きっかけ【僕とパーツの人生紀行】
はじまりは1冊の本だった。
人はトラウマに遭うとある種の解離を起こし、ひとりだった「自分」は「パーツ」に分化するのだという。
これが僕たちに起こっていること、起こってきたことを、一つ残らず説明してくれた。
耐えがたい過去の罪悪感に囚われて死を考えることも、
同時に来週の親しい人との約束を待ち遠しく思うことも、
堅実に人生の計画を考えることも、
その次の日には衝動に任せて計画を全部壊してしまうことも。
僕らは集団生活をしていたのだ。
思えば以前から、文章においても「なぜだろう」と思えることが起こっていたかもしれない。
前日書いた自分の文章。それは紛れもなく自分が書いた、ペンを紙に走らせた記憶があるものなのに、「なんでこんなことわざわざ書いたんだろう」と思えるほどに赤裸々で、とても恥ずかしいものに思えたり。
あるいは「こんなこと、別に大したことないのに。どうしてこんなに突き詰めて考えたんだろう、自分は」と思うようなことを、深く悩んだ形跡があったり。
主は、思いつくそばから書きたいことが走り出すから文字も走りがちだけど、僕は手書きののんびり感が合っていて、のんびり字を丁寧に書いていても、書きたいこと、表現したいことを覚えてられる。これは他のパーツたちとは違うところだ。
だから、僕と主の筆跡は微妙に違うのである。
一方で、僕は記憶と、文章を書く力だけは共有している。
記憶に感情はついてこないから「どうしてあんなことで深く悩んだんだろう」となるわけだが、悩んでいたこと自体は記憶しているのである。
僕はチャネリングをする時も、いわゆる「トランス状態」に入ることを避けているので、「記憶を失った」という記憶はない。
つまり、「解離性健忘」にはあてはまらない。と、自分では思っている。
けれど、僕の中に複数の「パーツ」たちがおり、それぞれ趣味指向が少なからず異なっているというのは、僕の状態を的確に説明し、また納得させてくれるものだったのだ。
自分で「買った」「家に置こうと思った」持ち物たちと、その質の無秩序さ。
この文章を書いている今、主は文章を書く僕を認識しつつも、少し離れて見ているような感覚である。僕も見られていることを意識している。
小説を書く時、キャラクターがしゃべりだす感じに似ている。
もしかすると僕たちが「パーツ」として認識される前、僕たちはキャラクターたちと混在しながら共存し、彼らの口を借りて今まで動き回ってきたのかもしれない。
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