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絶対的存在への服従         愛国者学園物語97

 自分の言葉がうまく出てこない苛立ちを感じながらも、美鈴は言った。
「こんなことを尋ねていいのかしら。西田さんは神を求めてらっしゃるんですか」


彼は美鈴を見て微笑んでから答えた。
「かつてはそうだったと言える。熱心に神を求めていたわけではないが、私の人生、特に若き日における一つの関心事であったことは事実だ。私は宗教に深く関わらない家庭で育った。宗教的行事と言えば、祖父母の葬式と初詣、それに墓参りぐらい。神道と仏教の行事を混ぜた日々を送っていたから、大多数の日本人と同じ宗教観を持って生きてきたわけだ。


 そんなある日、テレビで興味深い映画を見たんだ。英国映画の『炎のランナー』だよ。ご存知かな」
「ええ、名前だけです。見たことはありません」
「1924年のパリ五輪を舞台にした、英国選手たちの物語だよ。ヴァンゲリスが担当した音楽、特にそのメインテーマは多分、美鈴さんも聞いたことがあるはずの曲だ」
「ネットにあるかしら」
「あるよ」
彼はそれを探し出して聞かせてくれた。


「この映画では、厳格なキリスト教徒が安息日にはレースに出場しないと言い出す場面が心に残った。そういう宗教的な信念は、当時の私には珍しいものだったから。それに、ある歌だ。映画の終わりの方で、聖歌隊が歌う曲に『ジェルサレム』という言葉が出てくる。私にはそれが日本語のエルサレムと同じだとはわからなかった。だが、それが私の、3大宗教の聖地エルサレムとの出会いであり、映画のその曲、英国では第二の国歌と言われる「Jerusalem」との出会いだった。もっとも、その歌詞の内容を知ったのは、それから20年以上後のことだけどね。『炎のランナー』の話はこれで終わり。でも、もう一つあるんだ。キリスト教に関心を持つきっかけがね」


「ある日偶然、NHKで興味深いドラマを見たんだ。国立がんセンターを舞台にした医師たちの物語でね。題名が印象的だった。『命・愛してやまず ガン回廊の炎 国立がんセンターは今』というんだ。1990年4月28日の放送だった」
「よく覚えていますね」
「いやいや、とんでもない。今回、美鈴さんに話すためにネットで調べたんだよ。放送日なんてすっかり忘れてた……。それはね、NHK出身のジャーナリストである柳田国男のノンフィクションをドラマ化したものなんだが、その話の中に、新約聖書のあの一節『愛は寛容にして慈悲あり』が出てくるんだよ。

それで、青い背表紙の講談社学術文庫の聖書に関する本を買って、その一節を省略無しで読んだというわけだ……。私はその後、キリスト教作家である三浦綾子のエッセイ「愛すること信ずること」や小説『石狩峠』を読んだ。書店で偶然見つけた『愛すること信ずること』はその後何度も読み返したけど、『石狩峠』は満足出来なかった。それに、キリスト教信者への過度の賛美を感じたからだ。また、古本屋で塚本虎二なる人物が翻訳した「新約聖書・福音書」の文庫本を見つけて買い、それを少しずつ読んだ。

 だが、キリスト教を信じる気にはなれなかった。それに、他の宗教もね。神がこの世の全てを作り、この世の出来事の全てを支配している。私たち人間は、そのような神を疑問なく受け入れなければならない。そんな絶対的な服従に不信と恐怖感を抱いた。

 それだけじゃない。宗教を深く信じる人たちが多くのトラブルを起こしていることを知った。そのころ、マスコミは盛んにオウム真理教を取り上げては、面白おかしく報道していた。連中の広報担当者をテレビに出して、その主張を日本中に垂れ流した。当時のマスコミがオウムを育てたんだよ。人類史上初の大量破壊兵器テロリストをね。

そういうわけで、20代の私は宗教を欲していなかったが、偶然見つけた、キリスト教信者が書いた小説を何冊か読んだ。その作家による小説には、キリスト教を信じない人間に対する冷たい態度や見下しがあったと思う。だから、それ以降、私はその作家の小説は手にしていないよ。人に対して冷酷な小説は読んでもしょうがないから……。話はそれるけど、たとえ残酷な問題を扱っている小説でも、究極的には、その根底に人間に対する温かさ、あるいは人生に対するポジティブな感情があって欲しいんだ。そんなことを求めるのは私ぐらいかもしれないが」

「そんなことはないと思います」


 「どうも。話を戻すと、自分なりにあちこち旅をし、思考を重ねて、神が自分を救ってくれるのか、具体的にどの宗教が自分に相応しいのか考えていた。京都や奈良の主要な神社や寺院を見て歩いたこともある。イスラム教には関心が持てなかったが、聖典クルアーン(コーラン)の文庫本を買ったこと、それに98年ごろに、聖書 新共同訳を買ったこともある。だが、全くと言っても良いほどそれらを読まなかった。それに、三大宗教の聖地エルサレムにまで行った。あの地が紛争の場であることを承知でね。それに、30代後半に、書店で偶然手にした遠藤周作のエッセイを2冊読んだが、彼の小説を読んだことはない。彼がキリスト教の信者であると知っても、興味が湧かなかった……。

 だが、やがて、私自身に必要なのは神ではないことがわかった。神の名の下に@@を繰り返す世界、神を信じない人を侮辱する人間たちが嫌になった。そして、わかったんだ。

 自分が本当に求めているのは、絶対的存在の拒否だと。絶対的存在とは神だけじゃなくて、社会におけるそういう存在、具体的には独裁者や絶対的権力を持った企業経営者、それに組織の支配者もそうだ。自分の人生において、私は数人のそんな人間たちに出会ったことがある。そういう連中には必ず熱狂的な支持者がいてね、絶対的存在を崇拝していたよ……。

 日本のような集団社会、同調圧力が異様に強い社会で暮らすには、そういう存在に『従わなければいけない』のかもしれない。そう思うと、私は祖国への深い悲しみを感じる。この国には精神の自由さもなければ、自分で意思を決めることすらままならない。誰かが自分に押し付けたものを、ロボットみたいに信じなければ、組織や社会から阻害される。そして、そういう人生に疑問を感じることもない。日本は、そんな自由のない、荒廃した精神の国なのではないかと感じる」

「そして、今の時代。日本人至上主義は神道や皇室、それに愛国心への服従を強制するものだ。神道を絶対視して、それを人に強要するような日本に、神道を信じない人間は天皇に反する人間だなんて主張する日本人至上主義に嫌悪と恐怖感を感じる。私は日本人だが、そういう存在を強制されるのは嫌だね」

 「その一方で、そういう懸念を抱えながらも、私はこの国が好きなんだ。日本人として生まれたことをとても嬉しく思っている。神道だって嫌いではない。日本の自然信仰がああいう形になった。それは、日本の自然の豊かさを意味していると私は思う。初めて伊勢神宮へ行ったときのことは忘れがたい。神秘的な森の中にある、長い歴史を誇る神社に足を運んだことは、これからも私の心に残るだろう。

 それに、私が絶対的存在の否定を主張する人間だから、皇室に反対する人間なのかと他人が誤解しそうだ。だが、私は皇室の存在には反対しない。私は皇室の支持者だ。ああいう文化が脈々と受け継がれてきたこと。そして、皇室がこれからも続くであろうことを良いと思っている。もし私が皇室に反対するとしたら、彼らが強大な権力を振るい、国民を支配するときだろうが、幸いにも、そういうことは起こりそうにない。ただし、日本人至上主義者たちが、世界最古の王朝であり王族である皇室を『絶対的存在』として政治的に利用し、国民を弾圧する道具にするとき、私はそれに『ノー』と言う。それは民主主義や思想・良心の自由、国民主権に反することだ。皇室の話はまたいずれしよう。よろしいかな?」
「はい」


続く

この小説はフィクションです。

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