見出し画像

止まった時計【エッセイ】

「解離」が現実から、今・ここから意識が離れることだと表現するなら、フラッシュバックはタイムスリップとほぼ同義だろう。
僕たちは何度も「無数のあの日、あの時」を追体験する。鮮明に。詳細に。
タイムマシンが発明される前に、人類は思考の中でのタイムトラベルを可能にするのかもしれない。

閑話休題。


最近、怒りという感情の扱いに困る時期を過ごした。

ままならないことが起きると瞬間的に苛立ちが湧く。
原因は大きなことから小さなことまで。例えば、持った皿が思ったより少しだけ大きくて棚の扉に当たったとか、閉めようとしたフタが少しずれて一度で閉められなかったとか。

こういうことが起きた時、苛立ちを感じるのは往々にしてなおだ。
だが、腹立たしくなり、暴れたい衝動が湧いて――棒立ちになってしまう。行動としてはほとんど何もしない。周りに誰もいない時でさえも。

怒りと同時に思い出すのは父親のこと。父が苛立った時の荒々しくなる日常動作と、それを真似て怒りを表出した時に自分だけが怒られた理不尽。

つまり「怒りを表現すること」が「あまり推奨されないやり方であること」と「叱責」に繋がって印象付けられているのだ。

怒りを感じていることは分かるけれど、それをどう表出して良いか分からない。やり方を間違えれば叱られる気がするし、苛立った人と同じ屋根の下にいるのは辛いものがあると経験的に知ってしまっている。

だからじっとして、黙って呑み込もうとしてしまう。抑圧する。

というより、抑圧以外のやり方を知らない。怒りの表出の方法が、7歳で止まってしまっている。

直の時計は止まっているのだ。



話が別のパーツに変わる。今度は主について。

先日『本当は「主」なんていないんじゃないか』という記事を書いたが、その後僕は主を見つけることに成功した。


正義感が発揮される場面で、数秒だけ表に出てきた。
主は素直で正義感の強い人であるようだ。

主もまた7歳だった。

直との見分けがつくのは、主は性自認が女の子であるからである。(直は男の子である)

少し話をしたが、生きることに興味も自信もなく、僕が改めて全体の統括や日常生活を主に担うことを確認しただけの形になった。

主の時計も止まっていた。



これは直と主だけに発生している現象ではなくて、むしろ僕も含めた人格たちすべてが抱えているものだと思う。

パーツたちは各々の年齢と記憶の段階を持っていて、肉体だけが年をとっていく格好だ。思い出と出来事が、断続的に積み重なっていく。

つい昨日も、友だちと話していた亜麻ああさが「このあいだ」と前置きして高校の頃の話をはじめたものだから、当時から交流のある友達をびっくりさせてしまうという出来事があった。
「もう10年くらい前だよ?」と突っ込まれた。その通りである。

同時に16歳の亜麻にとっては、当時のことも、数日前に食べたおいしいケーキのことも、横並びに「このあいだ」なのだ。嘘を言ったつもりはない。むしろ意図せず出てしまった言葉だった。



もしも人間ひとりひとりの中に、体感時間や人生そのものの時間を刻む時計があるとしたら。

僕たちの時計は、あの一般的な円盤型をしてはいないんじゃないだろうか。

数字が12よりも多く書いてあったり、針がたくさん回っていたり、すでに円盤型ですらなく、より空間的三次元的な形をしていさえするかもしれない。

僕たちが記憶と現在のあいだを自在に、あるいはフラッシュバックによって強制的に行き来しているあいだ、円盤型の時計ではそのプロセスを追うことができないだろう。
だから時間が止まってしまうのではないか。

この時計は止まったままなのか、あるいは僕たちが生きている間にふたたび動き出すことがあるかどうかは、分からない。

分からないけれど、僕たちは独自の時計を手に入れてしまったのだと思う。捨て方も戻り方も、戻った方が良いのかどうかも分からない。

ならば戻ろうとじたばたするのはやめて、僕たちのスケールで生きられたらいいな、と思うのだ。



文責:直也


サムネイルの画像はPixabayからお借りしています。

読んでくださりありがとうございます。良い記事だな、役に立ったなと思ったら、ぜひサポートしていただけると喜びます。 いただいたサポートは書き続けていくための軍資金等として大切に使わせていただきます。