【虐待の後遺症と向き合う】サバイバーの陥るジレンマ
回復の途上。どこかで必ずといって良いほど陥るのではないかと思うジレンマに、よくぶつかる。
果てしない「if」を夢想してしまうこと。
もしも、自分が虐待を受けずに育っていたら?
もしも、あの時あんなことが起こらなかったら?
もしも、違う親に育てられていたら?
もしも、被害が続かなかったら?
もしも、もっと早くに対応できていたら?
もしも、もっと早くに知識を得られていたら……
可能性が分岐する「もしも」の瞬間は果てしなく存在する。
思いを馳せる「もしも」の世界線に生きる僕たちは、夢想するたびに同じ流れをとることもあるし、違う様子を想像することもある。
切なさは可能性がひとつに定まらないことではなく、可能性が「現在より良い」ように見えてしまうことにある。
だが同時に、その「if」の世界には存在しないものもある。
他ならない「今ここにいる自分」だ。
もしかしたら今の自分には、虐待被害のおかげで出会った大事な人たちがいるかもしれない。
サバイバー仲間、自分を深く理解してくれる仲間など。
あるいはこれまでの人生でたどってきた決定的な瞬間や、あれがなければ決断しなかったと思えるような進路、仕事、居住地、暮らし方等々……。
「もしも、被害を受けなかったら」と夢想する裏側にはいつも、「今の自分はここにはいないだろう」という事実がはりついている。
僕には後悔していることがたくさんある。
僕の身に起こらなければよかったのにと思う出来事がある。
けれども「もしも、それらが僕になかったならば」、仲良くならなかっただろう友達がいて、分かり合えなかっただろう相手がいて、共感できなかっただろう言葉がある。それらは疑いようもなくこの世界に存在してしまっている。
だから僕は、「もしも」を夢想して現在に絶望しかけても、どうしても僕でいることをやめることができない。
僕はここにたどりつくまでに僕が取った、すべての選択肢を覚えているわけではない。
もしも人生を最初からやり直せるとして。今の記憶を持ったまま過去に戻れるとして。
僕はどうしても当時と同じ振舞いはできないだろう。つまり、過去を改変してしまう。改変した過去からは改変した未来が生まれるだろう。
僕は違う人間になるだろう。それがより良い人間なのか、悪い人間なのかは分からない。
けれど確実に言えるのは、現在という地点まで繰り返しの時間軸が追いついた時、そこに立っているのは「僕」ではないということ。
もしかしたら、今大切に思っている友達と出会いそこねているかもしれない。
違う形の人間関係を持っているかもしれない。
あるいは、ただ街中ですれ違っただけの人になってしまっているかも。
そもそも出会いすらしない時間軸に変わってしまうかも。
可能性の想像に浸るだけで、耐えられないほど寂しくなる。
それがジレンマ。
僕たちの身に起きた出来事は変えようがなく存在していて、その出来事のおかげで出会えたことや人がいくつもある。
けれどもしも「その出来事」自体がなかったら、もっと楽しくて気楽な人生を歩めていたかもしれないとも夢想できてしまう。ただでさえサバイバーにたくさん降りかかるハンデを背負わず済むならどれほど……と考えずにはいられない。
人生のあらゆる瞬間、いついかなる時にも、僕たちはこの想像に立ちかえり、繰り返し、考え続けるだろう。
今立っている地点から過去と未来を見回して、あったかもしれない他の可能性を夢想する。何度もジレンマに苦しめられる。
そのたびに信じるしかない。今僕が歩んでいる道が、せめてBESTではなくともBETTERではあるかもしれない、と。
文責:直也
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