私の見た真実。1 過去

こんにちわ。千葉県の酪農家の金谷です。

このノートは私の見て知った現実を整理整頓して自分の考えをまとめるために徒然なるままに書き記していきます。
まずは私の知る金谷牧場の歴史と所信を書き記しておきます。

過去 金谷家の歴史1
日本の1945年の敗戦以降、国民全体で食糧増産に取り組んだと聞いている。私の祖父は満州への開拓(満蒙開拓義勇団)で骨を満州の土に埋めるつもりで移民していたが、終戦の折に日本への帰国を余儀無くされた。満州での生活で牛を飼っていたらしく当時獣医さんも満足に診療を回れる状況ではなかったらしい。自身で腹を切って手術した経験もあったらしい。おそらく第四胃変位であったのだろうと予想する。それくらいの気持ちで牛を飼っていた、おそらく農地の開墾もしていただろうと思う。そんな地を離れなければならなかった心情はいかばかりか。到底計り知れない。しかしそんな思いの日本への帰路も一本道ではなかったらしい。多くは語らなかったが、父に聞いた話ではシベリア抑留されていたらしい。自身で調べたシベリア抑留の状況は壮絶極まりなく、極寒の中で衣食住も満足ではない状況で朝から晩まで肉体労働を強制され続々と命を落とす同胞が居たと聞く。作業内容は抑留された場所で違うようだが、主に鉄道の敷設、もしくは木の伐採作業であったらしい。この鉄道の敷設は言葉にすれば簡単だが、大変重い鉄の塊の線路を人力によって運び設置する作業のようだ。極寒の中で鉄の塊に素手で触ると、指が瞬時に凍り付き離せなくなるらしい。そうなったら引きはがす術は無く指がもげてしまったという記事も見た。祖父は左手の人差し指の先が第一関節から先が無かった。父に聞いてもなぜ無かったのか知る由も無いのでもしかしたらそういった状況で人差し指が無かったのだろうか。また引き揚げの際には地元民からの壮絶な迫害もあったようだ。占領していた他国の開拓民が敗戦により出ていく、そんな状況になれば誰でも石を投げたくなるのだろう。そんな簡単な迫害ではないはずだが心情的にはそういったことだろうと思う。
祖父はそんな壮絶な経験は帰国後誰にも語らなかったと聞く。祖父は私が幼少のころから寝ている時にひどくうなされる事があり、大声で悲鳴をあげていた。これはきっとそういった壮絶な経験が夢でフラッシュバックしていたのだろうと思う。戦争は恐ろしいものなのだな、と幼少の頃から感じていた。
帰国後は祖父の実家の栃木県足利市を離れ、今の千葉県千葉市に開拓民として入植した。旧姓は嶋田だ。開拓のいきさつも詳しく聞いてはいないが、どうやら開拓時に新潟から来た祖母と結婚し金谷姓に変わったようだ。その際に祖母の兄と開拓民として、また、金谷家の分家として入植した。それが我が地元への金谷家が根付いていくきっかけである。

過去 金谷家の歴史2
入植後はしばらくバラックでの生活で、まもなく父が生まれたと聞く。その間、祖父は壮大なる原野に繰り出し毎日カヤなどの草を引っこ抜いて石を拾う人力による開墾作業であったようだ。ほどなくして開墾などの農作業に必要な労力として牛を我が家へ迎え入れる事になった。祖父の実家の栃木県足利市に黒牛の子牛が誕生してそれをもらい受ける事になったのだ。車などの便利な移動手段は無かったので、その子牛をリヤカーで取りにいったらしい。本家の祖母の兄と二人で交代しながら栃木県足利市まで歩いていったとのこと。帰りはリヤカーの後ろに子牛を乗せて、道草を食わせながら2人の人力で引っ張り倒し、三日三晩歩き続けたと聞く。足の裏はマメだらけになり、子牛を連れて家まで帰った頃には疲労困憊で死んだように寝続けたらしい。そんな入植者第一号の牛飼い物語の始まりが、私が牛を飼っている根源になっている。この話は牛飼いを続けるならば必ず引き継がねばならない金谷家の礎となった話だと思っている。その苦労を思えば、今なにが辛かろうが祖父に叱咤激励されるのは目に見えてる。だから頑張れるし諦めない。

過去 金谷家の歴史3
牛を飼い始めて近所でもその牛「黒」の評判が良かったようで、黒を貸して近所でも農作業をしてきたと言う。その際は仕事が終わると人の手を払いのけて自ら帰ってきたそうな。黒は祖父にとって忘れ得ぬ一頭になったと聞く。我が家の農地も開墾が進んできた折に、耕運機が出現してその役目を終えたそう。その際に乳牛へと畜種を変えたのが我が家の牛乳搾取業の始まりである。それが何年のことだったのか定かではない。インターネットによれば耕運機が広く普及したのは1950年代半ばとなっているのでおそらくその頃なのであろうと思う。つまりは我が家の牛乳搾取業は約70年続いていることになる。その折に5頭程度の牛舎を立てて完全な人力による乳牛飼育を始めた。その頃の牛乳は貴重なタンパク源として重宝され、我が父を含めた兄弟4人の腹を満たし、当時はリヤカーに集乳缶を乗せて毎日集乳所まで自身で持っていき稼ぎを得たと言う。当時は一頭の牛を飼えば1人の子供の面倒が見れる稼ぎになったのとこと。その頃から生乳取引に地域差が生まれ、人によっての乳価の違いなどが問題になり、生産者自身で団結し酪農協の設立の機運があったようだ。それが「下志津原酪農農業協同組合」となり名称を「千葉酪農農業協同組合」と変えて現在に至る。祖父はその創立に携わっており、創立後も組合員として組合を支え、父も同じように長く生乳出荷を続けた。そして今現在も私は千葉酪に生乳出荷している。創立メンバーとして祖父が起こした組合は、私にとっては親同然でこの千葉酪が無ければ私はメシを食えなかっただろうとさえ思う。そこに携わった組合員、職員全ての方に同じように感じ感謝している。今では創立メンバーとして、いまだに生乳出荷を続けているのは私一人となってしまったが、まだ諦める気は毛頭無い。

過去 金谷家の歴史4
祖父が5頭の牛舎から始めた金谷牧場は次第に大きくなった。時代の流れとともに機械化が進み飼える頭数も増えて牛舎も大きくした。経緯は不明だが、学校の解体に際し、材料をもらい受けてわが牧場に移築したのが今現在の木造牛舎だ。頭数は20頭。築何年になるのか定かではない。おそらく1960年代の中にいずれかだと思う。祖父から父がバトンタッチをされたのは1975年前後の事。その際に増築をしており30頭飼育の今の牛舎になった。この牛舎はいまだ活躍している。記憶に新しい2019年台風15号が千葉県を直撃し、多大なる被害をもたらした。その台風の折には牛舎に私は居た。生まれて初めて牛舎が強風にあおられて、横に揺れるのを見たときはこの牛飼い人生も金谷牧場の歴史も終わるものと覚悟した。しかし耐えた。屋根も一部が飛ばされたし、浸水もあった。だが建物は残った。牛も一頭残らず無事だった。この牛舎は外から見ればボロく汚い建物だ。だがそんな思いがあり歴史があり守ってきたものがある。外から見る以上に中には価値がある。それを私は良く知っている。

所信
こういった牧場が日本全国にたくさんあると思います。そのほとんどは人から人へ繋げてきた大切な価値の塊です。そんな牧場がどんどん廃業に追いやられている。悲しいことです。逆に言いますとこういった背景があり今の酪農情勢が成り立っています。また1から立ち上げて作り上げるとなると何十年かかるか、もしくはウン億と借金をして作り上げねばなりません。その生産基盤がどんどん失われていく現状は打開せねばならないと強く思います。

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