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SFへの苦手意識


SFが苦手だ。
別に、小難しいと感じるわけではない。小学校の教科書に星新一の作品が載っているくらいなのだから、難しいはずがない。
SFを読んでいると、言いようのない恐怖に襲われるのだ。
もちろん読んだSF作品が少ないことも大きな原因だが、手軽に読めるショート・ショート集ですら最後まで読み切ることができない。

SFを読んでいると、どういうわけか自然災害の類に対する恐怖がむくむくとわき上がってくる。
あまり読んだ作品が多いわけではないので、断定はできない。しかし、SF作品のオチは必ず背筋がゾッとするものになっている気がするのだ。
人間の過ちを責められているように感じる。実際にそうした意図はあるのだろうが、過ちに相当する報いが恐ろしくなるのだ。その報いをイメージするにあたって具体的な案がないから、自然災害という分かりやすいモチーフが思い浮かぶのだと思う。

人間が過ちを犯しているのは事実だと思う。環境問題や出生前診断のように自然を端から否定するような問題が、今の社会には発生している。小学館の新選国語辞典(第9版)によると、自然とは「わざわざ手を加えなくても、ひとりでに、そうなるようす」のことを指す。
つまり、ひとりでに起ころうとしている物事に、人間は介入しすぎなのである。それも自分たちの得だけを考えて。

今日、草上仁・作『5分間SF』を読んでいた。SFが苦手な自覚はあったのだが、いつも似た系統の本ばかり読むのもどうかと思って読み始めた。買った当初の私はおそらく、SF好きの周りの影響を受けていたのだろう。
そして、半分まで読んだところで力尽きた。具体的には、『ひとつの小さな要素』という話が終わって、次の話を読み始めたところだ。
そして、「放射能」「生物兵器」という単語を見たときに、全く物語と関係ない空想が脳内に流れ出したのである。

突然起こる地震、あっけなく死んでいく大事な人たち。それを目の当たりにしながら自分は生き延び、ある日頭に衝撃を感じて意識ごといなくなる。

物語と微塵も関係なくて自分でも不思議に思う。
しかし、SFを読んでいるといつもこのような空想が流れ出してしまうのだ。
それはきっと、人間の命をあっさり奪える物を示す言葉と、どこか恐怖を感じさせる世界観によるものだ。そしてそれは、放射能や生物兵器もそうだが、ほとんどの場合人の過ちによって引き起こされている。

地震は人の過ちではない。
しかし、人類が自分勝手に文明を築き上げた結果に、そのような報いがあってもおかしくないと感じてしまうのだ。

私には空想癖があり、いつ何に刺激を受けてどういったことを考えるかわからない。
しかしそれには私なりの根拠があり、こうして1人恐怖を抱えることもまれにあるのだ。


でも、みんなが楽しんでいるものを、私が楽しめないのはもったいない気がする。
10年後でもいいから苦手を克服して、リベンジしたい。そのときに読む本はもちろん、『5分間SF』だ。

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