活動していた仲間もいた。災害時に助け合える仲間がいること、それを心強く感じたし、またそうでもしないと災害には立ち向かえない、独りではどうにもならないぞと思っていた。組合の方も被害甚大で停電が長く続いた。牛乳を貯めるタンクも停電で冷やせないため廃棄していた。問題はその後でタンクの洗浄装置が動かなかったため生乳の受け入れが出来なかったのだ。そのため近隣の無事な乳業さんへ直送するなどの対応をしたり、また機械の部品や停電対応など、横の連携も取っていた、とのこと。ここでも業界の横のつながりが生きていた。後日、組合に向けて運転していたら恐ろしくなった。それまで道中は両脇に杉の林がうっそうと立っていた街道があった。その林が人間の身長程度の部分からすべてなぎ倒されていて向こうの風景が見えた。なるほど、電柱もボキボキで停電が長引いた理由が容易に想像できた。

私の時代6
その台風15号の時期はちょうどデントコーンの刈り取りだった。この年は最初から最後まで一人でやってみよう!と息巻いていた。ある酪農家さんから「出来る訳ねぇ」と言われていた。その年6Haのデントコーンを作っていたと思う。その3分の1を一人で刈り取った。ロールにする作業も一苦労だ。一人でやると朝から晩まで作業してせいぜい30aが関の山。10日間くらい深夜まで一人で作業した。その最中に台風15号発生のニュース。台風と言っても急に頼める人もいない。甘く見ていたのでマイペースにやろうと思い刈り取りは台風前に終わらなかった。結果は猛烈な台風にほとんど全滅。それでも立っているデントコーンがあるから刈り取りはしたけどもロクな物はできなかったのは当たり前の話。あと忠告通りに頼める仲間に頼んで手伝ってもらった。この年は過去最低の収量、300個のロールしか出来なかった。台風後のモノは立ち枯れしていたので質も悪い。台風後も復旧作業や仲間の酪農家を見て回ったりしててすぐにデントコーンに取り掛からなかった。もうどうせダメなんだから、と人的支援を優先した。この年に真に災害は恐ろしいものだ、と実感した。しっかり備えなければ、と。そして10月に直撃ではなかったが台風19号が来た。その際は牛舎の補強を考え得る範囲で済ませて発電機もすぐにつなげる状態にしてあった。が、逸れたため胸をなでおろした訳だが北関東あたりではかなりの風水害があったようだった。本当に異常気象と台風災害は恐ろしい。今年もどうなるか。これまでの父が培った天気に関する経験が通じないので不安は多い。

私の時代7
デントコーン収穫が最悪の結果になった訳だが、以前から申し込んでいたミルカー更新の補助金の申請が通った。このままだと確実に経営を圧迫するが、ミルカーは限界だったし支払いがキツイのは最初のうちだけで来年の収穫が無事にできれば問題ないと思い、更新に踏み切った。自動離脱と乳量の計れる最新機種だ。お値段も高い。しかしながらこれから60歳過ぎて何歳まで出来るかわからないが、間違いなく30年程度使うのだからそんなに悩む事は無かった。オリオンのMMDという機種で乳量などが見れるのは大変重宝した。一回で30Kg搾れる牛が居たときはニコニコしたものだ。自動離脱機能も作業を簡略化させた。ユニットは軽くてライナースリップが明らかに減った。更新してよかったと思える。

私の時代8
2020年、この年から思い切って設備投資した。理由は事業と関係の無い借金が終わったからだ。詳しくは書けないが金谷家にとっての呪いが終わったのだ。なのでトラクターとコーンハーベスターをクラスター事業で更新させてもらった。今まで払っていた借金がそのままトラクターとハーベスターに代わったと思えば何も問題ない。が、過剰投資になるであろうことは考えていた。だけども、ジョンディアは孫の代まで使える実績がある(いまだ祖父の買ったトラクターが使えている)から一族が長く畑作業を出来る、それも効率的に、と思えば答えは決まっている。買うことを決める前に妻には了解を得たけども「もう決めてるんでしょ」と言われた事には驚いた。顔に書いてあったらしいw
それと合わせて自宅を新築した。妻が古い母屋での生活にストレスを抱えていたためだ。設計も妻と二人で悩みに悩み好きな間取りで設計した。頭金もすこしばかり用意して住宅ローンを通した。父の土地であった古い牛の運動場に建てることにした。そうすれば長い目でみれば金谷家にとって利があると考えたためだ。そこには木が何本も生えてしまっていたが伐採だけ業者に頼んで、伐根と整地は自分でユンボでやった。もうここからは自宅新築費は今までより多く稼ぐしかなかった。しんどいけど頑張ろう、また新たに決意した。
しかしながら去年のデントコーンの不作もあったが情勢は良くなかった。乳量は代わっていなかったが残る乳代は決して多い時期は無かった。和牛の販売が好調だったのもあってそんなに意識はしなかったが売上のウエィトは間違いなく子牛の販売が大きくなっていた。今思えばこの時に気づくべきだったのだろうか。配合も輸入乾草も50円代半ばでエサ代はじわじわ上がっていた。

私の時代9
2021年、この年はもう投資もひとしきり終わったし稼ぐのみ!ということで働いた。同じ組合の経営の上手くいってる先輩酪農家にいろいろ進言いただいて乳量も伸ばせた。自給飼料も自身でつちかった経験からか牧草もデントコーンも収量上々でエサ代を抑えることが出来た。しかしながらやってる手ごたえは十分だったがその割に金は残らなかった。なぜならエサ代がまた上がってきていたからだ。この年の終わりには配合飼料は60円を超えた。そして輸入乾草も60円を超えた。おいおい、60円超えかよ、とエサ屋さんに話をしていたと思う。もうこのころには第三次酪農危機の入口だったことはまったく気づかなかった。ここから更に上がることは想像を超えていた。更に中国との乾草の取り合いが始まっていたのとコロナによりアメリカの港が操業停止状態になってしまっていた。その冬は乾草の確保合戦が酪農家の間で起こっていた。エサ屋さんは右から左へ、で入ってきたものはすぐ売れていたと思う。価格は中国との取り合いにより上がっていたし、そこで競り負けて物量も少なくなってしまっていた。この出来事があったために、収穫の天気の都合で収量や質が左右されるが安定してやれる自給飼料は見方が少し変わったと思う。その時に思い出したのは近所のもう亡くなってしまった酪農家さんの言葉。その方はとにかくなんでもいいから草は全部刈り取ってロールにしておく、という風に牛舎の周りがロールの壁状態で自身で牧草を確保していた。輸入乾草が50円代前半でまだまだ安かった、むしろ自分で草を作るのなんて質が悪いし時間の無駄だという風潮が酪農家の間であったと思う。そんな中で読んで字のごとく腐るほど草を抱えていたその酪農家さんに、「どうしてこんなに草作ってんですか?」と聞いた。その時の答えは「食わせんだよ!これでうちは輸入乾草が1年来なくてもやっていける」と言っていた。そんな状況あるか?とは思ったけどもなるほど、と思ったのは2015年くらいの事だったか。自給飼料を辞めるつもりなど毛頭なかった私には追い風になった。その方の言葉がこの冬の乾草不足の時にふと頭に蘇ったのだ。あの人はこのことを言っていたのか、と納得した。これが第三次酪農危機の入口の出来事。

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