私の見た真実。2 父の時代

こんばんわ。千葉県の酪農家の金谷です。

このノートは私の見て知った現実を整理整頓して自分の考えをまとめるために徒然なるままに書き記していきます。
父の時代、私が就農した経緯や、自給飼料作りの苦労、過去の酪農危機の状況を書き記します。

父の時代1
1975年、祖父から父へと受け継がれた訳だが、幼少期からの私の記憶を中心に書き記す。まだ祖父が現役で仕事していた時は父と祖父の二人で搾乳をしていた。エサやりなどは祖母もまだ活躍していたと思う。母ももちろん仕事していた。その後祖父も高齢によって引退をする。搾乳は父と母の二人でやり、祖母は補助的なエサやりの仕事と私と姉2人の食事を作ってくれていた。同年代の酪農家ならばよくあることだと思うが、両親と遊んだ記憶は無い。祖父によく遊んでもらっていたが、キャッチボールにあこがれた私はグラブとボールを買ってもらった。その相手が祖父だったことは記憶によく残っている。野球などしたことは無かったのだろう。まともに帰ってこないキャッチボールは面白くなくて3日と持たなかった。グラブはその後ホコリをかぶって払われることも無かった。幼少期、遊んだ記憶は近所に住んでいた従弟とか姉二人との記憶。母と買い物に行った記憶。父との記憶は無い。今思えば忙しかったのだろうし無理もない事だと思うが、父が家族という意識は当時薄かった。父は自給飼料だったり牛舎設備の機械化に熱心だった。バーンクリーナー(徐糞設備)、TMRミキサー(エサ混ぜる機械)を導入したり、畑作業も機械の大型化、効率化をしていった。ジョンディアの100馬力のトラクターを購入したのも父だ。引き継いだ時は4人作業だったはずだが、祖父が抜け3人に、祖母が抜け2人になった。なので効率化をしていったのだろう。
以下は現在私の調べられる範囲で調べた当時の酪農情勢を書き記す。当時も現在と同じように国の政策により1970年前半から生乳生産量が急増し需給ギャップが発生したらしい。日本で初めての生産調整(計画生産)が始まったのが1979年。それが1980年代半ばまで続いたとのこと。また1972年頃にやはり海外の情勢変化により輸入飼料の高騰が起こったとのこと。今と同じ事を繰り返しているのだ。第一次酪農危機と呼べるだろう。

父の時代2
父は自給飼料作りが一年の儲けを左右するとしきりに言っていた。私もそう思う。自給飼料作り、特に9月に行っていたデントコーンの刈り取りとサイロ詰めは大量に人員を集めて集中的に3日間働いていた。私の記憶にあるサイロ詰めはコーンハーベスターで刈り取り吹き上げて、横についたダンプカーの後部に粉々のデントコーンを目いっぱいに乗せる。それをうちまで持ち帰りスタックサイロに落とし込む。それをホイールローダーでナラシて転圧するという形だった。私と姉二人も幼少期からよくスタックサイロの周りをチョロチョロ遊んでいたものだ。朝から日暮れまで働き夜はガハハと笑い酒を飲みながら話し込む。そんな父の姿は記憶に残っている。最終日は必ず決まって出前の寿司を取る。遅くまで晩酌をしてたのも記憶にある。今伝えたサイロ詰めの形がいつからだったのか定かではないが、その昔は縦穴の大きな円筒形の地下サイロに、手で刈り取ってきたデントコーンをカッターで粉々にして落とし込んでサイロ詰めを行っていたそうだ。よくその苦労話を聞かされたものだ。だから今の機械は凄く楽になったからいいんだぞ、凄いんだぞ、と。ガンダムなどのロボットアニメが好きだった私は父の操るトラクターやコーンハーベスターを見ててかっこよくて誇らしかったのも記憶にある。

父の時代3
小学生、中学生と牛舎で親の仕事の手伝いをして小遣いをもらうことをちらほらやっていた。高校を卒業した私はほどなくして車の免許を取る。大型特殊の免許は持っていなかったが、父に頼まれて自給飼料作りの手伝いをすることになった。父がロールベーラーで乾いた草を丸めてロールに整形する。そのロールを私がラッピングマシンでラップする、という形だった。初めて乗ったトラクターは運転もままならず時間はかかったし、近所にも迷惑をかけたと思う。夏のデントコーンのサイロ詰めの時にもダンプカーに乗り、刈り取りを手伝ったものだ。20歳そこそこの私はそこでトラクターの運転や自給飼料作りの一部の苦労を知った。当時はめんどくせーなーとも思っていた。けども昔から言われていた、自給飼料作りが一年の儲けを左右する、って言葉は頭にあったので手伝わねばならぬ、と思っていた。その後専門学校に行って卒業、仕事を始めてからも同じ、毎年の恒例行事となっていた。

父の時代4
そんな中で、中学生の時だったか、高校生の時だったか、父から何回か言われたのを覚えてる。「お前は牧場をやるな」と。毎日朝早くから搾乳をしてたし、学校から帰ってきても仕事をしてた。夜も帰ってくるのは遅く、分娩があれば夜中でも起きて面倒を見に行く。そんな姿を見ていた私は一般的なサラリーマンの生活を聞いていて、そっちのがいい、と思っていた。だから父の言葉は渡りに舟、そうか俺は何者になってもいいのだ、と思い将来は建築系の会社に行って設計士になりたいと思っていた時期もあった。ただその思いは高校卒業から楽器の専門学校に行く事で忘れ去られる。結果、指折りの新進気鋭のドラムメーカーに就職した。まあ、要は好きにさせてもらった訳だ。家のことなどなにも考えない。一年のうちで自給飼料の時期だけ手伝えばいいのだ、と思っていた。父はなにも言わずただお金だけ出してくれた。そういったタイミングで牛が減っていた気がしていたのは見てみぬふりをした。ありがたいと今更思っている。

父の時代5
私が25歳ごろ、そろそろちゃんとした職を持ちたいと思い、電気工事の会社に就職する。電気工事士の資格を取って現場でも経験をこなした。なぜ電気なのか?は父が「電気の事は解らない。目に見えないからな」と言っていたのがきっかけだ。決してうちの仕事をやるつもりだった訳ではない。だが少しでも電気の勉強をして家に恩返しができればいいな、と思ったのは事実だ。おかげで家の牛舎の分電盤などをいじった事もある。しかしそんな中で、父はいろいろな災難に打ちひしがれていた。詳しくは書けないが、金に困っていたのだ。牧場の儲けも減っていてなんのために搾乳するのか解らないといった事を感じていたようだ。学校を出てからはお金のことは迷惑をかけないようにしてきたが、家に帰って母と話すと毎回のようにお金がない、といった事を漏らしていた。そんな状況で父は毎晩のように近所の飲み屋で飲んでいた。搾乳を終えてから毎晩のように出かけるなど普通は考えれないが、ともかく飲んだくれていた。そんなんでは身体壊すと思っていた。
以下は現在私の調べられる範囲で調べた当時の酪農情勢をまた書き記す。2000年代に入り少子化などの理由だと思うが飲用乳需要の減少が加速したとのこと。それにより2004年から乳価の下落が起こったとのこと。加えて2007年にもまた飼料代高騰が起こった。そういった第二次酪農危機とも言える状況に置いて生産基盤が弱体化し、2007年にバター不足が起こった。上記の父の飲んだくれてしまっていた時期と重なるのは気のせいではないと私は思う。ちなみに酪農家による日比谷でのデモが2008年に起こり「乳価を上げろ!」とムシロ旗を立てて声を上げたのもこの時期だ。

父の時代6
良い加減搾乳に使っていたミルカーがくたびれていた。40年は使っただろうか。部品もまともに出ないような状況だったし、設備を更新するような経営状況ではなかったため父は廃業農家からミルカーをゆずりうけることにした。2013年のことだ。お名前は忘れてしまったが埼玉県の元酪農家さんだったと思う。父から頼まれて解体撤去に同行した。その道中だ。運転しているのは父だったのだが、降りるはずの高速の降り口を通り過ぎた。なにをやっているんだ?と言っても返答がモヤモヤした返答でなんだ?と思っていた。なんとか高速を降りたのだが、そこから運転が明らかにおかしくなった。トラックが左に寄ってガードレールにこすってても気づかないのだ。おかしい。そこで運転を代わって住所から調べてなんとか目的地の元酪農家さん宅へ着いた。だが父はぐったりしている。これはダメだと思い、元酪農家さんに話して近くの病院に連れていく事になった。その間、父はしゃべれずまともに歩けない。車いすで診療を受けると、診断は脳内出血、もしくは脳のガンの脳腫瘍の恐れがある、と。専門的な病院ですぐに診察を受けるべきだ、と言う。そこから地元にある大きな病院への紹介状を書いてもらいトラックに父を乗せて地元に戻った。脳神経外科へと連れて行くと、脳内出血なので手術ですね、と。夜も遅かったので翌日に手術となった。そこから父はしばらく身体が不自由になり、リハビリ生活だった。医師の診断では原因はお酒だろうとのことだった。飲んだくれていたのが悪かったのだ。そんなことがあり、私はその日から就農した。当時勤めていた会社も電話一本で快く退職を受け入れてくれた。そんなこんなでこれからが本当に大変な私の酪農家人生が始まった。

所信
ほんの一時期だけ酪農業として儲けが出ていたと思います。その分、作業の省力化や効率化に向けて設備投資も随分していたのでかなり投資していたのだと思います。この時の収支などは把握していないが、家族は不自由なく生活させてもらっていたことは間違いありません。しかし二度に渡る酪農危機によって辞めていった酪農家も多かった事と思います。父も諦めて辞めるつもりは無かったのですが、私が就農しなければそうなっていたでしょう。生乳需給は緩和と逼迫を何度も繰り返している、ということも聞きます。そういった中で飼料高騰が絡み酪農危機が起こっています。そんな中でも生き残ってきた現在の酪農家はエリートと言えます。父は二回にも渡る酪農危機をなんとか生き抜いた。本当にすごいことだと思います。直接は言えませんけどw

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