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出雲大神と別格官幣社 靖国神社



別格官幣社べっかくかんぺいしゃ 靖国やすくに神社じんじゃ

国家こっかのために功労こうろうのあった人臣じんしんまつった神社じんじゃあたえられた社格しゃかく別格べっかく官幣社かんぺいしゃ」であった「靖国やすくに神社じんじゃ」。

これからの話は、民間施設みんかんしせつとなった今日こんにち靖国やすくに神社じんじゃの話ではありません。
明治天皇めいじてんのう大御心おおみこころ(天皇の意思いしかんがえ)によって創建そうけんされ、大東亜だいとうあ戦争せんそう敗北はいぼくによって国の手をはなれるまでの、ふるくからの信仰しんこういだ「靖国やすくに神社じんじゃ」の事柄ことがらになります。

それは、また古代こだい出雲いづも大社おおやしろ姿すがた京城けいじょう(現在の韓国の首都しゅとソウル)に創建そうけんされた、官幣大社かんぺいたいしゃ  朝鮮ちょうせん神宮じんぐう」へとつながる重要じゅうような話でもあります。

李王朝りおうちょう時代から終戦しゅうせんまで手を付けずにのこされていた三角地さんかくち三角さんかくちょう

靖国神社やすくにじんじゃ代目だいめ宮司ぐうじ 賀茂かも百樹ももき

靖国神社やすくにじんじゃ 緒言しょげん

「私が『靖国神社誌やすくにじんじゃし』よりさきへんさんした『靖国神社やすくにじんじゃ事歴じれき大要たいよう』にいたとおり、出雲いづも大社おおやしろ靖国神社やすくにじんじゃ建立こんりゅう偶然ぐうぜんではない、出雲大社いづもおおやしろ靖国やすくに神社じんじゃているものである。」
靖国やすくに神社じんじゃ緒言しょげん序文じょぶん)で、こうしるしていた人物じんぶつは、明治めいじ44年(1911年)当時とうじ靖国やすくに神社じんじゃ3代目宮司職ぐうじしょくつとめていた賀茂かも百樹ももき宮司ぐうじでした。

靖国神社やすくにじんじゃ3代目宮司ぐうじ賀茂かも百樹ももき

賀茂かも百樹ももき宮司ぐうじは、慶応けいおう3年10月13日、山口県周防国すおうのくに熊毛郡くまげぐん上関村かみのせきむら長島ながしま八島やしま祝島いわいしま区域くいき。現在は上関町かみのせきちょう)でまれました。

同じ山口県の瀬戸内海せとないかいめんした防府ほうふには妙見信仰みょうけんしんこうを日本につたえたとされる百済くだら王族おうぞく琳聖りんしょう太子たいし上陸じょうりく伝説でんせつが残り、瀬戸内海せとないかいの西のはし祝島いわいしまには徐福じょふく来訪らいほう伝説でんせつつたわっています。

また、上関村かみのせきむらと同じ熊毛郡くまげぐん田布施町たぶせちょうからは、戦後内閣総理大臣ないかくそうりだいじんつとめた政治家、きし信介のぶすけ佐藤さとう栄作えいさく兄弟が出ました。

同県どうけん士族しぞく賀茂かも真淵まぶち国学者こくがくしゃ弟子でしには本居もとおり宣長のりながはなわ保己一ほきいちなど)の後裔こうえい子孫しそん)の真清の養子ようしとなり、その後、明治めいじ42年(1909年)から靖国やすくに神社じんじゃ3代目の宮司ぐうじ就任しゅうにん神職養成所しんしょくようせいじょである皇典講究所こうてんこうきゅうじょ議員ぎいん兼職けんしょくしました。
出身記載 帝国公民教育協会 編『日本国勢総攬 : 市町村別』下巻,帝国公民教育協会,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション

地図の右端みぎはし上関町かみのせきちょうでその先のハートがたになっている島が祝島いわいしまです。


大己貴神おおあなむちのかみ大国おおくに主神ぬしのかみ)の神徳じんとく靖国やすくに神社じんじゃ

賀茂かも百樹ももき宮司ぐうじが「靖国神社やすくにじんじゃ事歴じれき大要たいよう」にしめしたものは以下いかのものでした。

靖国神社やすくにじんじゃ事歴じれき大要たいよう 赤線 明治天皇めいじてんのう御製ぎょせい

おのれわたしは)かつて、出雲大社いづもおおやしろまいり、御埼山麓みさきさんろく島根しまね半島はんとう日御埼ひのみさき)に、大己貴神おおあなむちのかみ大国おおくにぬしのかみ)の神徳じんとくだいなるをおも

大神おおかみは、何故なにゆえに、多くの官國弊社かんこくへいしゃれ(まつられ)たまか。
北海道を開拓かいたくするや、何故なにゆえに、大神おおかみは、札幌さっぽろ官幣大社かんぺいたいしゃれ(まつられ)たましか。

臺灣たいわん台湾たいわん)の新領土しんりょうどとなるや、何故なにゆえに、大神おおかみは、臺北たいほく官幣大社かんぺいたいしゃれ(まつられ)たましか。
樺太からふとわれするや、何故なにゆえに、大神おおかみは、豊原とよはら官幣大社かんぺいたいしゃれ(まつられ)たましか。

大神おおかみは、少彦名神すくなびこのかみ協心戮力きょうしんりくりょくして(ちからをあわせて)、天下てんか經營けいえいし、禁厭きんよう呪術じゅじゅつ醫藥いやく医薬いやく)のじゅつさだたまついに、大國おおくにぬしとなりたましをもっしかるか。

しかり。しかりといえども(当然とうぜんといえば当然とうぜんだが)、萬世ばんせいなが)のもとなおこれ欽仰きんぎょうする(尊敬そんけいしたわれる)所以ゆえんのもの、そんせずんばあらざるなり(このようなことはほかには存在そんざいしない)。

むかし天孫てんそんつちくだたまんとするや、香取かとり鹿島かしま二神にじん経津主神ふつぬしのかみ武甕槌神たけみかづちのかみ)をつかして、大己貴神おおあなむちのかみに、領土りょうどけしめたま国譲くにゆずりをせまられた)。
ときに、皇祖天神こうそてんじん天照大神あまてらすおおかみ)、大己貴神おおあなむちのかみちょくして(めいじて)いわく、

れ、なんじおさめどころ領土りょうど)の顯露けんろことは、皇孫こうそんおさたまべし、なんじ幽事ゆうじれ。
なんじみやは、はしらたかふとく、いたひろあつつくまた神田しんでんせん。
また神地かんちはしし、ふねそなへむえんまた神寶しんぽう武器ぶき
なんじ祭祀さいしするものは、天穂日あめのほひのみことこれなり

皇祖天神こうそてんじん天照大神あまてらすおおかみ)の勅語ちょくご

と、これいて、大己貴神おおあなむちのかみ大国おおくに主神ぬしのかみいわく、天神てんじんちょく慇懃いんぎんなること(礼節れいせつ正しいこと)かくごとし、したがたてまつらざらんやと(したがわないともうせましょうか)、よろこんでめいほうじ、かつ治効ちこうありし廣矛ひろほこ(広矛)を、皇孫こうそんけんみつぐり、したが岐神くなどのかみ二神にじんすすめ、しかしして、みずから、御子等みこらひきて、皇基こうき(天皇による統治とうち基礎きそ)を守護しゅごする神とならことを宣言せんげんして、とこしえに(永久えいきゅうに)かくいましき(おかくれになった)。

くて、寸毫すんごうも(少しも)大義名分たいぎめいぶんあやまたまず、天下てんか後世こうせいをして、むか(向かう)ところらしめたまぬ(のちすすむべきみちをおしめしになった)。

大忠だいちゅう至誠しせいおおいなる忠誠心ちゅうせいしん)の神徳じんとくまこと偉大いだいなりとべし。うべなり(もっともである)。

千載せんざい千年せんねんえる長い年月ねんげつ)のもと大神おおかみ神徳じんとく赫々かくかくたること。いかでかこれ祭祀さいしせざるをんや。

くの大忠だいちゅう至誠しせい大元氣だいげんきは、ついに、ふかく、國民こくみん腦裏のうり印象いんしょうして、違勅いちょく(天皇の命令めいれいさからう)をつて不臣ふしんきわみとなし、皇室こうしつ御爲おんためには、すすんでし、しては、そくよろこんで護國ごこくの神たらんとする美風びふう馴致じゅんちきたりたるや。(美しいならわしとなってた)。

いかでかこれ欽仰きんぎょうせざらんとしてんやと(このようなことをとうとばずにいられようか)。
しかして、いまや、は、大神おおかみ神徳じんとくを、上文じょうぶんけるところ御沙汰書ごさたしょに、

況や、國家有大勳勞者、爭か湮滅に忍ふ可んやと被歎思食候。依之、其志操を天下に表し、且忠魂を被慰度、今般東山の佳域に祠宇を設け、右等の靈魂を、永く合祠可被致旨、被仰出候。猶天下の衆庶、益節義を貴び、可致奮勵様、御沙汰候事。  
明治元年めいじがんねん五月十日の御沙汰書ごさたしょ京都霊山きょうとりょうざん護國ごこく神社じんじゃに掲載。

とあるは、あたかも、皇祖天神こうそてんじんの、大神おおかみたま神勅しんちょくたるもあり。

しかして、これにりて、維新以来いしんいらいよろこんで護國ごこくの神となりしもの、幾千いくせん萬人まんにんぞ。
わが祭神さいじん高潔こうけつまた大神おおかみ勇退ゆうたいたりとべし。

しかして、明治めいじ皇業こうぎょう明治維新めいじいしんと、天孫てんそん降臨こうりんのことは、皇祖天神こうそてんじんと、わが皇上こうじょう仁慈じんじ(天皇の重要じゅうよう徳目とくもくである深い愛情あいじょうめぐみ)なる御威徳ごいとくとにより、大己貴神おおあなむちのかみと、わが靖國神社やすくにじんじゃ祭神さいじんとの一大精神いちだいせいしん發揮はっきしたる結果けっかによりて完成かんせいせし、歷史上てきしじょう二大事件にだいじけんにあらずや。

じょきたれば、くには、じつに、とこしに神の御世みよなりけり。
いよいよくして(靖國神社やすくにじんじゃまつられる神の数が増えていき)、くにいよいよしょうゆ(国がさかえていく)。

神國しんこくとは、けだしなるべし(神の国とはこのようなことを言うのであろう)。

しかして、靖國神社やすくにじんじゃは、

明治めいじの神のあつまたまところ高潔こうけつなる大精神だいせいしん儼在げんざいするところ忠烈ちゅうれつなる氣魄きはく磅礴ほうはくするところ

靖国神社やすくにじんじゃ創建そうけん以降いこうまつられた神となった人々ひとびとあつまるところ気高けだか立派りっぱ精神せいしん存在そんざいするところ忠誠心ちゅうせいしんあつつよ精神力せいしんりょくちているところ)、

長く、國家こっか元氣げんき發生はっせいする淵源えんげん根本こんぽん)なりとべし。
嗚呼ああ、いかでかあおとうとまざるべけむや(あおとうとばずにいられようか)。

以上いじょうになります。
この賀茂かも百樹ももき宮司ぐうじ解釈かいしゃくについては、賀茂かも宮司ぐうじ参戦さんせんした朝鮮神宮ちょうせんじんぐう御祭神ごさいじん論争ろんそうげるさいあらためて説明せつめいしたいとおもっています。


明治天皇めいじてんのう御製ぎょせい比叡山ひえいざん日吉ひよし七社しちしゃ権現ごんげん北辰ほくしんしたる證歌しょうか

比叡山ひえいざん日吉七社ひよししちしゃ権現ごんげん北辰ほくしんしたる證歌しょうか

平安へいあん時代じだい陰陽道おんみょうどう発達はったつ普及ふきゅうすると、北東ほくとう丑寅うしとら)を鬼門きもん、その反対はんたい南西なんせい申未ひつじさる)を裏鬼門うらきもんきらうようになりました。
そのため平安京へいあんきょう北東ほくとう鬼門きもん)に、わざわいおさえるためにもうけられたものが、延暦寺えんりゃくじ日吉ひよし大社たいしゃ貴船きふね神社じんじゃ鞍馬寺くらまでらでした。

鞍馬寺くらまでらにある「三角形さんかくけい

そのうち日吉ひよし大社たいしゃは、天台宗てんだいしゅう比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじぞくし、明治めいじ維新期いしんき神仏しんぶつ分離令ぶんりれい強引ごういんかみほとけけられるまでは、日吉ひよし権現ごんげんまたは山王さんのう権現ごんげんばれ尊崇そんすうされていました。
日吉ひよし七社しちしゃ権現ごんげんとはこの日吉大社ひよしたいしゃ祭神さいじんの7つのやしろのことをします。

滋賀県大津市おおつし日吉ひよし大社たいしゃ山王さんのう鳥居とりい

江戸城えどじょう南西なんせい裏鬼門うらきもん)にまつられ、長く江戸えどのまちを守護しゅごしてきた日枝ひえ神社じんじゃ(東京都千代田ちよだ永田町ながたちょう)も、この山王さんのう信仰しんこうもとづくものでした。

三角形さんかくけい破風はふ(屋根)が特徴とくちょう日枝ひえだ神社じんじゃ 山王鳥居さんのうとりい

日枝ひえとは比叡山ひえいざん比叡ひえのことで、貞観じょうがん2年(860年)に近江国おうみのくに滋賀しがけん)の比叡山ひえいざん日吉ひよし大社たいしゃ勧請かんじょう分祀ぶんし)したと伝わる、武蔵野国むさしのくに入間郡いるまぐん川越かわごえ(現在の埼玉県さいたまけん川越市かわごえし小仙波こせんばまち)の川越かわごえ日枝ひえ神社じんじゃから、文明ぶんめい10年(1478年)太田おおた道灌どうかんによって江戸城えどじょう勧請かんじょうされました。

その江戸城えどじょうはい江戸えど幕府ばくふひらいた徳川とくがわからも尊崇そんすうされ、その例祭れいさい天下てんかまつり山王さんのうまつりばれ、江戸えど人々ひとびと信仰しんこうあつめました。

しかし、残念ざんねんなことに山王信仰さんのうしんこうの中心であった、比叡山ひえいざん日吉ひよし大社たいしゃ廃仏毀釈はいぶつきしゃく運動うんどう火付ひつやくとなってしまいました。

苛烈かれつ廃仏はいぶつ運動うんどうのため、長い歳月さいげつ大切たいせつにされていた神仏しんぶつ混合こんごう時代じだい祭祀さいしは、仏像ぶつぞう仏具ぶつぐともえてしまいました。
※廃仏毀釈について Yahoo!ニュース 廃仏毀釈の真実① 廃仏毀釈の真実② 

朝鮮神宮ちょうせんじんぐう勅使殿ちょくしでんおよび社務所しゃむしょ

私は父から、朝鮮神宮ちょうせんじんぐう宮司ぐうじさんと親父おやじ祖父そふ豊田とよだ靖国やすくに)が社務所しゃむしょで話していたことの一つ、として聞いたものですが、この日吉七社ひよししちしゃ権現ごんげん北辰ほくしんしたる證歌しょうかを、明治めいじ天皇てんのうはごぞんじだったそうです。

明治めいじ天皇てんのう招魂社しょうこんしゃ明治めいじ12年靖国やすくに神社じんじゃ改称かいしょう御製ぎょせい

そらにすむ ほしとなりても きみを ともにぞまもる なな神垣かみがき

我国わがくにの ためをつくせる 人々ひとびとの もむさしに とむるたまかき」

神垣かみがきたまかき(玉垣たまがきも同じ意味をもち、神のまつられた神域しんいき外界がいかいとの垣根かきね境界きょうかい)をす言葉です。

平安京へいあんきょう(京都)からみやこ武蔵野むさしの(東京)うつしても、くにやすんずる(くに平安へいあんにする)ために北斗七星ほくとしちせいと、くにいのちかわりにみずからのいのちささげられた、そらまたたほしかずほどの招魂社しょうこんしゃ神々かみがみともに、自分じぶんもまたそのちからのおよぶかぎつくしていく。

明治天皇めいじてんのう和歌わかめた、東京を中心ちゅうしんはじまるあたらしい国造くにづくりの決意表明けついひょうめいだったとのことでした。

信仰しんこう叢書そうしょ

794年の平安へいあん遷都せんとから1868年に東京とうきょう遷都せんととなるまで、1000年以上をえる歳月としつききょうみやこ信仰しんこうされていたものが王城おうじょう鎮守ちんじゅ 北斗七星ほくとしちせい妙見みょうけん菩薩ぼさつ)」でした。

鎮守ちんじゅとは土地や建物を厄災やくさいから守る神のことです。妙見菩薩みょうけんぼさつ北斗七星ほくとしちせい仏格化ぶっかくかした菩薩ぼさつ人々ひとびとすく存在そんざい)であり、北辰ほくしん菩薩ぼさつともばれています。

昭和しょうわ13年(1938年)朝鮮総督府ちょうせんそうとくふおよび所属官署しょぞくかんしょ職員録しょくいんろく 江原道こうげんどう江陵こうりょう建設事務所けんせつじむしょ

 江原道こうげんどうは、高天原たかまがはらから新羅しらぎりたスサノオノミコト(朝鮮半島にわたった出雲いづもぞく)の領土りょうどであったとされる場所です。

その内の江陵こうりょう建設けんせつ事務所じむしょに私の祖父そふ豊田とよだ靖国やすくにと同じ鉄道てつどう書記官しょきかんとして、鎮守ちんじゅ善右衛門ぜんえもんとう書記官しょきかん掲載けいさいされています。

現代げんだいでも線路せんろ敷設ふせつ工事こうじ駅建設えきけんせつなどの起工きこう先立さきだち、その土地の神をまつり、工事作業こうじさぎょう安全あんぜん施設しせつ繁栄はんえいいの起工式きこうしきおこないますが、国の機関きかんである朝鮮ちょうせん総督府そうとくふ鉄道局てつどうきょくでそれらの神事しんじになっていたのが、鎮守ちんじゅ善右衛門ぜんえもんとう書記官しょきかん祖父そふたちでした。

防長ぼうちょう地名ちめい淵鑑えんかん

山口県防府ほうふ多々良山たたらやま周囲しゅういきゅう多々良浜たたらはま達良たたらごうとされています。
聖徳太子しょうとくたいししたい、朝鮮半島ちょうせんはんとうからふね来訪らいほうした百済くだら聖明王せいめいおう第3子琳聖りんしょう太子たいし多々良浜たたらはま上陸じょうりくすると、奈良から聖徳太子しょうとくたいし使者ししゃとしてはたの河勝かわかつむかえにたとつたわっています。

郷土きょうど物語ものがたり徳地とくちあがた出雲種族いづもしゅぞく

その多々良山たたらやま近くをながれる佐波川さばがわ一帯いったいには出雲族いづもぞくが多く住んでいたとされ、琳聖りんしょう太子たいし伝説でんせつと合わせて、妙見信仰みょうけんしんこうもまた出雲族いづもぞくと関係が深いものでした。

出雲大神いづものおおかみ符合ふごうする北斗七星ほくとしちせい 

そして、かみほとけ一体化いったいかしていた神仏習合しんぶつしゅうごうの時代、王城おうじょう鎮守ちんじゅ北斗七星ほくとしちせい(7つのほし)は、それぞれ出雲大神いづものおおかみ異名いみょう別名べつめいてはめられていました。

鼠璞そはく十種じっしゅ

また、北斗七星ほくとしちせいをシンボルとして入れた「北斗ほくと七星しちせいせん」と呼ばれる貨幣かへいが「招魂祭しょうこんさい」に使われていました。

古い時代の招魂祭しょうこんさい中身なかみについては、私の記憶きおくに残っておらず、どのような儀式ぎしきだったのか書き残すことが出来ませんが、北斗七星ほくとしちせいともえんふかい「招魂祭しょうこんさい」が、かたちを変えてがれたもの、それが靖国やすくに神社じんじゃだったという話でした。

すなわち、靖国やすくに神社じんじゃ創建そうけん明治めいじ時代じだいと新しいものの、信仰しんこうとしては古代こだいから続く、出雲族いづもぞく縁深えんぶか重要じゅうようなものだったのです。

明治めいじ天皇てんのう大御心おおみこころ大正たいしょう天皇てんのうがれ、大正たいしょう天皇てんのう大御心おおみこころ昭和しょうわ天皇てんのうがれた。
そして、その明治めいじ天皇てんのう大御心おおみこころはさらにさかのぼって、歴代れきだいの天皇の大御心おおみこころがれたものである」

京城けいじょうに日本が作った大三角形だいさんかくけい 

父によると、朝鮮神宮ちょうせんじんぐう宮司ぐうじさんと祖父そふ靖国やすくには、このような解釈かいしゃく朝鮮神宮ちょうせんじんぐう社務所しゃむしょでしていたとのことでした。
そして、朝鮮神宮ちょうせんじんぐうそのものが、大日本だいにほん帝国ていこくから大韓だいかん帝国ていこくった「京城けいじょう(ソウル)のだい三角形《さんかくけい》」を構成こうせいする一つでした。


靖国やすくに神社じんじゃ行幸ぎょうこう行啓録ぎょうけいろく明治めいじ44年まで)

明治めいじ44年までの靖国神社やすくにじんじゃへの天皇行幸てんのうぎょうこう皇后行啓こうごうぎょうけい東宮行啓とうぐうぎょうけい東宮妃行啓とうぐうひぎょうけい

日本とロシアの激闘げきとう日露にちろ戦争せんそう」が終った翌年の明治めいじ39年(1906年)5月3日とその次の年の5月3日、2年つづけて、明治天皇めいじてんのう靖国やすくに神社じんじゃ行幸ぎょうこう照憲しょうけん皇太后こうたいごう行啓ぎょうけいが行われました。

そして同年とも、その翌日よくじつには東宮とうぐう皇太子こうたいしのこと。嘉仁親王よしひとしんのうのち大正天皇たいしょうてんのう行啓ぎょうけいも行われました。
しかし靖国やすくに神社じんじゃ事歴大要じれきたいようの図にあるように、東宮とうぐうただ一人は、明治めいじ38年、39年に続けて3回目の参拝さんぱいとなっていました。


明治めいじ39年 靖国やすくに神社じんじゃ臨時りんじ大祭たいさい

明治めいじ39年5月靖国神社やすくにじんじゃ臨時りんじ大祭たいさい招魂場しょうこんじょう

この招魂祭しょうこんさいて、国のいのち身代みがわりとなって日露にちろ戦争せんそうくなった人たちが、新しい王城おうじょう鎮守ちんじゅ国土こくど保全ほぜんの神として靖国やすくに神社じんじゃ合祀ごうしされました。

戦利せんり剣塔けんとうおよび東京とうきょう砲兵ほうへい工廠職工こうしょうしょっこう一同いちどうヨリ奉納ほうのうかか半円球はんえんきゅうおよび国旗こっき光景こうけい

万国旗ばんこくきがはためく靖国神社やすくにじんじゃ臨時りんじ大祭たいさい会場かいじょう
サクラのかざりが付いた日露にちろ戦争せんそう戦利せんり戦勝せんしょう記念塔きねんとう来場者らいじょうしゃ

九段坂上くだんざかうえ 戦利せんり銃塔じゅうとう電飾でんしょく光景こうけい
近衛このえ歩兵ほへい第一旅団だいいちりょだん 兵営内へいえいない仕掛しかけ烟火えんか打揚うちあげ光景こうけい

夜空よぞららすサクラのネオンと仕掛しか烟火えんか煙火えんか花火はなびのこと)。

大祭たいさい奉納ほうのう大角力おおずもう横綱よこづな梅ヶ谷うめがたに土俵入どひょういり光景こうけい

第20代横綱よこづな 梅ヶ谷うめがたに藤太郎とうたろうによる奉納ほうのう土俵入どひょういり


嘉仁親王よしひとしんのう行啓ぎょうけい 靖国神社やすくにじんじゃから出雲大社いずもおおやしろへのたび

明治めいじ40年(1907年)5月4日、東宮とうぐう靖国神社やすくにじんじゃ行啓ぎょうけい
この6日後の5月10日、嘉仁親王よしひとしんのうは鳥取・島根への旅山陰行啓さんいんぎょうけいへ出発されました。

それは、幼少期ようしょうき嘉仁親王よしひとしんのう闘病生活とうびょうせいかつさい宮中きゅうちゅういのられていた神であり、靖国神社やすくにじんじゃ賀茂かも百樹ももき宮司ぐうじ禁厭きんよう呪術じゅじゅつ醫藥いやく医薬いやく)のじゅつさだたまたとたたえていた、大己貴神おおあなむちのかみ大国主おおくにぬしのかみ)がまつられている出雲大社いずもおおやしろへともうでる旅の始まりでもありました。

そして、この嘉仁親王よしひとしんのう山陰さんいん行啓ぎょうけい出発しゅっぱつ奉送ほうそう見送みおくり)に、ある重要じゅうよう人物じんぶつが顔を出していました。

これより40年前の慶応けいおう3年(1867年)神代かみよむかし大己貴神おおあなむちのかみ大国主おおくにぬしのかみ)のくにゆずりにならい、明治めいじ天皇てんのうくにゆずりを行った、明治維新めいじいしん最大さいだい功労者こうろうしゃにして、江戸えど幕府ばくふ最後さいご将軍しょうぐん徳川とくがわ慶喜よしのぶこうでした。

山陰さんいん行啓録ぎょうけいろく奉送者ほうそうしゃめい徳川慶喜とくがわよしのぶこう

本日はここまでになります。ありがとうございました。




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