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男の身体に子宮ができる日

こんにちは、しえるです。
今週のポッドキャストは、「女が料理をするべき」とか「男なんだから泣くな」とか、社会的に求められがちな性別特有の「らしさ」について。

できる方がやればよい

私自身は、あまり男とか女とか意識しない環境で生きてきたけれど、娘を二人育てていて、「女の子なんだから~~~」「女の子なのに~~~」という物言いをするものか!と最初の頃は意識していた。(「お姉ちゃんなんだから~~~」も然り。)いまはもう特に意識していないけれど、自然とそういう発言はしていない。それでも身体がだんだん発達してくると、「女の子なんだから○○に気をつけろ」とか言いたくなってしまい、口まででかかって「女の子なんだから」の部分を別の言葉に置き換えたりする最近だ。

とはいえ、性別で身体的特徴は分かれるわけで、「できる方、得意な方がやればよい」という意味では、たとえば「高いところ」「重いもの」に関わることは男性に偏りがちなどはあるかもしれない。でもそれはグラデーションだから、背が高い女性もいれば、筋肉の少ない男性だっているわけで、その時々で向いている方がやればよい、それに尽きる。

さて、身体的特徴・性格・得意不得意などを鑑みて、何事も「できる方がやればよい」と思うし、自分ができることは気楽に「これは私の方が得意だから私がやるね!」と言いたい。そんなことを考えながら、いま自分の大きくなっていくお腹を見て思ったこと。
「子宮は私にしかないから、私が妊娠と出産しとくね!」とは思えない。圧倒的性差に絶望すら覚える。

得意とか不得意とかグラデーションすらもない性差

夫婦二人の子どもなのに、どちらが妊娠するかとか、どちらが出産するかとか、検討の余地もないというこの現実は、当たり前のこと過ぎて疑問を抱く人はむしろいないのかもしれない。だけど、今週のポッドキャストを聞きながら、「子宮」という身体的特徴はグラデーションすらなく、妊娠と出産は全自動的に女性の身体にのしかかってくるということを不思議に思った。

赤ちゃんが大きくなるのは嬉しいのだけど、変わる体型に心が追い付かず、服装も追いつかず、体力も追いつかず。赤ちゃんに会えるのは楽しみだけど、あと数か月で一時離脱しなくてはいけない仕事の割り振りを考えながら、本当は働きたい自分はやはり寂しさや悔しさが頭をかすめる。ボロボロになった身体に睡眠不足や体調不良が重なり、生きるだけで精いっぱいの産後数か月を思うと憂鬱になったりもする。それらが、男性にはないのだ。
子宮が女にしかない、というそれだけで、こんなに違うのだ。
自分の身体にも、社会生活にも、精神状態にもほとんど変化を及ぼすことなく、ある日子どもが生まれる。

実際男性の産後鬱もあったりするようだし、いまは育休を取る人もいたり…という中で、こういう書き方をすると反発がありそうだけれど、それだとしても圧倒的に女性に押し寄せる「受け入れざるを得ない変化の大きさ」たるや…。

(妊娠してない方の気持ちを考えた記事はこちら↓)

昔とは違う現代社会

女性の社会進出が声高に叫ばれているけれど、妊娠出産・不妊治療・育児(授乳)…結局キャリアが断絶されるのは、身体的特徴ゆえ女性になってしまう。そう、まさに「女なんだから」である。
女であることをそこまで意識せずに生きてきていたというのに、これでもかというほど思い知らされる。そして日々、悶々モヤモヤするのだ。

なんでこんなにモヤモヤするんだろうか。

戦ったり狩猟したりしていた時代は、それこそ筋肉が必要で、外での仕事は「男性が得意」な領域だったんだろう。それが苦手な女性が、出産して育児して家事して…というのは、うまく役割分担ができていたのかもしれない。餅は餅屋、的な。得意なこと・できること、をお互いやっていて納得感があったのかもしれない。戦いも狩猟も出産も、どれも命懸けであるし。

だけど現代社会では、原則的には戦ったり狩猟したりは主ではなくて、みんな別の仕事をしている。そして雇用機会は男女均等と定められ、女性の社会進出と叫ばれ、女性も男性と同じように仕事をしている人が多い。なのに、妊娠と出産、不妊治療の場合は突発的なスケジュール調整や身体的負担、母乳育児の場合は女性が対応せざるを得ない…等々、そこだけは身体の仕組みが変わらないのだから、いまも変わらない。ましてや、卵子の数や質が…とか、閉経が…とか、タイムリミットまで設定されて時期すら選べない。
妊娠機会は男女均等なんて定められるわけもなく、男性の出産進出なんて囁かれもしない。だから、いろんなことが捻じれるんだ!だから、いろんなことがうまくいかないんだ!だから、こんなにモヤモヤするんだ!

公平だの平等だの均等だのと言われながら、身体のつくりが違いすぎるのだから、結局どこかでひずみが起きる。

膨らむ、近未来的妄想

ならば仕方ない、やはり女性は家庭でおとなしくしていることが、本来の「平等」なのである。わけがない。

ふと思った。
宇宙旅行ができる世の中なのだ。
IPS細胞で身体の組織が再生できるかもしれない世の中なのだ。
ブタの心臓をヒトに移植した実績がある世の中なのだ。

男性に子宮を作る、という未来があり得るかもしれない…。
「子どもが欲しいね、今度はどっちが産む?」
「そうだな、今年は仕事も落ち着いてるし、今回は俺が産もうか!」
「前回とても大変だったから、そうしてくれると嬉しいな。受精卵をあなたに移植するね。」
とか。

いや待てよ?受精卵が外界で十分生きていける状態の新生児になるまでを、そもそも子宮外で成長可能にするような機器を作ったら良いのではないか?!子宮と同じ環境を再現したような、保育器のもっともっと進化版のような。書きながら、すでにどこかが研究したりしているのかもしれないとさえ思う。

倫理的観点を無視した発想ではあるが、いま社会が向かう方向と整合性を取り、進歩する医療と科学を考えると、何百年も先の未来なのかもしれないけれど、無くはない…と本気で思ってしまう。

もしそうなったら、本当に男とか女とか関係ない世界になる。関係ないどころか、意味がなくなる。意味がなくなったら、進化論的に考えると全員中性的になって、どんどん均されて、そして滅びるんだろうか。
考えだしたらキリがない。脳内がSF状態だ…。

いま思うこと

脳内は未来にトリップしたけれど、いまは「現代」。
とりあえず私が生きているうちには、「夫よ、今回は出産宜しく!」という未来は来ないであろうから、現実と向き合って受け入れるしかない。

日々自分のお腹が大きくなって、別の人物が自分の中で育っているという事実。いま自分の身体には心臓が2つあるという、奇妙な体験。それを面白がることくらいしかできないから、せめてそれを楽しむか…という気持ちである。やっぱり腑に落ちなくてモヤモヤしている。笑

元も子もないけど、性別ってなんなんだろう…そんなことを思う夜です。

おわり


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