解離を秘匿しようとする、本能的防衛反応
健忘を伴う解離性障害を持つ人にフォーカスした文章の中で、こんなフレーズを2度ほど見かけたことがある。
「自分が解離しているとは思わなかった。記憶が飛ぶな、忘れっぽいなとは思っていたけれど、みんなこんなものだと思っていた」
自分が解離していることに気づくのは難しいようだ。確かに3大疾病に比べれば、解離の認知度はまだまだ低く、誤解や偏見も多い。だが僕は「解離の自覚のしづらさ」について、他の理由もあるのではないかと考えている。
解離の自覚はなぜ危険か?
解離は強いストレスやトラウマから、自分を守るために起きる反応である。
逆に言えば解離しているということは、強いストレスやトラウマにさらされている/さらされた経験があることを表す。サバイバーにとっては、この自覚までもが危険になりうることもある。
逆境体験の渦中にいる時、生き延びる手段として価値観を歪ませることがある。「自分は、それをおかしいと思う」などと感じたとしても封印して、虐待者が正しいくて自分は常に間違っていると思いこんだり、「世界には自分より大変な思いをしている人がいるから、自分はまだマシなほうなんだ/恵まれた環境にいるんだ」と思いこんで、被害を矮小化したりする。これはトラウマの渦中を生き延びる上で役に立つ。
自分は辛い状況に置かれている、という「正しい理解」をしてしまうことで、逆に我慢の糸が切れて動けなくなってしまう場合があるからだ。
親権の中にとらわれた子どもや、経済的自立を奪われた夫・妻など、すぐには辛い状況を脱するのが難しい人の我慢の糸が切れることは、最悪命にかかわる。
価値観をバグらせてでも生き延びる――。意識的にせよ無意識下にせよその決意をした肉体は、「自分は大丈夫です」と思いこまなければならない。間違っても解離しているなんて、辛さの限界をとうに越えているかもしれないなんて、気づいてはいけないのだ。
難しいのは、ストレス環境を抜け出したからといって、バグらせた価値観(認知の歪み)がすぐには元通りにならないことである。価値観の軌道修正や再学習には長い時間がかかることが多いし、フラッシュバックと隣り合わせの危険な道のりになりがちだ。理解し支えてくれる知人友人仲間がいると心強さが増すだろう。
無意識の防衛反応
解離性障害の診断を下された当事者は、「みんなこんなものだと思っていた」と感じるのに、なぜか診断が下されるまで解離人格たちは「主人格のふり」を続けている。
他人に「記憶が飛んだりしないか?」と尋ねたり、人前で人格の交代がはっきり起こるのはまれではないだろうか。
周囲の人は「会うたび雰囲気とか違うな」と感じることはあっても、僕がこれまで触れてきた文献の中で、「家族友人警官医師以外の前で交代し驚かれた」という証言は見たことがない。
解離人格たちは主人格を守るために生まれる。「守る」とはつまり「生存を続ける」ということではないかと思う。解離人格たちは誰に教わらずとも「主人格に擬態することが、生存の上で役に立つ」ことを学ぶらしい。それはなぜなのか。
小難しい言い回しになるが、僕は「解離という防衛反応を隠しておくことこそが防衛反応の役割を果たしている」と考えている。
外敵から身を守ろうとするのは、自然界で生き抜く上で大切な本能だ。体を丸めたり、素早く逃げたり、逆に威嚇したりして、命は「生存すること」を続けようとする。
だが逆に「身を守る」という行為は「私はあなたに勝てない」というメッセージにもなりえてしまうのではないだろうか。
正面からやり合って勝てるのなら、戦うという選択肢も生まれよう。相手と力の差がありすぎるから、「身を守る」行為が成り立つのだ。
防御策を持つのと同じくらい、「敵に手の内を明かさないこと」は重要だ。主人格に擬態すること、自分の解離に気づかないでいることは、自分にすら防御方法を知らせずに身を守り続けるための、苦肉の策なのかもしれない。
文責:直也
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